第十九話 長安へ
郭家から戻り、ほどなく陳倉にも冬が訪れた。冬の渭水は水量が減り、澄んだ冷たい流れになっていた。朝方には川岸に薄氷が張り、川面からの霧が視界を白く遮った。
建安二十五年正月のこと。その日、外では、なごり雪が降っていた。
私は、官廨の奥の室で、長安・関中方面から来た文書に目を通していた。炭火で手足を温めた。火で湯を沸かせば、乾きも和らいだ。
そこに都からの使者が白い息を吐きながら走ってきた。
「郭司馬!」
使者の頭や肩には雪が薄く積もっていた。
「どうなされました? まずは、その雪を払ってください」
「そのような場合ではございませぬ。曹公が……」
「曹公が?」
「薨去されました!」
私は口も目も半ば開けたまま固まった。
――やっと落ち着いたのに……
使者が涙を止めずに伝えてきた。
「曹公より遺令がございます。将兵屯戍の者、屯部を離るるを得ず。各々職を守れ、と」
私は使者を帰し、張郃のもとへ向かった。張郃は城内に兵を集め命じていた。
「曹真将軍は城をしばらく空ける。城門の警備を改めよ。哨戒は一隊増やせ。兵には、余計な噂を流すなと伝えろ」
その声は低く、乱れはなかった。
翌月には、曹丕が位を継ぎ、丞相・魏王となった。献帝より、元号が「建安」から「延康」に改められた。
その慶賀として、百官に一万石の粟と千匹の絹、さらに金銀までもが賜与された。
ほどなくして、また、都から使者が木簡を携えてやってきた。
「郭淮、関内侯の爵位を与え、鎮西長史に除す。鎮西将軍を補佐せよ」
「謹んで拝命いたします」
「さらに……」
私は伏せていた顔を上げ、使者を見た。
「征羌護軍も兼ね、張郃、楊秋をまとめ、羌族の討伐に尽くせ。即日、赴任の準備をせよ」
私は一礼して、木簡を受け取った。
使者が帰った後、張郃が笑いながら声をかけてきた。
「大抜擢ではないか」
「これはどういうことでしょうか?」
私は木簡の字を眺めながら、張郃にたずねた。
「これでおぬしは、戦の際にはわしを使えるだろう」
「儁乂どのが口を利かせたのですか?」
「さぁ? わしは何も言っとらんよ。さぁ、いそぎ長安に向けて出立の準備だ」
張郃は手を上げながら、部屋を出ていった。私は張郃の背中に向かって一礼した。
赴任の支度と言っても、身の物以外に何も持っていなかった。着物を畳んで重ね、冠、帯、木簡の束、印綬と共に、木箱に収めた。
それと、道具箱。
その蓋を開けてみた。蝋板と骨べら、数枚の木板に削った木炭が入っていた。
蝋板を手に取り眺めた。角は傷つき、ところどころに黒い汚れがついていた。うっすらと定軍山の地図が見えた。
その蝋を湯で温めて、表面を均した。地図は消えた。
机の上に置かれた手鏡が目に入った。郭家を出た際に寧に持たされた。傷がつかないように絹にくるまれていた。
絹を解き、鏡を見た。
眉も口元も下がっていた。笑顔を作ろうとしたが、頬の筋肉が緊張して痙攣しだした。
ひとつ大きく息をした後、鏡を絹でくるめて、蝋板と一緒に道具箱に入れた。
漆器、小箱、書物、記録類、贈答品などの整理は、近習にまとめさせた。
出立の日は、よく晴れた春の日差しだった。長安までは、急げば徒歩でも七日ほどで着く。
陳倉を発って東へ向かう道は、山の気配が背に残り、風は乾いていて、行き交う者はほとんどいなかった。
ふとした瞬間に、陽気でウトウトしてしまった。下馬しかけて、近習に支えられた。
「郭長史、お体の調子が悪いようです。牛車に移られますか?」
「いえ、これで構いません。春風に当たりたいのです」
槐里城までは二度目の道だった。東門を出て、別れ道で立ち止まった。郭家へ通じる道の向こうに目を置いてから、南東方向、長安へ進んだ。
すぐに渭水にぶつかった。そこに巨大な木造橋が現れた。
太い巨木を幾本も束ねて組まれた橋脚の上に、厚みのある板が敷き詰められていた。手すりは黒ずみ、馬車が通るたびにゴトゴトと重い音を立てた。
長安に近づくにつれ、畑の畝が整い、道の分かれ目が増えていった。荷を積んだ車、役目を帯びた騎馬、田へ向かう民の姿が多く見えた。
さらに、道には深い轍が刻まれていた。馬の脚だけでなく、牛の歩み、人の足、担いだ荷の重みまでが、同じ一筋の道に積もっていた。
ただ点々と現れていた村や家並みが、連なるようになり、畑の向こうにまで屋根が見えた。
道のわきの店が増え、水を売る者、食を売る者、旅人を当てこんで立つ者が出てきた。
いつしか、前に空が見えなくなった。
遠くに開けた道の先に、長く高い人工の線が見え、そのさらに向こうには、大小様々な塔が建っていた。
同じ方角を進む者が増えてきた。荷車が詰まり、牛が歩みを鈍らせた。
その人の列の先には、大きな門があった。横を見ると、果てしなく壁が続いていた。
門の前では列が折れていた。縄でくくった荷の上に布を掛け直す者がいる。車輪の泥を蹴り落とす者がいる。役人の声が上がるたび、列のどこかが少しずつ動いた。
城門の下へ入ると、影が頭から肩まで一度に落ちてきた。馬が耳を動かし、蹄の音が門の内側で短く返った。
再び光を得た時には、広くまっすぐな道が伸びていた。
両側の塀は長く、戸は閉ざされ、上には影が落ちている。
見上げれば楼があり、見下ろせば砂の上を人の裾が絶えず流れていた。
「これが長安……」
ふいに口から洩れた。私は笑顔になっていた。
焼いた肉の匂いがした。油の匂い、水を打った土の匂い、獣の毛、汗、濡れた縄、香の残り。
どこかで陶器が触れ合い、別のところで子どもが泣き、荷を担いだ男が肩を入れ替えた。楼の影から影へ、人が切れずに動いていた。
前ではまた牛車が軋み、その横を、急ぎ足の役人が抜けていく。高い声で客を呼ぶ女がいて、その向こうでは店先に吊るされた布が風もないのに揺れていた。
官府の置かれた未央宮が見えてきた。屋根の両端では、空を突く黄金の鴟尾が陽光を返し、白玉の階も眩しく光っていた。
金色の獣面が睨みを利かす朱塗りの巨門が、私を出迎えてくれた。
巨門の内側に長史の官舎があった。その門をくぐれば四角い庭に面して堂が見えた。その奥に室があり、左右の廂には小さな房が並んでいた。
庭の土の上には、複数の足跡が残っていた。一本の大きな桜があり、今まさに咲かんばかりに蕾を蓄えていた。
私はその桜の木の下に立ち、思い切り息を吸った。若い桜の匂いを、鼻から肺へ吸い込んだ。
室に上がり、道具箱から鏡を出した。それを自分にゆっくり向けた。
私が想像していた、二十五歳の私がそこにいた。
すぐに王氏に筆をとった。
『長安で一緒に暮らしましょう』
― 第二部 了 ―




