9話
第9話 効率的な解体作業
砂地獄の主デザート・デスが、その醜悪な口をガチガチと鳴らしながら、一直線に俺へと突進してくる。
大地が震え、空気が悲鳴を上げる。巨大な脚が砂を蹴り飛ばすたび、砂丘が崩れ、村全体が揺さぶられた。視界は濃密な砂煙に覆われ、遠くでは悲鳴と祈りの声が入り混じって響いている。
逃げ遅れた村人たちは腰を抜かし、地面にへたり込んだまま、祈るような視線で俺の背中を見つめていた。
だが、俺は一歩も動かない。
「真理の速読、拡張展開。術式固定。冷気属性、極大付与」
淡々とした声で宣言する。
通常なら、数十人規模の魔導師団が魔法陣を展開し、数分から十数分の詠唱を重ねなければ成立しない大規模上位魔術。それを、俺は思考が瞬きする間に完成させていた。
詠唱は不要。詠唱という工程そのものが、俺にとってはもはや冗長な手続きに過ぎない。
「凍れ」
その一言を合図に、俺の足元から白銀の冷気が円状に広がった。
次の瞬間。
灼熱と呪いに満ちていた砂漠が、音を立てて凍り付く。砂粒一つ一つが氷結し、黄金色の大地は、一瞬にして光を反射する氷原へと姿を変えた。
突進してきた怪物の脚が完全に凍結する。慣性を失った巨体は制御を失い、凄まじい音を立てて横倒しになった。
「ギィィィィッ!」
苦しい悲鳴が大気を震わせる。
だが、俺は一切の感情を挟まず、流れるような動作で跳んだ。凍り付いた背中へ着地し、怪物の外骨格を踏みしめる。
「金剛砂の甲殻を無傷で剥ぐには、左側第三関節、その付け根だ」
独り言のように言いながら、俺は右手に意識を集中させる。
極小。だが、超高密度。
火炎属性魔力を針のように圧縮する。必要なのは破壊ではない。素材を傷付けず、内部構造だけを焼き切る精密作業だ。
ゲーム知識に裏打ちされた、完全な手順。
本来なら、このレベルのボスは命を懸けて戦い、運が良ければ素材が手に入る相手だ。だが、俺にとって砂地獄の主は、効率よく分解すべき歩く素材箱でしかなかった。
その時。
不意に、異音がした。
はるか上空。雲一つない空から、空気を引き裂くような不自然な音が落ちてくる。
シュゴォォォォォォ。
明らかに速度が異常だ。落下ではない。狙いを定めた突撃。
しかも、その物体から放たれる魔力の質に、俺は背筋が凍り付くのを感じた。
嫌というほど覚えがある。今、この世界で最も会いたくない類の魔力。
「まさか、冗談だろ」
顔を上げた、その瞬間。
空から一筋の紫色の雷光が、地面へと突き刺さった。
轟音。
砂地獄の主の頭部、そのすぐ脇に直撃した衝撃で、俺の体は怪物の背中から弾き飛ばされる。空中で体勢を立て直し、氷上を滑るように着地した。
爆煙が、ゆっくりと晴れていく。
その中心に、膝をついて着地していたのは、ボロボロの法衣を翻し、狂気そのものの笑みを浮かべた金髪の女だった。
「見つけましたわ、リアム様」
アリシア・フォン・ローゼンブルク。
彼女は立ち上がり、俺の姿を視界に捉えた瞬間、恋する乙女のように頬を紅くさせた。
だが、その瞳に宿るのは愛情ではない。底なしの執着と、歪んだ喜びの炎だった。
「アリシア。数キロ先へ転移した俺に、どうやって追いついた」
「愛ですわ」
即答だった。
「あなたの魔力の残り。その香りを辿っただけ。空を翔けて、砂漠を越えて、ここまで来ましたの。ああ、また会えて嬉しい。本当に、本当に嬉しいですわ」
一歩、彼女が踏み出す。
それだけで、足元の砂が黒ずみ、腐ったように変質していく。
背後には、もはや天使の羽ではない。紫の魔力で形作られた、堕天使の翼が広がっていた。
「ギィィィ!」
無視されたことに激昂した砂地獄の主が、巨大な顎を振り上げ、アリシアへと叩き付ける。
「あら」
彼女は振り向きもしない。
「お邪魔虫さん。今、リアム様とお話ししているのが見えませんの?」
左手を、軽く振った。
それだけで。
レベル75の怪物の巨体が、見えない圧力に押し潰されるようにひしゃげ、地面にめり込んだ。
「ギャッ!」
「黙っていなさい。あなたの命は、リアム様の糧になるためにあるのでしょう?」
指先が鳴る。
空から無数の光の杭が降り注ぎ、怪物の四肢を地面へ押さえつけた。
かつて人々を救うために使われた聖なる鎖。その変異。逃げ場を与えない処刑の杭。
「待て、アリシア! そいつの甲殻は無傷で欲しい。そんな風に押し潰したら」
「まあ」
彼女は胸に手を当て、心底申し訳なさそうな顔を作る。
「それは失礼を。では、完全に無力化するだけにしておきますわ。リアム様は、どうぞ美味しいところだけを」
うっとりとした視線が、俺に向けられる。
「あなたは最強であればいい。面倒なこと、汚れ仕事、追ってくる邪魔者は、すべて私が排除します。それが、あなたに救われた私の、生きる意味なのですから」
笑い声が、砂漠に響く。
村人たちは声すら出せず、震えながら抱き合っていた。
助けに来たつもりが、より大きな災厄を呼び寄せてしまった。
俺は額を押さえ、空を見てしまう。
「効率的なレベルアップ計画が台無しだ」
目の前には、瀕死の怪物と、完全に制御不能な闇堕ち聖女。
呪いの砂漠の夜は、どうやら俺の想定以上に騒がしくなりそうだった。




