表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/27

第十五話 夏侯の旗

陽平関から出て、曹操軍営へと入った。山から吹き下ろす冷たい風と鹿角(ろっかく)の焦げた匂いが、風に乗って営のあいだを這っていた。


定軍山の斜面では、『劉』の文字が並び、人の声より太鼓のほうが大きかった。


頂上に『黄』の軍旗が掲げられていた。


味方の軍には、もはや行軍の列などなく、兵たちは、力なく陽平関の方へ流れ落ちていた。


「どこの隊ですか?」


そう聞いても、返ってくるのは部隊名ではなかった。


「南囲が破れました」


「張将軍のほうへ兵を割かれ……」


「夏侯将軍が……」


馬上で咳を噛み殺した。胸が重かった。


目に入るのは、武器を投げ捨て、腰を抜かして泥の中を這いずり回る者。天を仰いで獣のような咆哮(ほうこう)を上げる者。ガチガチと歯の根が合わぬ音を立てている者。


内臓を掴まれたような衝撃が走り、胃液が喉元までせり上がった。膝が揺れた。


私は手綱に指先を食い込ませ、体を支えた。


逃げ惑う足音が地響きとなっていた。恐怖に駆られた男たちの汗と、誰かが失禁した不浄の臭いが、鼻を突いた。


「……静まってください」


震える喉を無理やり震わせ、血の味のする唾を飲み込んだ。


「静まれと言っているのです!」


誰の耳にも届かなかった。背中を冷や汗が伝った。


そのとき、ひとりの騎兵が私の前で馬を降り損ね、膝から崩れた。顔に(すす)がついていた。息を吐くたび、白い湯気が激しく散った。


「司馬……夏侯将軍、討死……ご子息の夏侯栄(かこうえい)様も……」


私は馬をおり、騎兵に目を合わせて言った。


「存じております。張将軍はいずこにいますか?」


「なお散兵を集めております……陽平へ退きつつ……」


私は頷き、立ち上がり、馬に飛び乗った。周囲を見渡し、夏侯の旗を拾い、少しだけ高い丘に上った。砂煙が舞い上がった。


馬首を返し、大きく息を吸った。退いてくる兵の流れに向かって声を張った。


「私は、夏侯淵が司馬――」


逃げていく兵の顔がこちらを向いた。私は、夏侯の旗を高々と掲げた。もう一度、大きく息を吸った。


「名は郭淮、字は穂泉、今、参上(つかまつ)った!」


一瞬、ほんの一瞬だったが、歓声が上がった。兵が皆、私を向いていた。


「列を乱すな! 張将軍の旗を目指せ! 張将軍は劉備も恐れる名将なり」


声は最初、風に吸われた。二度、三度と重ねるうちに、振り向く兵が増えた。徐々に人の流れができ上がった。


遠くに杜襲(としゅう)が見えた。私は馬を急がせその元に向かった。


「杜都尉(とい)、現在の戦況を教えてください」


「張郃軍が退いております。劉備軍はこれを追っております。張将軍は漢水に沿って進み、対岸を射かけるおつもりかと……」


その説明を聞きながら私は目を閉じた。陽平関で見続けた地図を頭の中に浮かべた。杜襲の口から入る情報をその地図に配して、次の流れを予想した。


……当たれば負ける


「杜都尉、私に代わって、兵に張将軍の旗を目指すよう伝え続けてください」


「待て――」


杜襲の返事を待たず、私は馬を鞭で叩いた。


張郃の旗を目指す兵を追い抜き、張郃の元へ急いだ。今まさに川に沿って陣を敷こうとする隊が見えた。


張郃はその傍らの馬上にいた。面長で、目尻は細く上がり、鎧の上からでも身のこなしが軽く見えた。この混乱の中でも毅然(きぜん)としていた。


「張将軍!」


「郭司馬! 体はもう大丈夫か?」


「私のことは良いです。直ちに設営をお停めください」


私は息が整わないうちに、細切れになりながら伝えた。


「なんと? なぜだ?」


「今、杜都尉が兵をまとめながらこちらに向かっております。川際で待たなくとも、渡ってから叩くことができます」


「ならば、なお契機ではないか?」


「いえ、これ以上の損失は全滅を招きます。今、ここで下がれば、劉備軍は警戒し、追撃をやめるでしょう」


返答が無かった。私は語気を強めた。


「曹公は必ず到着されます。それまで、兵をひとりたりとも減らしてはなりませぬ」


張郃は顎髭に手をやり、しばらく目を閉じた。


「……夏侯妙才(みょうさい)が、気に入ったわけだ」


目を開けてそう言うと、兵たちに一喝した。


「退いて陣し、敵を致し、半済にしてこれを撃て!」


張郃軍は、一里だけ引いて布陣した。予想どおり、劉備は川を渡って来なかった。私は、軍旗や幕をそのままに、張郃に陽平関へ戻るよう願い出た。


「郭司馬、そなたは戻らぬのか?」


「張将軍は死してはなりません。敵はまだ私を知りません。私がここで将軍の影と成りましょう」


「……しかし」


「兵を少しお貸しください。必ず生きて戻ります」


「かたじけない。必ずや、陽平関で」


そう言い残し、張郃は部隊を率いて陽平関へ戻った。


私は、残った兵に命令した。


「松明と焚き木を絶やさず、(かまど)で湯気をあげてください。ただし、間隔は一定にしてはなりません」


粘土で口の小さな椀を作らせて、その中に大小の石を入れさせた。


これを何個も作らせ、兵の腰にぶら下げさせた。さらに、木板をその上にかぶせた。兵が動けば、いくつもの音が重なり合った。


兵は、同じ場所に留まらせなかった。松明は尾根ごとに時間をずらして増やし、窯の湯気は朝夕で立てる場所を変えさせた。


そうして、火が増え音が大きくなるたびに、兵を少しずつ陽平関に戻していった。


ひと月余りが過ぎ、わずか五百の兵になっても、劉備軍は動いてこなかった。


雪が溶けた三月になり、曹操が陽平関に至った。私は、残した兵糧を全て置いて、陽平関へと引き上げた。


初めて見る曹操は痩せていた。頬の肉は薄く、鼻梁(びりょう)は高く、目だけが鋭く落ち着いていた。白い髭は短く整えられ、指先は細いが関節が太かった。


「妙才が死して、なお乱れておらぬ……」


軍幕に入った曹操が、張郃に言った。張郃は曹操にこう返した。


「この者、郭淮の機転である。杜襲もまた、よく兵をまとめた」


私は杜襲と共に、曹操に頭を下げた。それから、張郃は夏侯淵が死してからの経緯を詳細に報告した。


「なんと……この細い男が……」


曹操が私の顔を見てから、足先まで視線を動かした。顔は動かず、目だけが上下した。


「張郃、引き続き漢中守備を指揮せよ」


「はっ」


「郭淮!」


急に名を呼ばれ、背筋が伸びた。


「張郃を司馬として補助せよ。兵糧を絶対に切らすな」


「承りました」


私は頭を下げた。


軍議が終わり、外に出た。春の風に、淡い花の匂いが混じっていた。望楼に上って山肌を眺めると、至る所で桜が連なって咲いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ