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第十八話 帰れない道

それから、何度か現世の夢をみた。教室でみんなと退屈な話をしていた。マフラーの毛羽(けば)が、首もとに柔らかく触れていた。


だけど、起きれば固い床の上だった。肌寒いのに、腿にヒーターの温もりが残っていた。


胸に巻いた布の端を指で押さえた。ふいに寧の顔を見たくなった。


「儁乂どの、郭家に顔を見せに行きたく、一季(いっき)ほどのお暇を(うけたまわ)りたく存じます」


十月の頭、近習(きんじゅ)と護衛の数騎を、後ろに少し距離を置いて従えた。陳倉を発ったとき、その日の朝焼けの空は、少し高かった。


左手に遠くの山肌を眺めながら、固く踏み締められた官道を東へ馬を進めた。


街道沿いには、苗を待つ麦畑が広がり、遮るもののない平野には、どこまでも真っ直ぐな轍が続いていた。


長安の西にほど近い槐里(かいり)城の東門を出ると、街道は二手に分かれた。南東に進めば長安、北東に進めば咸陽(かんよう)の遺跡だった。風に晒された赤茶けた古城跡を左手にただ平地を進んだ。


その後は、延々と続く平地。畑と畑のあいだに黄土の乾いた道が通り、風が吹くと細かい土が舞い、遠くの木立だけがかすんだ。


黄河(こうが)に橋は無く、船で渡った。抜けるような青い空と、目の前を流れる圧倒的な黄色の奔流が、生きている感覚すらも薄めた。


黄河を渡った後も、同じ景色が続いた。それでも、故郷の太原に近づくにつれ、空気は乾燥し、肌を刺す風が冷たくなっていった。


雨に打たれた日は、寧、郭縕、王氏の顔が頭に浮かんでいた。


三〇日と少しをかけて、私は、郭家に着いた。


門の前で馬を下りた。足を地につけたとき、膝のあたりが重く、ふらついた。従者が手を出そうとしたが、私は軽く首を振った。しばらく、そのまま門を見ていた。


戸が開いた。


内から現れた寧は、私を見て、すぐには何も言わなかった。


「……穂泉? ……淮様ですか?」


目を細め、顔を見定めるように一歩近づいた。


「寧、ただいま帰りました」


寧はようやく笑顔を見せた。


「穂泉、ずいぶんと男らしくなりましたね」


房には王氏が、幼子を膝に抱えて待っていた。


「淮さまも、お抱きになってください」


私はその子を抱かず、頭を撫でた。


「名はなんと申す?」


(とう)!」


「元気でよろしい」


私は、王氏を見て頭を下げた。


「すみません。全てを任せてしまって」


「いえ、これが妻の務めでございます」


「もう少し落ち着いたら、一緒に暮らしましょう。その方がいろいろと便利でしょう」


「はい。楽しみにして待っております。ところで……」


王氏が少し言葉を停めた。私は首を傾げた。


「……そのように改まったお言葉は、おやめになりませんか。夫婦なのですし、それに私のほうが年下です」


「え?」


小さくとも凛とした王氏の顔を私は凝視した。


「今年で十九になります」


そう言って王氏は頭を下げた。


「そうだね。ありがとう」


王氏は顔を上げ、目を閉じ小さく頷いた。


「……それで、親父様、怖くない?」


「えっ、えっ……あ、怖く……はないです」


私は王氏のあたふたする様子を見て笑った。少し遅れて、二人で笑い合った。


井戸のある庭を左に見ながら渡り、奥の白壁に沿って折れ、郭縕の部屋に向かった。時折、家の中に入ってくる風は、草の香をまとっていた。


「淮です。ただいま戻りました」


戸の奥から声がした。


「入れ」


私は中へ入り、郭縕の前に膝をついた。


「遅くなりました」


そう言った私の顔を郭縕もまた、言葉なく眺めた。


「……お前の話は、伝え聞いてはおったが」


小さく話し始めた。


「よもや、これほど立派に育つとは……」


「なにがでしょう?」


郭縕は木箱から鏡を取り出し、私に向けた。そこには私が映っていた。落ち着いて自分の顔を見るのは、婚礼以来だった。


「……あぁ」


もう十八歳の女子高生では無かった。眉間にはしわの跡が残り、目尻が上がり、頬の丸みは無くなり無数の傷跡が残っていた。細く涙が流れた。


「お前は、立派に郭家の人間になった。父としてこれほどうれしいことはない」


――帰りたい


涙が流れ続け、膝に置いた手の甲に染み込んでいった。


「……ありがとうございます」


私は深く一礼し、部屋を出た。廊から中庭を見ると、日が傾き、遠くに見える山肌が赤く染まっていた。


夕膳では、郭縕と私を上座に、家中が並んだ。郭縕は珍しく酒に酔い、先に離席した。


「亡くなられた淮様が戻ってこられた」


「おやじさまは、淮様を重ねてらっしゃる」


私は、夕膳の間ずっと、この言葉に胸を潰されていた。


その後、自分の部屋ではなく寧の部屋に居た。机も衣箱もなく、木箱、籠、布包だけが床に置かれていた。


膝をそろえて座る寧に抱きついた。


「ご家族のお時間を取らなくてよろしいのですか?」


「わかってる。だけど、怖い」


「怖い?」


正座する寧に抱きついた。身体が震え、膝が床に触れ、カタカタと音がなった。


「わたしは誰なの? どこから来たの?」


寧は私を優しく抱きしめ返して言ってきた。


「既來之、則安之」


「……」


「来たものは、それとして安んじる。今ある運命をそのまま受け入れましょう、という言葉です」


抱きつく私の手の力が緩んだ。寧は私を離して、目を見た。


「人は(めい)を持って生まれ落ちると言います。穂泉が今ここに生きていることに、何か意味があるのだと思います」


――帰りたい


「そうとでも思ってないと人生は楽しくありませんよ」


寧ももう少女の顔では無かった。でも、初めてあったときと変わらない表情だった。


「そうだね。ありがとう」


私は涙をぬぐい、寧の部屋を出た。


廊を歩けば、夜空一面に星が広がり、天の川が淡く流れていた。


自分の部屋に戻ると、統は床につき、王氏だけが座って待っていた。


「長い一日、お疲れ様でございます」


「遅くなってごめん」


「いえ、久しぶりの生家、積もるお話もございましょう」


――帰りたい


「あなたとももっと話をしたい」


「そうですね。私も穂泉様ともっと話がしたいです」


「――この時代でなければ」


「え?」


慌てて言いなおした。


「こんな戦の時代でなければ良いのに」


王氏は少しだけ笑いながら言った。


「……えぇ、本当に」


部屋の中では、庭から虫の鳴き声が聞こえていた。


次の日の早朝、私は門の前で陳倉に向けて馬を引いた。すぐそばに近習と護衛が数騎、待機していた。


「おやじさまは、二日酔いとのことです」


寧は笑いながら言った。


「それだけ嬉しかったのではないでしょうか?」


王氏がそれを(かば)った。私は二人に向かって深く一礼した。


「また、帰ってくるから」


私は、他に言葉をつけず、山道に向けて馬を走らせた。


門の内から、寧が統を呼ぶ声が追ってきた。


朝の日差しが、一瞬だけ目に入った。視界が真白になり、それからゆっくりと戻った。


目の前には、陳倉へ戻る道が延々と続いていた。


――もう帰れない。


もう一度目を閉じた。蹄の音が頭に響いた。


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