72話 越中が見つめる先
永禄3年(1560年)7月 出雲 月山富田城
ポタ……
ポタポタ……
「おひいさま、少しづつしか零れてこないですね」
「まあ、それは仕方ないよ。コレはそういうものだから」
「ふーん、おひいさまが言うのなら、そうなのでしょうね」
お元気ですか?
ポタポタと零れ落ちる滴を見つめている玉です。零れ落ちる滴を見つめていると、無我の境地に、悟りの境地に辿り着けそうな気分にさせてもらえますよね? 現に、ここにも瞳孔を開いたまま思考停止をしているオッサンが一人いますので。
滴を見つめる≒悟りの境地は、誰が見ても確定的に明らかなのであります。
これにて、証明終了。
え? 違うって? 瞳孔を開いているオッサンは悟りの境地ではないですって? やだなー。いい歳したオッサンが喉をゴクリと鳴らして唾を飲み込んで、ポタポタと零れ落ちてくる滴を、飲みたそうに我慢しているわけありませんってば。
口の端から涎が垂れていても、それはきっと生体反応的にいえばパブロフの犬だとしても、瞳孔が開いているのなら悟りの境地なのです。
そう、いま私が見つめている滴は蒸留酒なのです。しかし、この蒸留酒は飲むためのモノではなくて、傷口を消毒したり手もみをして殺菌したりする為のモノなのです。まあ、蒸留酒ですから酒としても飲めるんですがね。
でも、飲む酒としてではなくて、まず最初はエタノール消毒液もどきが優先されるのであります。飲兵衛どもには可哀想な気もしますが、飲酒用は後回しの予定です。
「これは消毒の薬を作っているのだから、越中は飲んじゃダメだからね」
「ぎょ、御意。しかし、飲みたいですなぁ。姫様、見ているだけとは辛うござりまする」
……全然悟りの境地に至ってなかったみたいでした。ダメじゃん。飲兵衛である本城常光に、試しに最初に飲ませてしまったのが不味かったみたいですね。失敗しました。反省、反省。
試飲した本城常光の感想がこれまた、『この酒が飲める限り拙者の命、姫様に捧げまする』だなんて、いまにも仰向けになって腹を見せて、服従のポーズを取る大型犬を思わず想像してしまったとしても、私は悪くないはずであります。
武士の意地やらプライドはドコへ行った? 武士の一分とは、酒に負ける程度のプライドだったんですかそうですか。お酒って怖いです……
でも、いま蒸留している酒は、あまり美味しくはないはずなんですけどねぇ。ただアルコール度数が高いというだけでのはずですし。
「このポタポタ垂れてくる酒を溜めて、さらにその溜まった酒をあと二度ほど同じように蒸留するのだから、飲んじゃダメ!」
「なんと!? これで完成ではないですと!」
「蒸留を繰り返すと酒精が強くなるって、木花咲耶姫が少名毘古那から教えてもらったってさ」
「うーむ、酒造りは奥が深かったのですなぁ」
まあ、いま蒸留しているのはエタノール消毒液用ですがね。石鹸に続いて、少名毘古那さんが活躍してくれてますね。少名毘古那は大変博識な神様ですので、私にとっても非常に使い勝手の良い神様なのです。
ちなみに、木花咲耶姫が好きなのは甘酒なんですけどね。日本には酒の神様は多数いるけど、蒸留酒、焼酎の神様って聞いたことがないのですよ。まあ、日本では蒸留酒は新しいモノですから、それで神様がいないのかも知れませんね。
「おひいさま。でも、この蒸留器というのは南蛮由来ですよ?」
あうあうあー、そうだった! 私が博多から取り寄せた蒸留器を真似して職人に作らせたんだった。少名毘古那は関係ないじゃん……
うん? 待てよ? 確か、少名毘古那って渡来人だったはずだよね? よしっ! 渡来人なのだから、お告げの設定は破綻してませんね。もし、春姉に突っ込まれても、有耶無耶にしてしまえば良いのだ!
「少名毘古那は海を渡って日の本にやってきた神様だから、恐らくはそれで知っていたんだよ」
「なるほど、それもそうでしたね」
「それに、日の本には八百万の神様がいるのだから、南蛮に知り合いがいる神様もいるんじゃないかな」
「言葉が通じるのですかね?」
墓穴を掘った!
「か、神様だから、心で会話するんだよ!」
「なるほど、おひいさまも夢の中に神様が出てお告げをくれるとか言ってましたし、神様ならそれもありなんでしょうね」
うむ、のーぷろぐれむ! 問題なっしんぐ!
「私は南蛮の神には、まだ会ったことないけどね」
「おひいさまは、杵築大社の巫女ですから、南蛮の神様も遠慮しているのではないですか?」
「そうかも知れないね」
南蛮の神であるジーザスさん。キリストは唯一神。つまり、一人の神に対して日本は八百万の神。そりゃあ、遠慮もするよね。あー、でも、植民地支配の尖兵たる宣教師は、既に日本にもたくさん入って来てるんだった。
うーん、宣教師か…… キリスト教の問題は、いつかは、なんとかしないといけない問題ではあるんだよね。この当時の一神教って、信者教徒以外の人間は人間じゃないって考え方が問題なんだよね。
ましてや、白人は自分たちは神に選ばれた特別な人種であるなんて、私から言わせれば噴飯ものでキチガイ染みた思想が、白人にとっては当たり前の考え方なのがなんともはや。
……であるからして、白人以外は人間ではない。だもんなぁ。狂ってますね。でも、白人どもはクソ真面目に真剣にそう思っているのだから、なおさら性質が悪いのですよ。
まあ、いま考えても仕方がないか。宣教師とキリシタンに対峙した時にでも考えましょうかね。
「ゴクリ…… 酒精が強くなる。つまり、酒が美味くなる……」
そういえば、酒に関してゴーイングマイウェイな人がいるのを忘れてましたね。
「越中殿、メッですからね!」
「春殿、それは重々承知しておる。しかし、は~、 ……つらいのぉ」
毛利と同盟を結んだことによって、佐摩の銀山を防衛する重要度が低下したので、暇になって半分遊んでいた本城常光を、『酒好きなら情熱を持って打ち込むんじゃね?』そう思い立ったが吉日、石見から召喚して、
消毒液と蒸留酒の試作頭に任命したのですけど、失敗だったかな? いや、酒への情熱だけならば、本城常光の右に出る者は尼子の家中には存在しないはずだと思いますので、この人選は正しかったはずなのです。多分だけど。
いま蒸留している酒の素になったのは、濁り酒です。濁り酒に灰を入れて三日寝かして、濁りの成分を灰に吸収沈殿させて出現した、澄んだ酒を蒸留に使用しているのです。澄んだ酒といっても、やや赤みがかってはいるのですがね。
大元の原料は米ですので、この蒸留酒は米焼酎ってことになるのかな? 焼酎って麦や芋のイメージが強いので、あまり私的には米焼酎はピンときませんね。前世でも焼酎はあまり好んで飲んだ記憶もなかったしね。缶チューハイは好きだったけどね。
「越中は暫くの間は、そっちの赤酒で我慢してよね」
「むむむ、この澄んだ酒も美味いですからのぉ。赤酒で辛抱致しまする」
なにが、むむむ、だ。飲兵衛めっ!
「こっちのポタポタ垂れてくる酒のほうが、越中殿の好みなのですか?」
「どちらも初めて味わう酒なので、甲乙付け難しですなぁ」
「越中には役得として渡してあげるのだから、隠れて飲んじゃダメだからね!」
「ははーっ! この本城越中守、不肖の身ではありますが、姫様の御恩を裏切るような真似だけは決していたしませぬ」
本当に大丈夫ですかね? 私に忠誠を誓っているのではなくて、酒に忠誠を誓っているような気がするのは、気のせいですかね? 少し不安になりますよね……
飲兵衛の本城常光には試作頭の役得として、月に赤酒を一樽と蒸留酒の製造が軌道に乗ったら、一升の蒸留酒を手に入れれる権利をあげたのです。いわゆるインセンティブですね。
ちなみに、樽は2斗樽です。でも、上げ底にしてあるから中身は1斗しか入ってません。つまり、10升ですね。赤酒が月に10升、一日に3合ちょっと。タダ酒で与える分には、それで十分でしょ? 一人で飲む分には、という但し書きが付きますけれども。
「でも、越中がいくら酒が好きといっても、飲みすぎたら酒も身体の毒になるのだから気を付けなさいよ」
「それは重々に心得ておりまする」
「飲みすぎると、本当の意味で肝を潰すよ」
「本当の意味ででござりまするか?」
「うん、五臓六腑の一つである肝臓が壊れるんだよ」
「ははーっ! 肝に銘じまする」
最後のオチは駄洒落かよ……
「おひいさま、肝を冷やすって言葉もありますけど、本当の意味でも肝は冷えるのですかね?」
知らんがな…… いや、肝が28℃以下になれば人間は普通に死にますがな。つまり、人間は驚き恐れすぎると死ぬのである! でも、ビックリして死ぬのはショック死ですよね? つまり、心臓。肝は関係ないじゃん。
うーん、もしかしたら28℃以下で死ぬのは、腸だったかも知れませんね。
うーん、イマイチ……




