第十五話 夏侯の旗
陽平関から出て、曹操軍営へと入った。山から吹き下ろす冷たい風と鹿角の焦げた匂いが、風に乗って営のあいだを這っていた。
定軍山の斜面では、『劉』の文字が並び、人の声より太鼓のほうが大きかった。
頂上に『黄』の軍旗が掲げられていた。
味方の軍には、もはや行軍の列などなく、兵たちは、力なく陽平関の方へ流れ落ちていた。
「どこの隊ですか?」
そう聞いても、返ってくるのは部隊名ではなかった。
「南囲が破れました」
「張将軍のほうへ兵を割かれ……」
「夏侯将軍が……」
馬上で咳を噛み殺した。胸が重かった。
目に入るのは、武器を投げ捨て、腰を抜かして泥の中を這いずり回る者。天を仰いで獣のような咆哮を上げる者。ガチガチと歯の根が合わぬ音を立てている者。
内臓を掴まれたような衝撃が走り、胃液が喉元までせり上がった。膝が揺れた。
私は手綱に指先を食い込ませ、体を支えた。
逃げ惑う足音が地響きとなっていた。恐怖に駆られた男たちの汗と、誰かが失禁した不浄の臭いが、鼻を突いた。
「……静まってください」
震える喉を無理やり震わせ、血の味のする唾を飲み込んだ。
「静まれと言っているのです!」
誰の耳にも届かなかった。背中を冷や汗が伝った。
そのとき、ひとりの騎兵が私の前で馬を降り損ね、膝から崩れた。顔に煤がついていた。息を吐くたび、白い湯気が激しく散った。
「司馬……夏侯将軍、討死……ご子息の夏侯栄様も……」
私は馬をおり、騎兵に目を合わせて言った。
「存じております。張将軍はいずこにいますか?」
「なお散兵を集めております……陽平へ退きつつ……」
私は頷き、立ち上がり、馬に飛び乗った。周囲を見渡し、夏侯の旗を拾い、少しだけ高い丘に上った。砂煙が舞い上がった。
馬首を返し、大きく息を吸った。退いてくる兵の流れに向かって声を張った。
「私は、夏侯淵が司馬――」
逃げていく兵の顔がこちらを向いた。私は、夏侯の旗を高々と掲げた。もう一度、大きく息を吸った。
「名は郭淮、字は穂泉、今、参上仕った!」
一瞬、ほんの一瞬だったが、歓声が上がった。兵が皆、私を向いていた。
「列を乱すな! 張将軍の旗を目指せ! 張将軍は劉備も恐れる名将なり」
声は最初、風に吸われた。二度、三度と重ねるうちに、振り向く兵が増えた。徐々に人の流れができ上がった。
遠くに杜襲が見えた。私は馬を急がせその元に向かった。
「杜都尉、現在の戦況を教えてください」
「張郃軍が退いております。劉備軍はこれを追っております。張将軍は漢水に沿って進み、対岸を射かけるおつもりかと……」
その説明を聞きながら私は目を閉じた。陽平関で見続けた地図を頭の中に浮かべた。杜襲の口から入る情報をその地図に配して、次の流れを予想した。
……当たれば負ける
「杜都尉、私に代わって、兵に張将軍の旗を目指すよう伝え続けてください」
「待て――」
杜襲の返事を待たず、私は馬を鞭で叩いた。
張郃の旗を目指す兵を追い抜き、張郃の元へ急いだ。今まさに川に沿って陣を敷こうとする隊が見えた。
張郃はその傍らの馬上にいた。面長で、目尻は細く上がり、鎧の上からでも身のこなしが軽く見えた。この混乱の中でも毅然としていた。
「張将軍!」
「郭司馬! 体はもう大丈夫か?」
「私のことは良いです。直ちに設営をお停めください」
私は息が整わないうちに、細切れになりながら伝えた。
「なんと? なぜだ?」
「今、杜都尉が兵をまとめながらこちらに向かっております。川際で待たなくとも、渡ってから叩くことができます」
「ならば、なお契機ではないか?」
「いえ、これ以上の損失は全滅を招きます。今、ここで下がれば、劉備軍は警戒し、追撃をやめるでしょう」
返答が無かった。私は語気を強めた。
「曹公は必ず到着されます。それまで、兵をひとりたりとも減らしてはなりませぬ」
張郃は顎髭に手をやり、しばらく目を閉じた。
「……夏侯妙才が、気に入ったわけだ」
目を開けてそう言うと、兵たちに一喝した。
「退いて陣し、敵を致し、半済にしてこれを撃て!」
張郃軍は、一里だけ引いて布陣した。予想どおり、劉備は川を渡って来なかった。私は、軍旗や幕をそのままに、張郃に陽平関へ戻るよう願い出た。
「郭司馬、そなたは戻らぬのか?」
「張将軍は死してはなりません。敵はまだ私を知りません。私がここで将軍の影と成りましょう」
「……しかし」
「兵を少しお貸しください。必ず生きて戻ります」
「かたじけない。必ずや、陽平関で」
そう言い残し、張郃は部隊を率いて陽平関へ戻った。
私は、残った兵に命令した。
「松明と焚き木を絶やさず、竈で湯気をあげてください。ただし、間隔は一定にしてはなりません」
粘土で口の小さな椀を作らせて、その中に大小の石を入れさせた。
これを何個も作らせ、兵の腰にぶら下げさせた。さらに、木板をその上にかぶせた。兵が動けば、いくつもの音が重なり合った。
兵は、同じ場所に留まらせなかった。松明は尾根ごとに時間をずらして増やし、窯の湯気は朝夕で立てる場所を変えさせた。
そうして、火が増え音が大きくなるたびに、兵を少しずつ陽平関に戻していった。
ひと月余りが過ぎ、わずか五百の兵になっても、劉備軍は動いてこなかった。
雪が溶けた三月になり、曹操が陽平関に至った。私は、残した兵糧を全て置いて、陽平関へと引き上げた。
初めて見る曹操は痩せていた。頬の肉は薄く、鼻梁は高く、目だけが鋭く落ち着いていた。白い髭は短く整えられ、指先は細いが関節が太かった。
「妙才が死して、なお乱れておらぬ……」
軍幕に入った曹操が、張郃に言った。張郃は曹操にこう返した。
「この者、郭淮の機転である。杜襲もまた、よく兵をまとめた」
私は杜襲と共に、曹操に頭を下げた。それから、張郃は夏侯淵が死してからの経緯を詳細に報告した。
「なんと……この細い男が……」
曹操が私の顔を見てから、足先まで視線を動かした。顔は動かず、目だけが上下した。
「張郃、引き続き漢中守備を指揮せよ」
「はっ」
「郭淮!」
急に名を呼ばれ、背筋が伸びた。
「張郃を司馬として補助せよ。兵糧を絶対に切らすな」
「承りました」
私は頭を下げた。
軍議が終わり、外に出た。春の風に、淡い花の匂いが混じっていた。望楼に上って山肌を眺めると、至る所で桜が連なって咲いていた。




