第七話「未同期の理由」
足が止まった瞬間、時間が引き延ばされたみたいに感じた。廊下の空気が重くなる。目の前にはクラスメイトたちが並んでいる。全員がこちらを見ている。笑っている。その笑顔は昨日まで知っていたものと同じ形をしているのに、意味が違って見えた。口角の上がり方も、目の細め方も、ほとんど同じだった。まるで“揃えられている”みたいに。
「おかえり」
声が重なる。
後ろから、担任の足音が近づく。規則的なリズム。逃げ場がない。前も後ろも、同じ“側”にいる人たちだと、はっきり理解できた。
胸の奥で、さっきの風の音がまだ鳴っている。草原の映像がちらつく。安心しろ、同じでいろ、とどこかで囁く声がある。でも、その上に薄く重なるように、別の感覚が残っていた。旧校舎の冷たい空気。あの部屋だけが“繋がっていない”感じ。そして、紙に書かれていた言葉。
——ログインするな
もう一つ。
——それも もう つながってる
あの意味が、ようやく形になり始めていた。
「……どいて」
声が思ったよりも低く出た。喉が乾いている。心臓がうるさい。
「教室、戻ろう」
一番前にいた男子が一歩だけ近づく。距離が詰まる。表情は変わらない。
「未同期は、危ないよ」
言葉の選び方が、担任と同じだった。
「みんなと同じにしよう」
後ろから、担任の声が重なる。
「そうすれば、安全です」
“安全”。その言葉が、合図みたいに繰り返される。ここで初めて、はっきり理解した。この人たちは自分の意思で話していない。少なくとも、言葉の選び方は自分で選んでいない。与えられた言葉を、同じタイミングで出している。
——同期
頭の中で、その単語が繋がる。さっき、触れられた瞬間に流れ込んできた感覚。考える前に“安心だと感じる”ように誘導されるあの感じ。違和感を抱く前に、違和感そのものを消されるような仕組み。
「……それ、何してるの」
自分でも驚くくらい、冷静に言葉が出た。
「何って?」
女子が首を傾げる。仕草まで同じ角度。
「同じ動画、同じ言い方、同じタイミング。おかしいって思わないの」
一瞬だけ、間が空く。その間さえも、どこか揃っている。
「おかしくないよ」
誰かが言う。
「普通だよ」
別の誰かが続ける。
「これが正しい」
最後の一言が、少しだけ強く響いた。
正しい。
その言葉に、妙な確信が混じっている。自分で考えていない確信。与えられた確信。
背中に冷たいものが走る。
後ろで、担任が足を止めた気配がした。
「理解が進んでいますね」
穏やかな声。
「いい傾向です」
違う、とすぐに思った。この人は“理解”という言葉を使っているけど、やろうとしているのは理解じゃない。統一だ。ばらつきをなくして、全員を同じ状態にする。
「同期はね、学習効率を上げるんです」
担任の声が続く。説明する口調。授業みたいに。
「余計な情報を減らして、必要なものだけを見せる。思考の無駄をなくす。だから、みんな同じ速度で、同じ方向に進める」
廊下の空気が、さらに重くなる。
「消えた人たちは?」
思わず口に出す。
「……最初からいなかったって、言うんでしょ」
自分でも、半分は予想していた答えだった。
担任は少しだけ首を傾げた。
「“統合”された、と言った方が正確ですね」
その言い方に、背筋が凍る。
「個別の記憶や差異が不要になった場合、最適化されます」
言葉は丁寧なのに、意味が冷たい。
「席が減ったように見えるのは、あなたの認識がまだ揃っていないからです」
つまり、自分だけが“ズレている”。
逆に言えば、他の全員は“揃っている”。
「……じゃあ、元担任は」
言いかけて、口をつぐむ。
担任の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「例外もあります」
短く答える。
「不具合が出た個体は、隔離されます」
あの旧校舎の部屋が頭に浮かぶ。繋がっていない空間。あそこだけが、このシステムの外側にある。
「あなたも、そのままだと同じになりますよ」
穏やかな声で言う。
脅しではなく、事実として。
その言い方が、余計に怖かった。
ポケットの中で、スマホがまた震える。今度は短く、何度も。
ゆっくり取り出す。
画面には、新しい表示。
——同期再試行を提案します
——推奨:今すぐ
その下に、小さく追加されている。
——未同期継続時間:長
時間がカウントされている。
管理されている。
「……これ、止められるの」
小さく呟く。
誰に向けたわけでもない言葉。
でも、その答えは、すでに手の中にある気がした。
旧校舎。
繋がっていない場所。
元担任。
あそこでは、少なくとも“完全な同期”は起きていなかった。
「戻りましょう」
担任が一歩踏み出す。
クラスメイトたちも同時に動く。
完全に囲まれる。
その瞬間、頭の中で何かがはっきりと繋がった。
——外でも安全じゃない
——スマホも安全じゃない
——でも、場所によっては弱まる
つまり、“切断できる場所”がある。
「……嫌だ」
はっきりと言った。
全員の動きが、一瞬だけ止まる。
「同期しない」
その言葉は、思っていたよりも簡単に出た。
怖さは消えていない。でも、それ以上に“飲み込まれる感覚”の方が嫌だった。
担任の表情が、わずかに変わる。初めて、均一じゃない歪みが見えた。
「なぜですか」
静かな問い。
「それは、非効率です」
非効率。
その言葉に、はっきりとした違和感を覚える。
「効率とかじゃない」
言い返す。
「……それ、私じゃなくなる」
口に出した瞬間、確信に変わる。あの瞬間、触れられたときに流れ込んできた“安心”。あれは楽だった。考えなくていい。周りと同じでいられる。でも、その代わりに、何かが削れていた。名前を思い出せなくなるくらいに。
それは、少しずつ消えていくことと同じだ。
担任は、しばらく黙ってこちらを見ていた。
そして、静かに言う。
「……では、強制措置に移行します」
その瞬間、クラスメイトたちが一斉に踏み出した。
距離が一気に詰まる。
逃げ場が、完全に消える。
スマホの画面が、強く光る。
——強制同期:準備完了
頭の奥で、あの風の音が一気に大きくなる。
視界が揺れる。
でも、今度は目を逸らさなかった。
あの旧校舎まで行けば、何かが変わる。
そう確信していた。
足に力を込める。
囲まれる直前、わずかな隙間を見つける。
——走れ
心の中で、はっきりと声がした。




