第一話 退屈の行方
古い校舎の教室は、薄い灰色の光に沈んでいた。窓は白く曇り、外では雪が風にちぎられて、斜めに走っていた。
窓際のパネルヒーターの近くに人が集まり、濡れた靴の匂いと、誰かのマフラーについた柔軟剤の甘い匂いが混じっていた。
一時限目になっても、席の半分は空いたままだった。教室に先生が入ってきて、ざわつきが静まった。
黒板に『自習』と書いて、「静かにしとけよ」とだけ言い、職員室に戻っていった。
戸が閉まった瞬間、笑い声が散った。至る所で全国統一模試の話が始まった。
私は窓際の席に座っていた。結露した窓を手で拭いて、横に流れる雪粒を眺めていた。
「穂泉、模試どうだった?」
名前を呼ばれて、そちらを向いた。英語、国語、地理が満点。あと零点。
「わたし? 五〇〇点ちょうど」
「国立ギリじゃん」
「十分でしょ」
私はまた窓を向いた。誰かの「志望校」「判定」「二次」という笑い交じりの会話が耳を突いた。言葉が右から左へ流れた。
「ちょっとトイレいってくる」
そう言って教室を出て、廊下を歩いた。どのクラスも自習のようで、話し声が教室の外に漏れていた。静かになりたくて体育館に向かった。
渡り廊下で横から雪が打ち付けてきた。顔にポツポツと当たる雪の冷たさが気持ち良かった。
体育館に入って、隅に置かれたバスケットボールを一つ取り、軽くドリブルした。ボールが跳ねた音が反射して自分の耳に届いた。
頭の中に線が見えた。自分が一歩で届く距離と、そこからの放物線。
一歩で踏み切った。スリーポイントラインから打った球が、きれいに弧を描いた。
シュッと心地よい音がして、また、跳ねた音が数回聞こえた。ボールを拾って、もう一度打った。今度も同じ音がした。
「……つまんないんだよなぁ」
ふいに口から言葉が出た。
教室に戻ろうとして、渡り廊下へ出た。北風が顔へまともに当たった。雪が細かい針みたいに瞼へ刺さり、思わず目を閉じた。
「……痛っ」
次に頬へ当たったのは、雪じゃなかった。乾いた土だった。
粒が唇に貼りついた。鼻に入ったのは、鉄でも排気ガスでもない、苦い草の匂いだった。
ゆっくりと目を開けた。
ひび割れた地面。泥をこびりつかせた車輪。痩せた馬。色の抜けた草。曇った空の下を、黒い鳥が一羽、低く横切った。遠くで怒鳴り声が飛んでいた。
反射的に体を起こした。首を振った。視線が定まらないまま、自分を見た。
――この服なに?
粗い麻布が肩へ貼りつき、腰ひもには小さな小刀が差してあった。布でできた靴は薄く、地面の冷たさが伝わってきた。
そのとき、荷車の陰で、若い女性が引きずられていくのが見えた。私は両手で口を押さえた。
女性は鎧を着た男に腕を掴まれ、半ば引きずられるように土の上を進んでいった。肩から布が落ちても、誰も止めなかった。
老婆は顔を伏せ、子供の頭はすぐ胸へ押し戻された。助けを求める声だけが風にちぎれて消えた。
自分の胸元を押さえた。薄い布の下の、柔らかなふくらみ。細い首元と手首。
ドクンと心音が鳴った。
すぐ脇にいたもう一人の若い女性が、とっさに襟元を押さえた。兵の目がそちらへ滑った。背中から手足に冷気が通り過ぎた。
考えるより前に荷車の影へ滑り込んだ。口を抑えながら、影から顔を出し周囲を見渡した。男はみな、髪を結っていた。
自分の髪に手を通した。
――長い。やばい。
胸の奥が痛い。奥歯がガチガチと鳴りだした。
荷車を覆っていた布の端が、目に入った。泥に濡れて垂れていた。右手で腰の小刀を抜き、布の端を細長く裂いた。
小間切れに呼吸しながら、髪を後ろでひとつに束ね、裂いた布で縛った。その上から残りの布を頭にかぶり、額まで深く引き下ろした。
さらにもう一枚、今度は大きく布を切って胸へ巻いた。息が浅くなるほどきつく締めた。肋骨の上で布が食い込んだ。
泥を頬と首筋へ塗り広げて、止めていた息を吐いた。手の震えが止まらなかった。荷車の車輪に寄り掛かりながら、少しずつ少しずつ、呼吸の速度を遅めていった。
怒鳴り声が飛んだ。収まりかけた鼓動がまた撥ねた。
「え、あの……」
兵らしい男に、手首をつかまれた。背は私と変わらないが、力が強く振りほどけなかった。
引かれると、肩が先に持っていかれ、足が半歩遅れてついていった。見上げると、男の視線は、みすぼらしい人の群れに向いていた。
私は焚き火のそばに座らされた。すぐに、別の男が、何かの入った木の茶椀を寄こした。ほとんど溶けたお粥だった。
向こうの鍋にはまだ湯気があるのに、渡された茶椀は、底が薄く透けていた。
私は茶椀を両手で抱えた。かじかんだ指に熱が染みた。大きく空気を吸い込んで鼻から一気に出した。
――何? どこ? 夢?
さっき、掴まれた手首に鈍痛が走った。茶椀を抱えたまま、周囲を見た。
焚き火の近くには女の人と子供が多かった。老人はその外側に押しやられていた。百人くらい。
さらに外を槍持ちの兵が囲んでいた。一、二、三、四人。向こう側に二人。火の反対に三人。全部で九人。全員が輪の内側ではなく、外へ顔を向けていた。
荷車は三台。車輪の跡は四筋。ひとつだけ二頭立てで、あとの二つは一頭。水桶の数が、人の数に合っていなかった。
……逃げてきた? 襲われた?
考えているうちに、茶椀の中のお粥の揺れが、徐々に小さくなった。
顔を上げると、荷車の車輪がひとつぬかるみにはまり、男たちが数人、丸太を使って持ち上げようとしていた。私は目測で、その丸太の長さを見積もった。
私は茶椀をそっと地面に置いた。
小刀の先で地面に、荷台と丸太の画を描いた。丸太の長さを等分し、今の支点より車輪に近い位置へ印をつけた。そこから、男たちが押している場所まで線を引いた。
ふと、視界に影が落ちた。
顔を上げると、中年の男が立っていた。黒い細布の長衣を帯で締め、髪は巾できっちりまとめていた。足もとは布靴で、泥をかぶっていなかった。
男は私ではなく、地面に描いた図を見ていた。しゃがみ込み、土の上の一本だけ短い線を指先でなぞった。それから車輪の方へ目を向け、兵に鋭く声を飛ばした。
兵がその図の位置に丸太を差し込み、車輪を浮かせた。次に馬を前へ引かせると、荷台はぬかるみから抜けた。男の眉がわずかに動いた。
男はもう一度、地面の図を見た。何かを問いかけてきたが、私には言葉が出なかった。
すると男は立ち上がり、兵へ短く命じた。そのあとで私の腕を取った。私は立たされ、引かれるままに一歩を踏み出した。
男に連れられながら、冷えきった脚のあいだを、鼻をつく匂いと共に、生ぬるいものが落ちていった。




