8話
8話
視界の端々が揺らぎ、陽炎のように歪んでいる。肺に吸い込む空気は湿り気を一切含まず、呼吸をするたびに肺の内側を直接焼き付けてくるような、暴力的な乾燥熱だった。
学園を飛び出し、あの執念深く、独善的な正義感を振りかざす聖女の手から逃れた俺が辿り着いたのは、隣国の国境沿いに果てしなく広がる呪いの砂漠だった。
地図上では、この一帯はただの空白地帯として扱われている。だが、それは未踏という意味ではない。過去に何度も人が足を踏み入れ、そのすべてが帰らなかった結果、伝える価値すら失われた死の土地という意味だ。
大気そのものに、特殊な魔力吸収の呪いが満ちている。呼吸し、歩き、存在するだけで、体内の魔力が削り取られていく。
対策なしに立ち入れば、普通の人間なら数分も持たず、干からびたミイラへと変わり果てるだろう。
だが。
そんな絶望的な環境も、今の俺にとっては単なる設定が厳しめのフィールドでしかなかった。
「真理の速読、発動。恒常バフ。全属性耐性極大、魔力自動超回復。温度調節魔法を並列展開。よし、これで問題ないな」
思考と同時に術式が完成する。
脳内では、何冊もの魔導書が同時に展開され、最適解だけを抽出して即座に魔法へと変換されていく。真理の速読によって強化された俺の思考速度は、もはや詠唱という工程を完全に過去のものにしていた。
肌を刺していたはずの熱は、いつの間にか乾いた暖気へと変わる。砂漠が魔力を奪おうとする速度よりも、俺の回復速度が完全に上回っていた。
俺は、黄金色に輝く死の砂丘へ、一歩、また一歩と足を踏み出す。
この地獄のような場所に来た目的は、ただ一つだった。
かつてプレイしたゲームの知識によれば、この呪いの砂漠のどこかに、歴史から完全に忘れ去られた隠し神殿が埋もれている。その存在は、メインシナリオでは一切語られない。だが、廃人レベルでやり込んだプレイヤーの間では、半ば都市伝説のように知られていた。
狙いは、その最深部に眠る一着の防具。
魔力を物理防御力へと変換する特殊能力を持つ、不撓不屈の法衣アンブレイカブル・コート。
これさえ手に入れれば、生存率は文字通り桁違いになる。魔法攻撃にも物理攻撃にも強く、何より防御力が魔力量に比例して上昇するという、悪役向けにも程があるチート装備だ。
「魔王が完全復活するまで、残された時間は多くない。今のうちに装備を固めて、レベル上げの効率を最大化しないとな」
誰に聞かせるでもない独り言をし、俺は巨大な砂丘の頂上へと辿り着いた。
その時だった。
乾いた風に混じって、微かな声が俺の耳に入った。
聞き間違いではない。切実で、追い詰められた、生きた人間の悲鳴だ。
「人の声か」
即座に魔力感知の範囲を拡張する。
視界の端に、崖下の窪地が映った。そこには小さなオアシスがあり、それを中心に、砂漠の民が細々と暮らす集落が形成されている。
だが、その光景は、生活の匂いとは程遠いものだった。
「ひっ、あああ! 助けてくれ!」
「逃げろ! まただ! また砂の下から出てきたぞ!」
村の中心部で、大地が爆発したかのように盛り上がる。砂が弾け、その下から巨大な何かが姿を現した。
全長は数十メートル。無数の脚を持つ、巨大な節足動物の怪物。
砂漠の生態系の頂点に君臨するボスキャラクター、砂地獄の主デザート・デス。
鑑定魔法を使うまでもない。その威圧感だけで分かる。
レベル75。
本来なら、一国の正規軍が数千規模で包囲し、魔導師団を総動員してようやく討伐できるかどうかの天災級モンスターだ。
そんな存在が、逃げ惑う村人たちを巨大な口で噛み砕こうとしている。
「面倒だな」
俺は、心底うんざりしたように息を吐いた。
俺は救世主じゃない。誰かを守るために戦うヒーローでもない。破滅フラグを背負った悪役令息リアムだ。
自分と無関係な人間を助ける義理はない。ここで関わるより、隠し神殿へ直行する方が、時間効率も生存確率も圧倒的に高い。
それなのに。
「あいつの背中の殻」
思わず、視線が怪物の背中に吸い寄せられた。
「確か、超低確率ドロップの激レア素材、金剛砂の甲殻だったな」
死ぬほどやり込むんだ正確なゲーム知識が、俺の判断を鈍らせる。
あの素材があれば、これから手に入れる予定のアンブレイカブル・コートを、さらに一段階上の強化段階へ引き上げることができる。
通常ドロップ率は1パーセント未満。
だが、特定部位を特定属性で破壊すれば、確定ドロップする裏仕様が存在する。
「別に、助けるわけじゃない」
俺は自分に言い聞かせる。
「俺が欲しい素材を、あいつが勝手に背負って歩いているだけだ。ついでに経験値も美味い」
言い訳を完成させた瞬間、俺は崖の上から飛び出した。
重力魔法で落下衝撃を相殺し、砂煙を巻き上げながら着地する。そのまま、怪物の注意を強引に自分へと引き寄せた。
「おい、デカブツ。その殻、俺が使うことになった」
砂地獄の主が、頭部に密集した無数の複眼をぎょろりとこちらへ向ける。不快な振動音が空気を震わせた。
逃げ惑っていた村人たちは、信じられないものを見るような顔で立ち止まり、俺を見つめている。
「だ、誰だあれ?」
「貴族のような服装だぞ」
「この砂漠を、防護具もなしで」
背後のざわめきには一切構わず、俺は静かに右手を。
脳内では真理の速読が限界まで回転し、数百ページ分の高度な魔導理論が、一瞬で一つの術式へと収束する。
「さて」
冷えた声で。
「砂漠で熱くなりすぎた体には、少し冷やしすぎるくらいが丁度いいだろう」
手のひらの先で、大気中の熱が強引に奪われていく。
絶対零度へと至る冷気が収束する中、俺はただ冷淡に、巨大な怪物を見ていた。
村人たちが絶望の象徴として恐れた存在は、今の俺にとって、効率のいい素材提供者に過ぎなかった。




