7話
第7話 闇堕ち聖女の追跡
古の賢者の塔、その最上階。
夜の森を見下ろしていた俺は、理由のはっきりしない悪寒に背筋を撫でられたような感覚を覚えた。冷たい風が吹いたわけでも、魔物の気配が立ったわけでもない。それでも、心臓の奥が縮むようだ。
レベル60を超えた今の俺の感覚は、もはや人間のそれではない。視覚は夜を昼のように捉え、聴覚は森の奥で踏み折られる小枝の音すら逃さない。そして魔力感知は、世界に漂う異物を拒絶するように反応する。
その感知網に、明確な異常が引っかかっていた。
「速いな。それに、なんだこの重苦しい魔力は」
接近してくる魔力は、異常に歪んでいる。
本来なら、聖女アリシアの魔力は澄み切った光のはずだ。触れれば心が落ち着き、見れば救われるような、そんな性質を持っていた。
だが、今感じているのは違う。
どろりと粘つき、底意地の悪い執念と狂気が絡み合ったような、紫色の波動。魔力でありながら、感情そのものが溶け込んでいるかのようだった。
嫌な予感しかしない。
俺は真理の速読によって最適化された身体強化魔法を即座に起動し、塔の階段を一気に駆け下りた。足は床を蹴っているはずなのに、音はほとんど響かない。魔力制御が完全に体と一体化している証拠だ。
塔の入り口。
重厚な石の門の前に、その影は立っていた。
「見つけましたわ。リアム様」
月光に照らされて浮かび上がったのは、見間違えようのない姿。
アリシア・フォン・ローゼンブルク。
だが、俺の知っている原作ヒロインの面影は、そこにはなかった。
純白だった聖女の法衣は、泥と返り血に汚れ、裾や袖は乱暴に引き裂かれている。丁寧に整えられていた金髪は束ねられることもなく、肩や背中に無秩序に流れていた。
そして、何よりも異様だったのは、その瞳だ。
かつて宿っていた慈愛と安らぎの光は完全に失われ、今そこにあるのは、底なしの沼のような暗い輝きだった。見つめられるだけで、逃げ場を失う感覚がある。
「アリシア? どうしてここにいる。学園はどうした」
俺が声をかけると、彼女は一瞬だけ肩を震わせた。
次の瞬間。
その顔に浮かんだのは、背筋が凍るほど美しく、同時に明確な狂気の笑みだった。
「学園ですか?」
彼女は首を傾げ、微笑む。
「あんな、偽善と嘘にまみれた場所、もうどうでもいいのです。カイル様も、王家も、誰も彼もがあなたを罵り、あなたの本当の価値を知ろうとしなかった。でも、私は違いますわ、リアム様」
彼女はふらつくような足取りで、確実に距離を詰めてくる。
俺は反射的に、一歩後ろへ下がっていた。
おかしい。理屈では分かっている。戦力差だけなら、俺が不利になる要素は少ない。それでも、この場に立っているだけで、喉の奥が締め付けられる。
レベル90の守護者をハメ殺した時よりも、圧倒的に嫌な予感がした。
「お前、さっきから何を言ってるんだ。俺は悪役だぞ。お前の婚約を壊し、学園を恐怖に陥れた、あの学園最強の醜い豚公爵だ」
「いいえ」
アリシアは、はっきりと否定した。
「あなたは、私を救ってくださった救世主です」
断言だった。そこに疑いは一切ない。
「あなたは、カイル様が放ったあの傲慢な魔法を、素手で握りつぶしました。あの時、私には見えたのです」
彼女の声が熱を帯びていく。
「この世界のくだらない秩序を壊し、本当の自由を示してくださるあなたの姿が。あなたは、孤独な悪役を演じることで、私を、私を閉じ込めていた聖女という檻から解き放ってくださったのですね」
「えっ?」
間の抜けた声が出た。いや、待て。こいつ、完全に解釈を飛躍させている。
俺はただ、自分が死にたくなかっただけだ。ゲーム原作では、俺は確定死亡の破滅ルートに配置されていた。それを避けるために、知識を使って効率よくレベルを上げただけだ。
誰かを救う思想もなければ、革命を起こすつもりもない。
「待て待て、落ち着けアリシア。俺はお前を救う気なんてない。俺はただ、俺のために動いているだけだ」
「ええ、ええ!」
彼女は嬉しそうに頷いた。
「それこそが真理ですわ。自分のために、己の力を尽くす。それこそが、神すら恐れぬ真の強者の姿」
そして、陶酔したように胸に手を当てる。
「あなたが去った後、私、気づいたのです。あなたがいなければ、私の人生にはもう、何の意味もないのだと」
アリシアが両手を広げる。
その瞬間、彼女の周囲で聖なる魔力が歪み、どす黒い紫色へと変質した。空気が震え、圧が増す。
これ、完全に闇堕ちのステータス変化だ。原作では、彼女は最後まで光の聖女だったはずなのに。
「だから、私も捨ててきました。家も、身分も、この国での未来も。これからは、あなたと共に歩ませてください」
彼女の背後に、巨大な翼が生まれる。
それは祝福を与える天使の翼ではない。獲物を逃さぬ捕食者の翼だった。
「あなたの邪魔をする者は、この私が排除しますわ。聖女としての権能、そのすべてを捧げて」
「冗談じゃない。やめろ。来るな」
額を冷や汗が流れる。今の俺は強い。だが、この女と行動を共にすれば、隠密修行どころではなくなる。それどころか、俺の行く先々が戦場になる未来しか見えない。
何より、この目だ。冗談ではなく、本気で俺を中心に世界を作り替えるつもりの目をしている。
「悪いが、俺は一人で自由に生きる主義だ。ついてくるなら、力ずくで止めてもらうぞ」
「ふふ」
アリシアは異様な笑みを浮かべた。
「力ずくですか。素敵ですわ。あなたの荒々しい魔力で、私をどうにかしてくださるのですね」
だめだ。完全に通じていない。
俺は即座に決断し、真理の速読を最大出力で発動。詠唱不要の転移魔法を構築する。
「さらばだ、アリシア。俺を追うのは諦めろ」
空間が歪み、視界が反転する。
転移の直前、背後から聞こえた声に、心底鳥肌が立った。
「あははっ! 追いかけっこですね! 地の果てまでも追いかけますわよ、リアム様!」
数分後。
俺は隣国との国境に広がる呪いの砂漠の入り口に立っていた。
「死ぬかと思った」
常人なら一分も持たず魔力を吸い尽くされる土地だ。さすがに、あの聖女でも簡単には来られないはずだ。
「魔王より怖えよ。あいつ」
砂漠の奥へと歩き出しながら、ふと嫌な想像が頭をよぎる。
もし、闇に堕ちた聖女の執念が、ゲーム原作のシステムすら凌駕し、俺の魂を追ってくるとしたら。
「死のフラグは折ったはずなんだがな」
乾いた笑いが出る。
「なんだよ、この新しい生存フラグの重さは」
どうやら俺の悪役街道は、想定よりも遥かに騒がしく、そして命がけになりそうだった。




