第十七話 土城の雪
建安二十四年七月。漢中を奪った劉備が自ら漢中王を称し、国名を蜀とした。劉禅を王太子に立てたと報告を受けた。
南東の方向では、劉備配下の関羽が、息子の関平や趙累らと共に、襄陽・樊城に向けて進軍したらしい。遠く鄴では、魏諷という官吏が反乱を企てたとも知らされた。
それでも陳倉には、戦の気配すら無かった。
蝋板はもう使うことがなく、道具箱の中にしまってあった。
私は毎日、官廨の房の中にいた。出される木簡を記録して、集計して紙に記す。ただそれだけを淡々とこなした。
官廨を出ると、新兵たちが訓練を行っていた。遠目からでも、曹真が指導しているとすぐに分かった。
曹真は、胸板が異常なほど厚く、首から肩にかけて筋肉が盛り上がり、首の境界が曖昧になっていた。髪は無造作にまとめられ、頬から顎にかけて髭が濃く伸びていた。
目だけで私を見つけ、すぐに兵の方に目線を戻した。私は一礼して、その場を離れた。
兵の疲れも癒えてきたようで、昼の間は、兵の足音と伝令の声が石畳を埋めた。
角楼へ上がる者、門へ走る者、倉を開けて兵糧を数える者、人が忙しく行き来して、土城は狭く感じた。
その頃から、夜になると、篝火の赤い揺れと酔った笑い声が城内に響くようになった。
広間の戸は半ばまで開け放たれ、酒と汗の匂いが立っていた。
卓の上には、大皿に積まれた羊肉と、皮つきのまま焼かれた鶏が並んでいた。塩は卓にまでこぼれ、酒壺はもう三つ目が開いていた。
曹真に帯同してきた曹洪が、上座で脚を投げ出していた。胸元もゆるめたままで、弛んだ腹が見えていた。片手には杯、もう片手には脂のついた肉を持っていた。
目が合った。顔を逸らしたが、遅かった。
「郭司馬ではないか! どうだ、こっち来ぬか?」
「いえ……私は……」
まぁまぁ、と兵士二人に腕を引かれ、隣に座らされた。
曹洪は指先まで油が光っていた。笑うたび、喉の奥が見えた。
鼓が鳴った。
広間の奥から、薄い絹を重ねた女が二人、足を揃えて出てきた。
肩は出ていた。腕も出ていた。灯火が揺れるたび、肌の色が火に照らされて動いた。
腰には細い鈴が巻かれていて、歩くたびに小さく鳴った。
男たちの視線が一斉にそちらへ寄る。
さっきまで肉を噛んでいた手が止まり、杯を持ち上げたまま口を開ける者までいた。
――どの時代も変わらない。
笛が細く入った。
女たちは顔を上げず、広間の中央でゆっくり腕を開いた。袖が落ち、白い腕が火の色を受けた。
片方が身をひねると、薄い布が腰に張りつき、脚の線がそのまま出た。動きに合わせて胸が揺れた。
酒の入った男たちは、それだけでまた声を立てた。曹洪は杯を口につけたまま、にやにやしてそれを見ていた。
――何が楽しいんだろ。
私は杯の酒を飲み干した。空いた杯を横にいた将に押しつけた。
「無くなりました。注ぎなさい」
睨みつける将にそう言った時、廊から大きな声が届いた。
「郭司馬、そこにおったか。急用だ。すぐ来てくれ」
それは張郃だった。
「途中で離席とは申し訳ない。行かねばなりませぬ」
曹洪にそう言い、張郃の元に向かった。
「面白みのない若造だな」
後ろから声が聞こえた。
張郃と共に部屋に戻っても、戸の向こうから、太鼓の音と笑い声が漏れ聞こえた。
「仕方のない奴らだが、戦の緊張が解けたのであろう」
「……はい」
「おぬしは、酒は好まぬか?」
「さきほど初めて口にいたしました」
張郃は笑いながら言った。
「なんとなんと。その割にはいい飲みっぷりだったな」
私の前に胡坐をかいた。そして、私を見た。
「……なるほど、確かに細いな」
「武芸は苦手ゆえに……」
私は、曖昧に笑って答えた。
「よく見れば、顔も女子のようではないか」
ドクンと胸の音が聞こえた。手の先が痺れた。張郃は続けた。
「安心せい。妙才にも頼まれておったからな」
私は下を向いた。言葉が何も出てこず、ただ指先を細かに動かしていた。
「おぬしには定軍山で命を助けられた。その恩義は守る」
「……はい」
「おぬしがもう前線に出ぬにすむよう、わしから上申しておく」
「え?」
顔を上げて、張郃の顔を見た。張郃は頬に一杯、目尻にも皺を寄せて笑っていた。
「おぬしの知は、もう無視されるところではない。文官には戻れぬだろう」
私は目を大きく見開き、二度瞬きをした。
「されば、わしの分まで采配せい。おぬしの分まで、わしが戦おう」
私は、頭を地に付けた。
「ありがたき幸せ」
その私に張郃は言った。
「儁乂で良い。おぬしのことも伯済と呼ぼう」
「……はい」
張郃が去りかけたところで、私はようやく顔を上げた。
「書くと伯済ですが、読みは『穂泉』にございます」
張郃は一拍置いてから、声を上げて笑った。
「穂泉よ、良く休め。長生きせよ。いつか太平の世を生きられるようにな」
そう言って立ち上がり、部屋を出ていった。
私は、そのまま寝台に横になり目を閉じた。
音を聞いていた。どこかで風が壁を撫でていた。見張りの足音が遠くを通った。
頬に冷たいものが触れた。
慌てて飛び起きた。
目の前には白い粒が舞っていた。濡れた冷気が頬を刺した。白い呼気が私を包んだ。
とっさに自分を見た。制服だった。後ろを振り返れば、そこには体育館が見えた。
薬のような匂いと、凍てつく寒さを感じた。
心臓が一度、大きく波打った。
私は教室に向かって走った。
床を靴で踏む音がする。教室のざわつきが聞こえる。ヒーターの暖かさを感じた。
次の瞬間、胸がきつく締められた。もう無いはずなのに。無いはずの圧だけが戻ってきた。
胸元へ手を入れた。麻布の感触があった。
乾いた空気が喉に触れた。敷物のざらつきが指先に返った。見えていた白い粒は無く、薄暗い部屋の梁が頭上にあった。
小さく鼻から息を吐き、胸を巻いていた布をほどいた。肺が大きくひらいた。肋の下が少しきしんだ。
布を脇へ置き、もう一度横になった。肩の力が抜けると、寝台の硬さが背に返ってきた。
外では、見張りの足音がまた遠くを通った。




