第二十話 命に礼する
延康元年初夏、長安。抜けるような青空の下、牛や馬の鳴き声や人々の喧騒が穏やかに響いていた。
朱塗りの門からまっすぐ伸びる大通りには、朝から車馬と人が絶えず、遠くの楼と城壁の間を、乾いた風がまっすぐ抜けていった。
府へ向かう役人たち、荷を積んだ牛車、市から戻る小商いの籠が入り交じり、道の両脇では溝の水がまだ朝の冷たさを残していた。
官舎の廊から中庭を見ると、統が小さな木剣を持っていた。昨日の雨を含んだ土が、履物の先についていた。統の少し後ろには、長身の従者が立っていた。
「穂泉、待ってください」
中庭に出ようとすると、寧がすぐに寄ってきて、外衣を私の肩へ掛けてきた。
「風が少しありますから」
襟を指先で整え、帯の端がねじれているのを直し、寧は一歩下がった。寧の指は、少しだけ温かかった。
中庭に面した廊には、王氏が座っていた。淡い色の衣の袖口を膝へ重ね、統の様子を見ていた。
「統、おはよう」
統は素振りを止めて、こちらを向いた。
「父上、今日は遅いのですね」
「今朝は務めがないのでな」
「父上は剣を振らぬのですか?」
「振りたいのだが、父は弱い。だから、成に教授をお願いしているのだ」
微笑みながら、従者の肩を叩いた。
「そろそろ、朝餉にしませんか?」
王氏はそう言って、先に廊へ上がった。
「支度ができております。中にお入りください」
寧もそう言って、奥に消えていった。統は木剣を成に渡して、走って寧を追いかけた。
成は受け取った木剣の柄を指で一度拭い、王氏の方へ目をやった。すぐに私へ向き直り、深く頭を下げた。
「穂泉様、このような待遇をありがとうございます」
成が頭を深々と下げて言った。
「いえ、私たちは全員が家族ですから。あなたの子は、私の子です。どうぞ、お気になさらず」
成は頭を上げて声を張った。
「そうはいきませぬ」
声の大きさに一瞬たじろぎ、人差し指を唇に当てた。成は声量を落として言った。
「この御恩……命を懸けて穂泉様をお守りいたします」
「はい。お願いします」
私は笑顔で答えた。
廊に上がると、奥から、粥の湯気と、焼いた菜の匂いが流れてきた。木の匙が椀へ当たる乾いた音が、かすかに続いていた。
遅めの朝食の後、州府の治所へ向かった。刺史の政務を扱うその一角には、朝から吏たちが出入りしていた。門をくぐると、前庭の向こうに堂があり、その脇の廊を折れた先に室が並んでいた。
その一つの戸を開けると、木簡を広げる低い案と、木簡を収める架が壁際へ寄せられ、中央には人ひとりが通れるだけの間が残されていた。戸口に近い席では若い吏が紐を解き、中ほどでは届いた帳を仕分けていた。
その一番奥、壁を背にして戸口を見渡せる位置に私は座った。私の案だけが少し広く、上には地図と兵站帳が重なっていた。昨日開いた木簡は、伏せたまま端に置いてあった。
「……さて、お仕事ですね」
そう言って右端の帳を手前へ引いた。目を通そうとした時、戸口から使吏がひとり入ってきた。両手で抱えた木簡束の端が少しずれていた。
その紐の赤色を見た。
「あ、それは後ですね。先に青い方、雍州の分を」
使吏が慌てて、青紐で束ねられた木簡を差し出した。私は、受け取った木簡を案へ置き、紐を解いて、順に目を通した。使吏は立ったまま、私からの言葉を待っていた。
「この車列、昨日の時点で渭水を渡れていないようです。橋板が割れたのかもしれませんね」
向かいの使吏が顔を上げた。
「は……しかし、報せはまだ……」
「では、橋板が弱いだけかもしれません。様子を見に行き、弱いようなら補強するよう命じてください」
私はそう言いながら、次の木簡束をもらうため、手を差し出した。
夕暮れ前には官舎に戻った。中庭側の室には、膳が三つ並んでいた。壁際には小さな台と箱が寄せてあった。窓から差す光が椀の縁に当たって白く光っていた。
左には王氏、右には統が先に座っていて、真ん中の膳は空けられていた。私は、その膳の前に座った。
「お待ちしてました。冷める前に頂きましょう」
戸口側に膳が向かい合わせに二つ。私が座るのを確かめてから、寧と成がそれぞれ膳の前に座った。
私が手を合わせると、それを見て全員が手を合わせる。全員で一礼する。
「さぁ、食べましょう」
そう言うと、全員が箸を手に持った。
「父上?」
「なに?」
統がたずねてきた。
「手を合わせることに意味があるのですか?」
「……そうですね」
私は焼き魚の皿を持ち上げて指差した。
「この魚は、成が捕ってくるまで、生きて動いていた」
「……はい」
「米も菜も、全て生きていた」
「……」
統は、箸を置いて、焼き魚をじっと見ながら言った。
「……かわいそう」
焼き魚を膳に戻し、統に向かって言った。
「でも、その命を貰わないと、自分は生きられない。だから、その命に礼をする」
統だけではなく、王氏も寧も成も箸を停めて私を見ていた。
「そうだな……今度、灞河に釣りにいこうか」
口をすぼめていた統が笑顔になった。それを見て、手を打ち、箸を持った。
「さぁ、食べよう」
少し遅れて、箸と椀の触れる音が戻った。中庭には夕光が入り、膳の上の影だけが静かに伸びていた。
東の方では戦は続いていたが、長安では季節だけが変わっていった。その日々に、私は現代を忘れかけていた。
楼から吹き降ろす風が肌寒く感じてきたころ、都の使者から報告を受けた。
「漢の献帝が、魏王様に天下を譲る旨の詔をお下しました」
「……四度目ですね?」
鼻から息を抜きながら答えた。
「ついにお受けなさりました。献帝は退位なされ、以後、魏王曹丕様が天子を称します」
延康元年が黄初元年に変わった。
都が許昌から洛陽へ移されることになり、官廨では人馬の往来が少し増え、にわかに慌ただしくなった。私の元へも命令や報告が頻繁に届くようになった。
まもなくして都からの使者が私の元に来た。
「陛下受禅の慶賀に列せよ。謹んで参れ」
「拝命いたしました。直ちに支度いたします」
私は使者へ一礼し、すぐに旅支度を命じた。
出立の朝、下腹の奥が鈍く重かった。綿と油紙を畳んで旅嚢のいちばん奥へ押し込み、灰を入れた袋をその上に重ねた。
門の外では、洛陽へ向かう馬の鼻息がもう白かった。鞍へ足をかける前に、私は下穿きの内側へ指を入れ、濡れていないことを確かめた。
冷えた革が腿へ当たり、都までの遠さをそこで感じた。何も起こらぬようにと願いながら、私は手綱を取った。




