第十六話 黄金の麦
桜が散り、その花びらが地に落ちきるまで、曹操軍と劉備軍は漢水を挟んで動かなかった。
劉備軍は定軍山の険阻に拠り、こちらを見下ろしたまま動いてこなかった。
川の向こう岸に見える定軍山は、こちらから見ると一枚の壁のようだった。裾に近いところは木立に隠れて暗く、上へ行くにつれて土の色がむき出しになり、その途中途中に劉備軍の陣が張りついていた。
白や浅黄の幕が斜面に点々と並び、柵が横に走り、ところどころで旗が風を受けて翻っていた。旗は高いところほどよく見えた。
赤いもの、黒いもの、縁の長いもの。山の峰々を切る空の前で、細く鋭く揺れていた。
こちら岸は、踏み固められた広い平地で、柵と幕舎と兵の影が低く続いていた。
曹操軍は、曹真と徐晃が、陽平関の西側に残った高詳を破り合流したものの、陽平関から東、漢水の南側の平地に広く陣を敷くしかなかった。
私は、軍議の後の地図を蝋板に写していた。補給拠点から前線までの距離は、劉備軍側と比べてはるかに長く、経路も複雑だった。私は蝋板を見つめながら、考え込んでいた。
「郭司馬、何か策はあるのか?」
垂れ布を持ち上げて、張郃が入ってきた。
「いえ、攻めないことが最善です。こちらは細くとも北からの補給が可能です。いたずらに攻めなければ、相手方が先に兵糧切れになります」
「攻めれば?」
「補給線が多く長い分だけ、こちらが不利になります。ただ……」
「なんだ?」
「従弟を殺された曹公に、それを進言できません」
「……そうだな」
山を下りない劉備軍に対して、曹操軍は少し攻めては山裾で撃退されることを繰り返していた。その度に、兵は減り食料は減り、脱走者が増えていた。
長引く戦に、曹操軍は物言わず痩せていった。私は木簡に書かれた人夫と兵糧の数列を眺めた。減少する一方で、収束が見えてこなかった。
――このままだと、こちらが先に全滅する。
この状態が、青葉が山の主役になるまで続いた。
ついに、人夫と兵糧が、攻めなければ負ける閾値に達した。
私は張郃に進言した。
「もう攻めなければ勝てません。少し陽動を仕掛けましょう。これだけ長引けば、相手も兵糧を補給したいはずです」
あえて、定軍山から見えるように糧米を運ばせた。思惑通り、黄忠の兵が荷車を奪いに来た。待ち伏せた軍兵がそれを打ち取った。
さらに楼櫓の斥候から報告があった。
「趙雲がわずか数十騎で向かっております」
趙雲の行き先にはひと部隊を伏せていた。
ところが、趙雲は黄忠を助けると、それ以上は進まず、その少ない兵で戦いながら退いた。
自陣に引いた後、その営門を閉ざさなかった。旗も伏せ、太鼓も鳴らさなかった。それは、私が取った策そのものだった。
追っていたはずの兵がそこで止まった。後ろから次々と兵が来た。兵は押し合い、漢水へ落ちた者まで出た。
――なんでそこで攻めない?
川向こうは静かなままだった。
斥候からの報告を聞きながら、私は顔を動かさなかった。けれど、手に持つ蝋板に、爪の跡が残った。
その夜の軍議に曹操は来ず、楊修が命だけを携えて現れた。
「鶏肋……だそうだ」
全員が言葉を失い、互いに顔を見合わせた。少し間が空き劉曄が口を開いた。
「……どういうことかわかるか? 楊主簿」
楊修は少し顎を上げて答えた。
「鶏のあばら骨は捨てるには惜しいが、腹の足しになるほど肉がついてない」
「……まだわからぬ」
「即ち殿は、『漢中は惜しいが、撤退すべき頃合いだ』とお考えかと」
――今引けば、大敗を避けられる。
次の日から、軍兵は撤退準備を始める――はずだった。
兵糧庫の見回りをしていると、後ろから大きな声が聞こえた。
「徳祖! 流言を広めたのはお前か!」
声のする方を向くと、曹操が楊修に向かって刀を抜いて立っていた。
次の瞬間、血しぶきが飛んだ。私はとっさに顔を背けた。せり上がったものを歯の奥で止め、もう一度飲み込んだ。
「継戦だ! 我らは引かん!」
曹操の掛け声に呼応する者は少なかった。
――負けた……。
その日から、夜な夜な逃げていく兵が増えた。私は見て見ぬふりをした。
五月、全軍撤退の命が下った。
軍中は静かだった。兵からは歓声も不満もなかった。ただ、どこかしこで大きなため息だけが聞こえていた。
私は楼櫓に上り、それを聞きながら、定軍山を眺めた。そこにはまだ、劉備が陣取っていた。
私は陽平関を出て、曹真や張郃らに従い陳倉を目指し、山道を北に向かった。馬を進めながら、一度だけ後ろを振り返った。陽平の山気は変わらなかった。漢水も何事もなかったように流れていた。
ひと月後に、陳倉城に着いた。そこは、関中平野の西端に位置する土の城だった。辺り一面、どこを見渡しても乾燥した黄土色だった。風が吹けば、細かい砂が兵士の鎧の隙間に入り込み、歯を噛み合わせればジャリリと音がした。
城は石造りではなく、土を層状に突き固めた堅固な土壁だった。長年の風雨に晒され、表面には無数の縦筋やひび割れが走っていた。
城内は静かだった。着いた者から粥が振る舞われたが、漢中から流れた兵たちは、誰もが座り込み、空を見上げるかうなだれて、粥に手を伸ばさなかった。
私は、小さな房を貰い、自分の荷物を置いた。軽装に着替え、城の北側へと馬を走らせた。
泥を孕んだ渭水が激しく流れ、南を向けば、空を削るように切り立った秦嶺山脈の黒々とした稜線が迫っていた。
まるで絵画のような光景に、私はしばらく見惚れていた。
村の方に足を延ばしていくと、家々は、城壁と同じく黄土を突き固めた土壁に、麦わらや泥を混ぜた屋根を載せただけだった。
麦畑に目を移すと、一斉に黄金色に染まっていた。それが風に波打つ様子は、いつだったかテレビで見たことのある光景そのものだった。
「……もう……やだよ」
言葉が勝手に口から出た。辺りを見渡したが人影はなく、肩の力を抜いた。
日差しは強かったが、川筋から上がる湿りをうっすら含んでいた。乾ききらない熱気が、涙の渇きを妨げていた。




