第十三話 共に生きる
婚礼の日の朝、目が覚めて息を吸うと、胸の布が、もうきつかった。房の外では、廊を走る足音が幾つも重なっていた。
寝たまま指を差し込み、少しだけ位置を直した。指先は冷えていたのに、背には薄く汗が滲んでいた。
寧は何も言わず、私の襟を合わせ、帯を締めた。息を深く吸うと、香の匂いが薄く流れ込んだ。肋骨の下が少し遅れて痛んだ。
冠は、盆の上に置かれていた。黒く塗られた面は、曇り空の光を鈍く返している。脇には新しい衣が畳まれ、帯は固く巻かれたまま、蛇のように細長く置かれていた。
私は指先でその縁に触れた。布は冷たかった。
衣を重ねるごとに、肩が沈んでいった。寧は帯の結び目を整え、最後に袖口の皺を指で消した。
「とてもお似合いです」
小さな声だった。私は鏡を見なかった。
広間には、すでに席が整っていた。燭台の火はまだ昼の明るさに負けていたが、香炉の煙だけは細く真っ直ぐ上がっていた。
父の座は正面にあり、その左右へ親族の席が並んでいる。奥には箱が積まれ、贈り物の布が端正に重ねられていた。人が多かったが、皆、声を潜めていた。
やがて、王家の列が入ってきた。
先頭の者が名を告げ、贈り物が運ばれた。紅を含んだ布、酒器、木箱。順に並べられるたび、床板が小さく鳴った。
その後ろに、王淩の妹・王氏がいた。深い色の衣に身を包み、顔は伏せられている。歩幅は乱れず、袖先だけがかすかに揺れた。私の指先に力が入った。
式が進む。名を告げ、礼を取り交わし、杯を受ける。膝を折る角度、頭を下げる速さ、杯を持つ高さ。私は教えられた通りに動いた。
王氏と向かい合ったとき、その顔が少し見えた。整っていた。目は私の胸元の少し下を見ていた。私もまた、その目を正面から受けなかった。
杯を交わす段になると、広間の空気がわずかに詰まった。差し出された酒は、薄く揺れていた。
杯を取るために腕を上げると、胸の布がきしんだ。衣の下だけ汗がにじんだ。
唇をつけるふりをして、ごくわずかに舌先を濡らした。喉は動かなかった。
王氏も同じようにして杯を返した。その一瞬だけ、袖口の奥で白い指が強く器を押さえているのが見えた。
礼が終わると、人の気配が少しだけ緩んだ。誰かが小さく息を吐き、箱を運ぶ音がまた始まった。寧がいつの間にか柱の陰にいて、こちらを見ていた。
私は立ち上がった。裾が床を擦った。王氏も立った。近くにいるのに、互いに顔を見合わせなかった。
祝いの言葉が後ろで続いていた。笑い声も、ようやく少し混じりはじめていた。
夜更けの房には、まだ昼の酒と香の匂いが薄く残っていた。
婚礼に使われた灯は半ばまで減り、火の先が時折かすかに揺れた。外では人の気配がもう遠く、廊を渡る足音も消えていた。
戸が閉まった。
ようやく、静かになった。
寝台の前に敷かれた厚い茵の上へ、王氏が膝をそろえて座っていた。婚礼の紅は濃くなく、髪は乱れなく結われていた。袖の中で重ねられた指先だけが、かすかに白かった。
私は、少し離れて座った。帯の下で、胸に巻いた布が脈に合わせて上下していた。王氏は顔を上げなかった。灯に照らされた横顔は静かで、喉だけが小さく動いた。
沈黙が落ちて、長く続いた。
先に口を開いたのは、王氏だった。
「お願いが……ございます」
声は小さかった。途中で揺れなかった。王氏は一度だけ目を伏せ、唇を結び、それから言った。
「わたくしには、他に想う方がおります」
灯が、パチリと鳴った。
私は何も言わなかった。王氏は続けた。
「幼いころからのことではございません。ただ……この婚儀が決まる前に、心を置いてしまいました。名を申すことはできませぬ。申せば、あの方が死にます」
そこで初めて、その声がわずかにかすれた。
「ですから、お願いいたします。夫婦のことは、お求めにならないでいただきたいのです」
王氏は茵へ手をつき、深く額を下げた。
「無礼は承知しております。妻としての務めを果たせぬこと、罰せられても構いませぬ。ただ、今夜だけは……どうか」
そこまで言って、言葉が切れた。私は、しばらくそのまま王氏を見ていた。
私は息を吸った。
「顔を上げてください」
王氏はすぐには動かなかった。やがて、ゆっくりと顔を上げた。目の縁は赤くなっていたが、涙はまだ落ちていなかった。
私は言った。
「ならば、こちらも一つ、隠していることを申さねばなりません」
王氏の眉が、わずかに寄った。
私は立ち上がり、戸口へ行った。閂をもう一度確かめ、牖の隙を見た。人の気配はない。灯をひとつだけ寝台の近くへ寄せた。
振り返ると、王氏がこちらを見ていた。
私はその前へ戻り、指を帯へかけた。外衣を脱いだ。さらに中衣の紐をほどき、胸へ巻いていた布の端を引いた。
きつく締めた布は、すぐには緩まなかった。息を詰めて二度引き、三度目でようやくほどけた。肺が急にひらき、浅い痛みが肋骨の下に走った。
布が落ちる。
王氏の目が、見開かれた。
声は上がらなかった。ただ、息だけが止まった。
私は視線を伏せたまま言った。
「わたしは、あなたの思うような男ではありません」
沈黙が落ちた。
長かった。
王氏は身じろぎひとつせず、ただ私を見ていた。灯の揺れが、その瞳の中で細く震えていた。
やがて、王氏から、かすれた声が出た。
「……では」
「はい」
私は布を拾い上げ、胸元を押さえた。
「生まれから女です。事情があって、ここまで男として生きてきました」
「ご家中は」
「知りません」
「では、親御様も」
「知りません」
王氏は、そこで初めて強く息を吐いた。
私は苦く笑った。
「ですから、わたしは、あなたに夫のことを求められません」
王氏は、それ以上は問わなかった。沈黙が続き、王氏が小さく言った。
「……では、共に死ねと?」
「いえ」
私は帯を締め直し、王氏の正面に座り直した。
「共に生きましょう」
灯がまたひとつ、かすかに揺れた。
やがて王氏は、茵を出て床の上へ両手を置いた。先ほどのような礼ではなく、ただ力を抜くように。
そして額をつけた。私は王氏の前に座り、肩に手を置き言った。
「女同士です。頭を上げてください」
王氏はそこでようやく、ほんの少しだけ笑い、涙を流した。外で風が一度だけ、カタンと戸を鳴らした。




