第三話 灯を持つ少女
廊下の空気は、湯の立つ部屋より一段冷たかった。板は薄く軋み、足裏へ冷えが返ってきた。
閉じた戸が並び、その下に土はこぼれていなかった。水瓶の口には蓋がきちんと伏せられ、薪と柴は太さで分けて積んであった。
少女は灯りの皿を持ったまま、もう片方の手で私の袖を引いた。灯りが揺れるたび、壁や柱の影も揺れた。
いちばん奥の戸口で、少女が足を止めた。戸を開け、灯のつく皿を先に入れた。戸が閉まった。灯火が机の角、台の縁、火の落ちた火鉢を順に照らした。
部屋は広くなかった。壁際にベッドのような低い台がひとつ、机がひとつ、机の上には細い木の板が二、三枚あった。
火鉢の灰は赤くなく、底のどこかに熱が残っているだけだった。炭と湯気と、洗ったばかりの麻布の匂いが薄く混じっていた。
少女は灯のつく皿を机へ置き、私を見たあと、木板と筆を取り、水で文字を書いた。
『妾名寧 自今為君之侍者』
――妾の名は寧、今より君の侍者と為らん。
「……ねい?」
少女の口元が少し歪んで、すぐに笑顔になった。自分の顔を指さしながら、「にん」と言い直し、私を指さして首を傾げた。震える喉と口で答えた。
「わたしは……穂泉」
寧は笑って、自分と私を交互に指さしながら、「にん……ほずみ……」と繰り返した。木の板に文字を書いて、口に出しながら私に見せた。
『此即君之室也』
私は頷いた。寧は私を膳の前に座らせた。ずっと強張っていた肩の力が抜けた。
寧は笑顔のまま、机の脇へ置かれていたお盆を持ち上げた。お盆には、お粥がひと椀、青菜が小皿にひとつ、湯気の立つ湯が添えてあった。
私の腹が鳴った。
寧は声を出して笑い、また文を書き、読みながら見せてきた。
『膳尚温、宜速食』
涙が目尻から流れた。寧が私の肩に手を置いた。
「……ありがとう」
口に出した後に気づいて、言い直した。
「シェイシェイ?」
寧は満面の笑顔になり、両手を広げてお盆を指した。
私は、お膳に手をつけた。お粥は熱く、菜はしょっぱかった。湯を飲むたび、腹の内側に熱さを感じた。
寧は向かいに座ったまま、私が何を手にするたびに、木の板に文字を書き、発音した。粥、菜、湯……。私はそれを真似た。
私が食べ終わると、寧はお盆を持ち、お辞儀をして部屋を出ていった。
寧が戻ってくるのを待っていたが、眠気が勝り、低い台の上に寝転んだ。その瞬間に眠ってしまった。
完全な真っ暗闇の中で、目が覚めた。わずかな月と星の光が、ここが自分の部屋ではないと見せてきた。
膳は片付けられていた。火鉢は完全に冷え、布団の下まで冷えが残っていた。
胸に巻いた布が少し上へずれていた。指を差し込み、息を詰めて締め直した。肋骨に布が食い込んだ。涙が溢れてきた。
ほとんど見えない天井を眺めながら、雪の降る学校を思い出した。
渡り廊下の北風。雪。瞼へ刺さる痛み。頬へ当たった乾いた土。
台から起きて、戸を細く開けた。井戸の縄が白く浮いていた。風は弱かった。庭に雪はなかった。
目を閉じて開けた。視界は変わらなかった。もう一度。井戸も石畳も、くくられた柴も、そのままだった。
「……あんなこと言ったからかな」
戸を閉め、嗚咽を我慢し、硬い枕を噛んだ。しばらく涙を流しながら、うつ伏せのまま固まっていた。ふと、言葉が出た。
「……いや、生きる。……まずは言葉だ」
そう呟いた瞬間に、また眠りに落ちていった。
朝を迎えて、目を開けても、明るくなっただけの昨夜の情景だった。目尻に涙が溜まっていた。
戸を開けた。そちらに顔を向けると、寧がお膳を持って部屋に入ってきた。
「君無恙乎――――」
その後ろの言葉は聞き取れなかった。私は涙を隠しながら拭いて、寧を見ながら音を真似た。
「ジュン、ウーヤンフー」
寧は笑顔で、机の横にお膳を置き、手招きした。私が起きてお膳の前に座る間に、寧は、筆ですらすらと漢詩を書いた。
『對酒當歌、人生幾何。
譬如朝露、去日苦多。』
寧はそれを詠み出した。私はその音をそのまま真似た。それから、寧は酒に酔うふりをしてから歌い出した。庭から採ってきたのか、濡れた椿の葉を見せて、それから顔をつぶして舌を出した。
私はその顔に笑ってしまった。寧も一緒に笑った。
食事の後には、寧に連れられ屋敷を歩いた。寧は、文字の書かれた紙を束ねて持っていた。目に見えた物を文字で示した。水、火、門、井、薪。そして、発音した。私はそれを真似た。
時々、寧は日々の言い回しを混ぜてきた。座れ。持て。来て。遅い。熱い。冷たい。文字の代わりにジェスチャーで私に意味を伝えた。
私は夜、その発音を自分で繰り返した。
これが毎日、三ヶ月ほど続いた。ある朝、寧が話しかけてきた。
「おはよう、穂泉」
「おはよう、寧」
「私のお役目は今日で終わりだって」
私は大きく瞬きをした。
「なぜ?」
「穂泉がたった三ヶ月で話せるようになったから」
「……そうですか」
「でも、身の回りの世話役は私のままだから、また話そうね」
身体が勝手に動いた。私は泣きながら寧を抱きしめていた。
その日から私は、先生くらいの年齢の女中がついた。
井戸水をどの甕へ回すか。薪をどこへ積むか。塩袋を何本奥へ入れるか。米の升をいくつ運ぶか。指示を受けて、その通りに働いた。
雨で車輪が沈み、暑さで牛が痩せる。甕の水の減り方で台所の火が増えたか減ったかが分かり、麻袋の口の結び方で麦の残量が分かった。
私の口角は上がっていた。
ある夕方、倉番の男が叱られていた。私は廊の端で、それを眺めていた。寧が通りがかり、一度こちらを見て、すぐに逸らした。
その夜、寧が運んでくる盆の上を眺めていた。干し肉がひとつ多く載っていた。
「今日はいつもより豪勢だね」
私がそう言うと、寧は盆を置きながら、ゆっくり言ってきた。
「穂泉って、よく見てるね」
私は答えずに笑顔だけを返して、盆の縁へ指を置いた。
この世界に堕ちて六ヶ月目の終わり、厳しい暑さが和らいだ夕方だった。
薪を数えて、与えられた小部屋へ戻ろうとしたところで、寧が早足で来た。頬が少し赤い。昼の柔らかい顔ではなかった。私の前で止まり、息を整えた。
「おやじさまが、呼んでるよ」
廊の奥は暗かった。閉じた戸の向こうに、灯りがひとつだけ滲んでいた。




