第一話「雨と硝煙のプレリュード」
『新たな敵生体を検知。標的の脅威係数を再評価――先行対象を下方修正。対象を更新。排除プロトコル、起動――エンゲージ』
雨の夜、上司と世間話をして「また明日」と別れる。それだけの話だったはずだ。――爆音と共に空が割れるまでは。農業エンジニア天日アメノヒと元軍事企業研究者マリィの日常は文字通り音を立てて崩れた。
外には雨が降っていた。ただ、それだけのことだった。
昼間の小糠雨はとうに影をひそめ、今は窓を叩く本降りへと姿を変えていた。
夕刻にはまだ早いはずだが、鈍色の雲が空を塗り潰し、ホテルの高層階から見下ろす街並みは、滲むように輪郭を失っていた。
天日=エゼンが境界を越えてオリジン区画へ足を踏み入れるのは、ずいぶん久しぶりのことだった。
窓辺に立ち、ガラスに浮かぶ自分の鏡像を、ぼんやりと眺める。
糊の利いた、まだ身体に馴染まないシャツ。削いだように痩せた輪郭。中途半端に伸びた栗色の癖毛は湿気を吸い、毛先が思い思いの方角へ跳ねている。まるで写真の中の他人を見ているようで、その姿は、ひどく遠く感じられた。
ガラスの表面を、雨粒が一筋、伝い落ちる。その軌跡を目で追うたびに、もう二度と聞こえるはずのない声が、耳の奥でかすかに鳴った。
言葉の意味は、正確に覚えている。忘れたことは、一度もない。ただ、それを思い出すたびに胸の同じ場所が軋むので、天日はいつも、ちょうどそこで思考の扉を閉じることにしていた。
チャイムが鳴った。
天日は窓ガラスの鏡像に一度だけ目を戻してから、来客用のモニターを覗き込む。レンズの向こうで、ひらひらと手を振っていたのは、マリィ=コアィ――つい先刻、ブラフマナスパティ社の社屋で別れたばかりの上司だった。もう一方の手には、天日が会議室に置き忘れたキャリーケースが提げられている。
「すみません。わざわざ届けていただいて」
ソファに放っていたジャケットの袖に腕を通しながら、天日はドアを開けた。
「『後で届ける』って言ったでしょう? 私が言ったことは、私がやるの」
マリィはドアが開ききるより先に、もう喋りはじめていた。淡い赤毛を、バレッタで無造作に束ねている。その雑さが、かえって知的で端正な顔立ちを際立たせていた。
てっきり配達ドローンが運んでくるものとばかり思っていた。まさか本人が、手ずから届けに来るとは。
「昔馴染みに用があってね。古巣に寄る、そのついでよ」
古巣――マリィの前職は、最大手の民間軍事企業リグ・ベータ社。今の親会社にあたる。その支社がこのホテルの近くにあると、いつか聞いた覚えがあった。
「それにしても、不用心ね」
マリィはキャリーケースを押しつけるように差し出した。中身は、着替え程度のもの。わざわざ届けてもらうほどの重要度ではない。それでも、届けに来る者がいて、受け取る自分がいる。非効率の極みだ。だが、非効率にしか宿らないものがある――それを、天日はそれなりの時間をかけて、学んできたつもりだった。
「お礼に、何か飲みますか。ルームサービスくらいなら」
「いいわ、すぐ出るから。――あ、その前に。一つだけ、聞いていいかしら」
マリィはドアの枠に肩をもたせかけた。入る気はない。だが、帰る気も、まだない。そういう姿勢だった。
「どうぞ」
「天日くん、夢は見る?」
「夢――ですか」
「寝てるほうの。起きてるときの妄想じゃなくて」
廊下の空調が、低く唸っている。マリィは問いを投げたきり、答えを急かすでもなく、ドアの枠にもたれたまま、天日の顔をじっと見ていた。
「たまに見ますけど……急に、どうしたんですか」
「今朝ね、すごくリアルな夢を見たの。学生時代に戻って、提出期限を三日過ぎたレポートを、教授に届けに行く夢」
「それは、なかなか目覚めの悪そうな夢ですね」
マリィが人差し指を一本、立てる。ここからが本題だと、そう言いたげなジェスチャーだった。
「最悪なのはね、届けた先の教授が、私自身なの。私が教壇に立っていて、レポートを差し出す私に向かって『遅い』って言うの。それで、目が覚めた」
天日は、口の端が上がるのを意識的に押し戻した。面白くないわけではない。むしろ逆だ。面白すぎる。マリィ=コアィという人間の取扱説明書があるとしたら、たぶんこの夢が、そのまま表紙になる。笑えば「何がおかしいの」と返され、真面目に受け止めれば「そこまで深刻な話じゃないわ」と切り返される。正解のない問いに正解を出そうとするほど、不毛なものはない。
「出口のない悪夢ですね。裁く側も、裁かれる側も、同一人物とは」
「そう。だから、逃げ場がないの」
夢の話など、誰にとっても所詮は他人事だ。マリィの口調も、本気で困っている人間のそれではなかった。
「マリィさんらしいですね。自分で自分を叱るところが」
「らしいって何よ。私はもっと優雅な夢が見たいの。お花畑とか、南の島とか」
「花畑なら、仕事で見放題じゃないですか」
「仕事の花畑はストレスの温床よ。害虫の報告書とセットなんだから」
それはそうだ。楽園の裏側を知る者にとって、花畑は幸せの象徴ではない。もっとも、天日の場合は、花畑に限った話ではなかったが。
マリィが、グラスデバイスのブリッジを中指で押し上げる。
「私ね、昔から夢の中では、必ず走ってるの。いつも遅れそうで、いつも焦ってる。で、結局、どこにも辿り着かないの」
声のトーンが、少しだけ下がった。冗談の領域から、半歩だけ外へ踏み出したような響き。天日はドアの内側に背を預け、腕を緩く組んだ。
「……つまりレポートも、結局は渡せなかった、と」
「そう。教壇の私が受け取ったかどうかも分からないまま、目が覚めた」
マリィの視線が、天日の顔から、ふっと外れる。
「だから、起きるたびに思うのよ。夢の中の私は、いったい何がしたかったんだろう、って」
答えは返さなかった。代わりに、窓の外の雨を見た。ガラスを伝う水滴は、どれ一つとして同じ軌跡を辿らない。けれど、行き着く先は、すべて同じだ。重力に従い、下へ、下へと還っていく。――雨も人も、帰結する場所は、そう変わらない。
天日は、努めて軽い声で言った。
「夢に深層心理を探すのは、あまり実益のない行為ですよ」
「知ってる」
「精神衛生上も、よくないらしい、です」
「解ってる」
二つの短い返答が、弾丸のように飛んできた。「知ってる」と「解ってる」の使い分けが、いかにもこの人らしいと、天日は思う。知識と理解は別物だと、マリィは常に線を引く。おそらく、無意識に。
「しかも夢というのは、覚えていようと忘れていようと、見た人間には何の権限もない。勝手に始まって、勝手に終わる。感想を聞かれることすらない。あれはたぶん、世界で一番不誠実なコンテンツです」
「何よ、その言い方」
「つまり、上映内容に対して観客が責任を感じる道理はない、ということです」
マリィの唇が動きかけたが、わずかに吐息だけが漏れ、再び結ばれた。
「そういえば、レポートはちゃんと期限内に出す人だったんですか。学生時代のマリィさんは」
「一度も遅れたことないわ。だからこそ、夢の中で罰を受けるのよ。完璧主義の代償ってやつね」
「完璧主義の人は、普通、自分のことを完璧主義とは言わない気がします」
「言うわよ。自覚してるから、完璧主義なの。無自覚な人は、ただの頑固者」
屁理屈だ。だが、妙な説得力がある。論理の体裁をまとった直感が、するりとこちらの思考回路に滑り込んでくる。マリィの言葉には、ときどき、そういう力があった。
遠くで、別の客が廊下を歩く足音がして、消えた。示し合わせたわけでもないのに、その足音が過ぎ去るのを待つように、二人は見つめ合って黙っていた。
「ところで、僕の話、聞いてました?」
「不誠実なコンテンツのくだりなら、覚えてるわ。観客に責任はない、でしょう?」
要約が的確すぎて、天日は少しだけ悔しかった。この人は、聞いていないふりをして、全部聞いている。もっとも、聞いた上で、忠告のほうは平然と無視するのだが。
「ご理解いただけたようで、何よりです」
皮肉だったが、マリィは小さく笑った。口元だけの、短い笑み。どこか、安堵のそれに近い。仕事帰りにキャリーケースを届け、ドアの枠に寄りかかって夢の話をする。まるで墓標に花を添え、故人に語りかけるような、押し付けのない静かな会話だった。心地の良い時間だ。
「ま、夢の話は、このくらいにして」
マリィが、ドアの枠から肩を離す。帰り支度の合図だった。
「明日の現場ミーティング、資料は共有フォルダに入れてあるから、目を通しておいて」
「了解です」
「――あと、ホテルの朝食はケミカルフードだけど、卵料理だけはナチュラルなんですって。ロビーに書いてあったわ」
「チェックしてくれたんですか」
「通りすがりに、目に入っただけよ」
嘘だ、と天日は思った。だが、それを指摘したところで否定されるだけなので、素直に「楽しみにしておきます」とだけ返した。
「じゃあ、おやすみなさい。明日もよろしく」
「おやすみなさい。――あ、マリィさん」
マリィが、振り返る。
「夢の中の目的地、きっと、どこでもいいんだと思いますよ。走ってること自体が、目的なのかもしれない」
言ってから、天日は自分の口を疑った。――今のは、誰の台詞だ? 少なくとも、普段の自分の引き出しには入っていない。雨の日に限って余計なことを口走りたくなるのは、気圧のせいだろうか。それとも、窓を伝う水滴が、眠っていた感傷を呼び起こすからだろうか。
マリィは一瞬、目を瞬かせた。それから、少しだけ困ったような顔をした。
「……それ、慰めてるの? それとも、寝言?」
「さあ。朝には、忘れてるかもしれません」
「寝言ってことで、いいのね」
マリィは口元だけで笑い、ひらりと背を向けて、廊下へ歩き出した。足音が、角を曲がるまで聞こえていた。ドアを閉めると、急に、部屋が広くなった気がした。
窓の外では、雨脚が、また少し強まっていた。
――異変が起きたのは、それから数分後のことだった。
天日がキャリーケースの中身を検め、シャツのボタンを外しかけた、まさにそのとき――空が、割れた。
鈍色の天蓋が朱に裂け、続けざまに、耳の奥を内側から潰すような轟音が落ちてきた。雨音が、消えた。いや、消えたのではない。桁違いの音圧に、根こそぎ塗り潰されたのだ。防音ガラスを素通りした衝撃波が、足裏から脊椎を駆け上り、天日の身体を、内側から揺さぶった。
部屋中に、けたたましい警報が鳴り響く。
『非常事態発令、非常事態発令――』
イヤーデバイスが、市民向けの緊急放送を流しはじめた。
『市民の皆様は、直ちにシェルターへ避難してください。最短ルートを個人デバイスに送信しました。案内に従い、速やかに移動を開始してください。繰り返します――』
反射的に、イヤーデバイスに触れる。通信履歴。マリィがこのホテルを出たのは、ほんの数分前だ。
着信音。マリィからだった。
「いま、どこですか」
『ロビー。エレベーターが止まった。――降りてこられる?』
「階段で行きます」
通話を切り、天日はすぐに部屋を飛び出した。廊下には、同じく慌てて出てきた客の姿が、まばらにある。エレベーター、階段――おそらく耳元の避難指示に従って、めいめいの方向へ散っていく。天日のイヤーデバイスもまた、最寄りシェルターへのルートを、繰り返していた。
*
ホテルの外へ出た瞬間、雨が顔を殴った。
冷たいというより、痛い。額から顎へと伝い落ちる雨粒の一つ一つが、ほんの数十分前まで自分がいた防音ガラスの内側を、ひどく遠い場所へと変えていた。
広い路地に面していた。鈍色の空へ溶け込むように、幾筋もの黒い煙が這い上がっている。街が、襲撃を受けている。そう理解するのに、知識は要らなかった。ただ、目が受け取る情報と、脳が意味を組み立てる速度のあいだに、奇妙な隔たりがあった。見えているのに、まだどこかで、信じていない。
雨音に紛れて、断続的な破裂音が聞こえる。それが銃声だと気づくまでに、数秒を要した。
周辺に、人影は少ない。それでも数名のシルエットが、通りの奥を走っていた。傘もなく、荷物もなく、ただひたすら、同じ方向へ。路肩には、シェルターへ向かう途中で乗り捨てられたのだろう、車が点在している。ダッシュボードの通知灯だけが、ぼんやりと雨に滲んでいた。
天日とマリィも、走っていた。会話はなかった。
イヤーデバイスが、淡々と最寄りシェルターへのルートを読み上げている。右折、二〇〇メートル直進、左折。機械の声だけが、雨と銃声と、自分の呼吸の隙間に割り込んでくる。
その直後。悲鳴が、鼓膜を揺らした。
喉の奥から絞り出されたような、細い叫びだった。
雨が呑み込む前に、もう一度。今度は、子供の泣き声が混じっていた。
マリィが、足を止めた。
天日は一瞬だけ振り返り、それから、振り返ったことを後悔するように速度を上げた。水を蹴散らす足音が路地に跳ね返り、自分の呼吸だけが、やけに近く聞こえる。小路の角を折れた瞬間、天日の網膜を、青い光が灼いた。
市街の警備ドローン。その回転灯だった。
全高、百五十センチほど。扁平な漆黒のボディには、蛍光グリーンの反射塗料がいくつも描かれている。その中央に埋め込まれた単眼レンズが、狂ったように赤く明滅していた。ボディからは二本のアームと、節足動物を思わせる六本の脚が突き出ている。それが不規則にアスファルトを叩き、耳障りな金属音を響かせていた。
そのドローンの目の前に――小さな女の子と、その子に覆いかぶさるようにしゃがみ込んだ、母親らしき女性がいた。母親の背中は、痙攣するように震えている。
そして驚くべきは、アームの先端に備えられた自動小銃が、その親子へと向けられていることだった。
獲物を舐めるように、銃口が、ゆっくりと回転している。
人間を守るはずの警備ドローンが、人間に銃を突き付けている。だが、その矛盾を考える余裕は、いま――ない。
気づけば天日は、地面を蹴っていた。
全体重を右肩に乗せ、ドローンの側面から叩き込む。衝突の瞬間、鎖骨から肘まで、痺れが走った。機動性を優先した軽量フレームがぐらつき、六本の脚のうち二本が、宙に浮く。だが、残りの四本がアスファルトに爪を立て、踏み留まった。
『新たな敵生体を検知。標的の脅威係数を再評価――優先対象を更新。排除プロトコル、起動』
その胴体が、回転する。単眼レンズの赤い光が、天日の顔面を赤く染めた。自動小銃の照準が、こちらを捉える。
『エンゲージ』
天日は、すぐに左へ跳んだ。水溜まりを蹴って、横っ飛びに転がる。激しい掃射音が夜気を揺るがし、顔のあった位置を通過した銃弾が、コンクリートの壁に炸裂した。爆ぜた破片が粉塵となり、雨に叩かれて、重たく散る。
間髪入れずに、第二射が襲う。
天日は、路肩に放置された車の陰へ滑り込んだ。激しい弾雨が車体を叩き、瞬く間に装甲を削り取っていく。一発の弾丸がその防壁を貫通するまで、三秒と持たなかった。
――腕に熱い線が走った。
痛みは、なかった。あったのは、濡れた布地が裂け、剥き出しの肌に張りつく不快感だけ。皮膚が、かすかに裂けただけだ。だが、数センチずれていれば――天日は、足元の水溜まりに、視線を落とした。
直後、掃射音が止み、機械脚がアスファルトを引っ掻く金属音へと変わる。
こちらへ、向かってきている。――好機だ。
このまま遠距離からの掃射が続き、車陰に縫い付けられたままでは、どうしようもなかった。天日は息を止め、耳を澄ます。車体の前方か、後方か。ドローンがどちらから来るか――雨音を掻き分け、金属音の一点に、意識を集中させる。
――右。
握っていた瓦礫を、車体後方へ放る。同時に、前方から飛び出した。ドローンの自動小銃が、瓦礫が地に触れるよりも早く、それを撃ち砕く。だが、その照準が再び天日を捉えるまでの、わずかな空白。その隙を縫って、天日はドローンの背後から飛びついた。
低い姿勢から倒れ込むように、体当たりを叩き込む。今度こそ、機体が大きくぐらついた。
天日は宙に浮いた機械脚を両手で掴み、全体重を預けて、引き倒す。ドローンの機体がアスファルトを叩き、激しい水飛沫が上がった。仰向けに倒れたドローンの自動小銃が反射的に火を噴き、鈍色の空を、一瞬だけ照らした。
「逃げてください! 早く!」
天日は脚を掴んだまま、伏せて震えている親子に向かって叫んだ。その声は、自分のものとは思えないほど太く、掠れていた。
ドローンは仰向けのまま、機械脚を出鱈目に動かし、力任せに起き上がろうと藻掻いている。天日はそれを全身で押さえ込んでいたが、すでに腕は震え、限界が近づきつつあった。
「どうして――警備ドローンが、なぜ……」
そこへ、遅れてマリィが追いついた。状況を見るなり、迷わずドローンの胴体へと覆い被さり、体重でもって抑え込む。
「あ、ありがとう、ございます――」
母親の声は、ほとんど形を成していなかった。
女の子を抱き上げる腕は、折れそうなほどに細く、雨とも涙ともつかない水滴が、その顔を伝っている。
「きっと、ヴィタルマナよ……あんなのが……ああ」
悲しみと怒りがないまぜになった、震える声。身の上に起きた不条理の原因を、何かのせいにしなければ、やりきれない。そういう、悲愴な響きだった。天日に向けられた母親の視線には、確かに感謝の色が宿っていた。けれど、その奥にもう一つ別の色が滲んでいるのを、天日は、見間違えようがなかった。
泣きじゃくる子供を抱え、母親は何度も礼を繰り返しながら、雨の中へ駆けていった。その背中が路地の暗がりに溶けるまで、天日は、目を逸らせなかった。
「マリィさん――あれを」
天日が顎で示した先に、頭ほどの大きさの瓦礫が転がっていた。マリィは一瞬だけ躊躇い、それから這うようにして、瓦礫に手を伸ばす。持ち上げた腕が、その重さにたわんだ。それでも振り上げ、警備ドローンの脚の関節に、叩きつける。
金属が潰れる音。火花。もう一度。サーボモーターの破片が飛び散り、一本目の脚が、根元からねじ切れて地面に転がった。
だが、三度目の激突で、マリィの腕は限界を迎えた。瓦礫が手から滑り落ち、膝から崩れるように倒れ込んで、全身で息をする。濡れた赤毛が頬に張りついたまま、動かなかった。
「代わります! こっちを、お願いします」
天日は、掴んでいた脚をマリィに渡し、瓦礫を拾い上げた。掌に瓦礫の尖った角が食い込み、血が滲む。だが、構うことなく叩きつけた。何度も、何度も。振り下ろすたびに衝撃が肩を貫き、歯の奥が鳴った。すべての脚関節を砕くと、単眼レンズに、瓦礫の角を突き立てる。その一瞬、レンズは強く発光したが、すぐに光は消え、端々で軋んでいた駆動音も、ふつりと途絶えた。
最後に、自動小銃の銃身を、曲がるまで打ちつけた。
ようやく、安堵が訪れた――途方もない疲労を、引き連れて。
二人は警備ドローンの残骸に背中を預け、肩で息をした。雨が容赦なく降り注ぎ、火照った身体を、急速に冷やしていく。天日の手は、震えていた。震えていたのか、それとも、今になって震えはじめたのか、自分でも判別がつかなかった。
ここに長居すべきでないことは、互いに分かっていた。分かっていて、それでも、立ち上がるための気力が、身体のどこを探しても、見つからなかった。
天日は雨に打たれたまま、砕けたドローンの残骸を、ぼんやりと眺めた。蛍光グリーンの塗装が剥がれ落ち、灰色の骨格が露出している。
長い沈黙のあと、マリィのイヤーデバイスが鳴った。
「緊急回線……? ちょっと、待って」
マリィがちらりと天日を見てから、応答する。
「こんなときに――何っ」
雨音よりも小さな声。天日には、聞き取ることができなかった。代わりに、移り変わっていくマリィの表情を、眺めていた。困惑、驚き、思案。そして、その思案が、覚悟に似た何かへと変わるまでを。
「――了解。わかったわ」
溜息で会話を閉じると、マリィは天日に目を向けたまま、自分のイヤーデバイスを、指先で二、三度叩いた。
『同調を求めています』
天日のデバイスが、通信への参加を告げる。マリィの意図を汲み、それを承認した。
『――やあ、はじめまして』
聞こえてきたのは、渋みのある男の声だった。不思議と、余裕があった。
雨に打たれて座り込んでいる自分たちとは、まるで別の天気の下にいるかのような、飄々とした声音。
『君は、ア・メ・ノ・ヒ、であってる? アメノヒ=エゼン。発音が難しいな。――突然ですまないが、そこのマリィ』
「コアィよ」
間髪入れず、訂正が飛んだ。男はそれを聞いたのか、聞かなかったのか、一拍の間すら置かずに、続けた。
『そこのコアィ女史に、付いてきてくれないか。あまり時間がない。詳しくは、こちらに着いてから話そう』
天日の返答を待たず、通話は切れた。
「行きましょう」
マリィは溜めていた息を吐き、天日の手を引いて、来た道を戻るように、歩き出した。
――遥か遠くで、三度目の爆発音が、響いた。




