第二話 腕を引かれて
男に腕を引かれたまま、焚き火の輪から離れていった。歩きながら空を見上げた。視界がぼやけ、空の鉛色だけが残った。
涙を拭いて見渡すと、木はまばらで、どれも葉を落としきっていた。見渡しても屋根は少なく、煙だけが、遠くで細く立っていた。
男は一台の牛車の前で止まった。車体は丸く、厚い布が垂れていた。道は車輪の跡で深くえぐれ、乾いた土の割れ目にところどころ白い霜が残っていた。
牛は黒く、首の下だけ毛が白かった。牛の鼻息と、車輪の軋む音が近かった。吐いた息が寒気の中で長く曇った。
バクンバクンと自分の心音が聞こえていた。
男は牛車の後ろへ回り、垂れ布を持ち上げた。私の手を離し、何か言って顎で中を示した。
私は息を詰め、縁に手をかけた。木は乾いていて、ささくれていた。足を上げた。濡れた布が腿に張りつき、一瞬身体が固まった。
中に入ると、頭がつかえた。腰を折って潜り込んだ。藁を薄く敷いた板張りの床が、足裏でギシリと鳴った。膝を伸ばす広さはなかった。隅に木箱がひとつ、壁際に巻いた布がひとつ置かれていた。
私が座るのを見てから、男は去った。垂れ布が落ちると、中は夜みたいに暗くなった。
少しして、また垂れ布が上がった。薄い光が差し込み、同時に男が布を数枚投げ入れた。短い上着と下穿き、帯紐。その上に手ぬぐいが落ちた。
自分の濡れた裾を見て、私は首を横に振った。
男の眉がわずかに寄り、頬を緩めて何かを言った。私は黙ったまま、布だけ受け取って膝に置いた。
男は落ちていた棒を拾った。地面に何かを書いて、それを指さした。
『放心吧 没事』
頭に漢文の問題が浮かんだ。
――心を放て、事は無し。
外で何か太い声が聞こえた。男は私に手のひらを見せて牛車を離れた。
垂れ布が下りた瞬間に、急いで膝の上の布をひらいた。濡れた下穿きを引き剥がした。
胸の布を押さえながら、新しい下穿きを引き上げた。腰の線が出ないよう、腰にも布を巻いた。その上から上着を着て帯を締めた。指先が冷えて、結び目が何度も滑った。
終わるころには息が上がっていた。帯に小刀を差したところで、垂れ布の隙間から男が覗いた。私の姿を見て笑った。
手招きされたので近寄った。肩へ掛ける外衣が私に被せられた。肩がビクンと跳ねた。男は薄い布靴を手渡し、また布を下ろした。
しばらくして、牛車がゆっくりと動き出した。車輪が小石を踏むたび、腰骨まで鈍く揺れた。垂れ布の隙間から、外が流れていった。枯れ草の野。ひび割れた道。低い曇り空。遠くに土の塀が見えた。
やがて牛車は塀の前で止まった。従者が垂れ布を上げた。目の前に、大きな門が立っていた。
両脇に立つ門番たちが槍を持ち、こちらを見ていた。門の上に板がかかっていた。
私が牛車の入り口に立つと、両手で腰をひょいと持ち上げられ、地面に降ろされた。
男はついてこいと手招きした。
男に従い、門をくぐった。中庭には、浅い冬の光が落ちていた。石畳の隙間に白い霜が残っていた。
軒下には、くくられた干し草。水瓶が口の大きさごとに並び、壁際の薪は太さで分けて積まれていた。戸口の脇の履は、先がきれいに揃って伏せてあった。
門の内側の簀子の影にいた誰かが、私を見た。切りそろっていない髪で目が止まり、泥の残る頬へ落ち、胸元と帯の位置をなぞって、足もとで止まった。私が顔を上げると、その人は水瓶の方へ目を逃がした。
男が大きな声を出した。奥の陰から、中年女性の半身だけが見えた。その視線は顔を通り過ぎて、胸元で止まり、手首へ落ち、そのまま消えた。その女性は何も言わず身を引いた。
代わりに、灯りを持った背の低い少女が出てきた。
私よりかなり幼く見えた。だけど、髪はきちんと結われ、厚い上着の上からでも肩が細いのが分かった。頬だけ赤かった。走ってきたせいか、息が白かった。
少女は、男を見て会釈した後、私の顔を見た。視線が、素早く上下に動いた。
男は少女に短く何か言ったあと、奥へと入っていった。少女はその後ろ姿に向かって笑顔で何か言った。高く細く、でも通る声だった。
一瞬だけ口が開いたが、やはり言葉が出ない。その私を見て、少女は少し首をかしげ、手をパンと鳴らした。私は思わず背筋を伸ばした。
少女は目を細めて私の肩をポンと叩き、手を握った。小さく温かかった。灯のついた皿を持ったまま振り返り、黙って廊下の奥を示した。
私が一歩前に出ると、少女は先に歩き出した。そのあとについて歩いた。
廊下は板敷きで、踏むたびに細く鳴った。室内から見る井戸は、縄と桶が夜気に濡れて光っていた。
少女は小さな部屋へ入ると、衝立の向こうを指した。大きな木桶から湯気が立っていた。
湯は別の場所で沸かして運んだものらしく、桶の縁にはまだ新しい湯滴が残っていた。脇には麻布、櫛、短衣、下穿きがきちんと畳まれていた。
少女は言葉少なに何か告げ、戸口の外へ下がっていった。しばらく動けなかった。
首だけ動かして、周りに誰の目もないことを確かめた。戸の外では少女がじっと立っていた。廊の角を、さっきの中年女性の袖が一度だけ横切って、すぐ見えなくなった。
急いで上着を脱いだ。腰と胸に巻いた布をゆるめた瞬間、肺が大きくひらいた。腰には布のしわの跡がしっかりと残っていた。下も脱いで、桶の湯に手を入れた。
そのとき、戸口の外で板が一度だけ鳴った。私は布を手に持ち、動きを止めた。湯気の向こうで、自分の息だけが浅く鳴った。しばらくして音は離れた。
布にお湯をしみこませ、泥にまみれた頬を拭い、首筋を拭い、腕を拭った。布に黒ずんだ水が移るたび、土と煙と汗の匂いが少しずつ剥がれていった。
手を止めなかった。身体を拭き、着替えを急ぎ、帯を締め、胸の布を巻き直した。胸に手を当て、細く息を吐いた。
眉間に手を置くと、深いしわを感じた。中指でしわを伸ばしてから、両手で頬の肉を引き上げた。
戸を開けると、少女が振り向き、目が合った。私は、少女に向かって会釈した。少女は少し笑って、私の袖口をつまんだ。皿の上の灯りが揺れ、その先の廊下へ細く伸びた。
私は一度だけ後ろを見てから、少女のあとについて奥の部屋へ入った。




