第十四話 鐙
婚礼を終えると、王氏は郭家に残り、私は漢中に戻った。戦が終わった土地にはもう、柵が立ち、道は通り、倉も満ちていた。
私は再び帳簿の前に座った。倉の穀を改め、道の通りを見て、荷の遅れを拾った。
郭家より、しばしば文が届いた。正月を祝う準備の様子から、夏の暑さを凌ぐ工夫、そして冬の火を囲む家中の様子へと巡った。読むたびに、季節が流れていることが分かった。
ある夏の日。いつもと同じような時節の便りの最後に、一行だけ、違う言葉が続いた。
『子を授かりました』
二度読んだ。胸の奥から、息が抜けた。
房から外に出た。大きく背伸びをして、空を見た。青空に大きな雲がひとつ、東へ流れていた。
「……お父さん……お母さん」
自分の胸元を覗き込んだ。目尻から流れる涙が草の葉に落ちた。
建安二十二年の秋口、南西部の益州を手中に収めた劉備が、全軍に大動員令を下したと報告が入った。その先は、ここ漢中だった。
私は再び、陽平関の後営の軍幕の中に入った。前線には呼ばれず、人夫と兵糧の輸送管理を任されていた。
幕の中は静かだったが、外では鍋の音が止まなかった。炊事場の前に人が溜まり、水桶を抱えた人夫が同じ場所を何度も往復した。
仕分け台の上では袋の口が開いたままになり、荷を負った牛は足を止めて首だけを上下させた。
私は幕の内と外を行き来し、机の上の木簡に記した数を見て、また外へ出た。火に寄せた木簡の墨は乾いていても、牛の鼻先には白い息が残っていた。
北西から届く木簡を並べた。両軍の配置が記されていた。
地図を広げた。関の西には武都へ続く道があり、北には馬鳴閣道が細く伸びている。関の北脇を抜ける広石の道は狭い。そこを失えば、陽平の守りは横から裂かれる。南には漢水が流れ、その向こうに定軍山があった。
そこに木簡に書かれた名前を載せていった。
劉備軍は二手に分かれていた。劉備、法正、黄忠、魏延、趙雲、高詳、劉封は、陽平関に向かっていた。別部隊として、張飛、馬超、呉蘭、雷銅、任夔が武都方面へと進軍していた。およそ四万から五万の兵と見積もられた。
これに対し我が軍は、夏侯淵を陽平関に、張郃を広石に置き、徐晃が馬鳴閣道から関の西側一帯を担当、さらに曹洪、曹真、曹休らが武都方面の劉備軍に対処する布陣だった。用意できる兵数を数えてみると、三万弱。
私は、届く木簡にある指示に従い、兵と食糧の出し入れを行っていた。都度、斥候から戦況を聞き、蝋板にまとめていた。
翌二十三年の正月、曹洪が呉蘭を破り、任夔らを斬ったと報告があった。桜が咲きだしたころ、張飛と馬超が引いたと届いた。
しかし、幕の外では、鞍を外す音が続いていた。濡れた革から水が落ち、馬の鼻息が布を鳴らしていた。
陽平関の望楼に上り、周囲を見渡すと、陽平の一面に『劉』の旗が立ち、どこかしこで砂煙が舞っていた。
それからは、届く木簡の数が一気に増えた。兵糧庫は騒がしくなり、昼夜問わず、米が運び出されていた。戻ってくる兵の脚には膝まで泥が上がり、槍の石突が地を突くたび、湿った音が続いた。
馬鳴閣道を断とうとした陳式らを徐晃が撃破、さらには、張郃も夜襲を耐え抜いたと報告があった。それを聞いた兵たちは活気づき、外では笑い声が響いていた。
九月になり、曹操自身が、軍を率いて長安に到達したと報告が入った。
後営の音が少しずつ変わっていった。昼の炊きが減り、人夫が仕分け台へ戻り、水桶が牛の脇を通るようになった。
それでも、戻る兵の泥は薄くはなっていなかった。夜が更けるたび、私は束を開き、紐をほどき、木簡を眺めた。寝台へ横になってもすぐには眠れなかった。
建安二十四年の正月、劉備が陽平関陥落を諦めて、南下した。漢水を渡って定軍山へ進軍したと報告があった。
その夜、私は夏侯淵の軍幕に呼ばれた。夏侯淵は、私の顔を見るなり、頭を下げた。
「お前を戦場に連れて行かねばならぬ」
「どのような意味でしょう?」
「武都は、劉備軍が引けど、簡単に兵を戻せない」
「はい、存じております」
「東方の許や宛で反乱が起きたため、孟徳――いや、曹公の到着はまだ先になる」
「……はい」
夏侯淵は、上を向いたまましばらく黙っていた。ゆっくりと顔を下ろすと、静かに私の顔を見て、言った。
「この細い身体が、男子のものとは思えん」
唾が固まった。ゆっくりと唾を飲み込み、答えた。
「いえ、そのようなことは……」
夏侯淵は、私の手首を持とうとした。私は、反射的に戻ろうとする腕を止めた。大きな手が私の手首を掴んだ。
「だが、お前の知略は捨てられん」
私から手を離し、頭を下げた。
「すまぬ」
私は膝をつき、言った。
「夏侯将軍、頭を上げてください。私は男でございます。将軍に付いて参ります」
夏侯淵は、大きな両手で私の手を覆うように握った。その手は乾燥して皺だらけだった。
「感謝する」
翌日には、夏侯淵、張郃、趙顒と共に、定軍山へと進軍した。運悪く、私は月経が始まっていた。二日程度の道のりだったが、馬歩の振動の度に下腹部に鈍痛が走った。
「郭淮、馬を停めよ」
振り向くと夏侯淵だった。
「顔色が悪い。陽平関に戻れ」
「しかし……」
夏侯淵は大きく鼻で息をして、それから言った。
「……わしには、姪がおってな。計略のため、敵軍張飛に嫁がせた」
夏侯淵の顔を見た。逞しく蓄えた髭の下には、深いしわと無数の刀傷が刻まれ、戦国を長く生き抜いたことを表していた。
「だが、わしは前に進むしか知らん。孟徳にも叱られとる。ここは、お前の臆病さが要る」
「……」
「案ずるな。癒えてから参れ」
そう言って、夏侯淵は私の馬首を返した。
陽平関に戻った私は、軍吏に牛革と木の板を用意させた。
――下っ腹への振動は危険だな。
私は簡易的な鐙を作った。厚い牛革を細長く裁ち、二枚を貼り合わせて吊り革にした。足裏を受ける部分として、薄い木を曲げて芯を入れ、その上からさらに革を巻いて縫い締めた。
馬の鞍の上からぶら下げて固定した。乗馬して両足を掛けてみると、鞍から腰がわずかに持ち上がった。下腹の鈍い痛みは残ったが、股へ食い込む苦しさは軽くなった。
月経の血が収まり、体調も戻ってきたころ、斥候が息を切らせてやってきた。
「郭司馬!」
「何事ですか?」
「夏侯将軍が……夏侯将軍が討死なされました」
膝からふっと力が抜けた。私は机の端に指をかけ、そこに全体重を預けた。指先が白く強張り、小刻みに震えた。
「わかりました。すぐに向かいます」
次の瞬間、視界が不自然にゆがんだ。だけど、そのまま鎧を身にまとった。
薄く雪が積もった道を、私は鐙を着けた馬で駆け抜けた。




