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第87話 不夜城の乙女と、泥沼の防衛戦
怠惰とは、何もしないことではない。明日でいいという甘い毒を脳に直接注射され、今この瞬間の輝きを自らドブに捨てる行為を指す。
俺の領地シロ・ノヴァにおいて明日という言葉は禁句だ。
あるのは今とさらに効率化された次の一秒のみである。
俺が摩天楼の頂上で地脈の微調整に没頭している間、領地の境界線では危機が訪れていた。
怠惰の眷属で物理的な実体を持たない忘却の残りの者たちが、黄金の霧と共に押し寄せていたのだ。
「ううっ、しつこいですわね! この、お昼寝大好き集団め!」
防壁の最前線。アリシア・フォン・ローゼンバーグは、可憐な顔を怒りに染め、王家秘伝の魔導杖を振り回していた。
彼女の周囲には、俺が施した覚醒結界をさらに増幅・指向性を持たせたアリシア独自の術式不眠の処刑場が展開されている。
「アリシア様、左方より夢食いの群れが接近。彼らの歌声に耳を貸さないでください。精神のガードが揺らげば、一瞬で寝床へ連れて行かれます」
隣で影を操るセレーナが、警告を発する。セレーナの影の刃は、霧を切り裂くたびにシュンと、眠たげな音を立てて消失していた。概念的な敵に対して、物理的な影は相性が悪いらしい。
「分かっていますセレーナ、貴女は影を実体化させるのをやめなさいな。魔力の無駄です。ここは、わたくしが光で焼き払って差し上げます」
「光、ですか? 主からは、魔力の温存を命じられていますが」
「リアム様は効率を重視されますが、時には圧倒的な物量による解決も必要だと思いませんこと。見てなさいな」
アリシアが杖を高く掲げると、彼女の足元に巨大な多重魔法陣が展開された。俺が教えた構造解析の応用。光の概念を刺激へと変換し、それをレーザーのように収束させるアリシア流の魔法。
「響け! 魂を叩き起こす福音! 極光の目覚ましアラームよ!!」
次の瞬間、アリシアを中心に、直視不可能なほどの純白の光弾が四方八方へと放たれた。単なる破壊の光ではない。
当たった対象の眠気を物理的な衝撃に変換し、霧を構成する魔力粒子を強制的に励起させて爆発させるという、極めて性格の悪い術式だ。
パパパパパンッ!! と、空中で黄金の霧が次々と弾け飛ぶ。
「メェ、お、や、すみ」
霧の中に潜んでいた眷属たちが、安らかな顔のまま光に焼かれ、蒸発していく。
「すごいですわね、アリシア様。主が仰っていた凄まじいまでの光の暴力とは、このことですか」
セレーナが、珍しく呆気にとられたように呟いた。
「凄まじいってなんですのよ。これは情熱ですわ、情熱。ああ、それにしても、この光を維持するのは少し、頭が痛くなりますわね」
アリシアがふらりとよろける。俺の覚醒結界の中にいるとはいえ、これほどの広域殲滅魔法を連発すれば、精神疲労は避けられないだろう。
「アリシア様、下がってください。ここからは私の影で」
「いいえ、セレーナはさっきから、影が布団の形になりかけていますわよ。貴女こそ、少しリアム様の魔力供給を直接受けなさい。わたくしは、まだやれます」
戦闘の合間。一時の静けさが訪れた防壁の上で、二人は肩を並べて座り込んだ。
「セレーナはどうしてあんなにリアム様に忠実なんですの? いえ、わたくしもリアム様をお慕いしておりますけれど、貴女のそれは、なんだか自らの個を消してしまっているようで、時々心配になります」
アリシアが、魔力回復薬、これもまた目が覚めるほど苦いを飲み干しながら尋ねた。
セレーナは、自分の指先を見つめ、静かに答える。
「私は、主がいなければ、今頃はどこかの地下室で、名前も持たぬ道具として朽ちていたでしょう。主に拾われ、名前を、意志を、そして義務を与えられた。私にとって、主に従うことは自分が生きているという唯一の証明なのです」
「義務、ですか。リアム様らしい冷たさですわね。でも、あの方は義務と一緒に居場所も与えてくださる。そこが、憎めないところ」
アリシアは夜空を見上げた。俺の放つ青い光と、アリシアが先ほど放った白い光が混ざり合い、幻想的な景色を作っている。
「わたくしね、本当は、少しだけ怖かったんですの。ベルゼブブのような分かりやすい悪意よりも、このあくびが出るような平和の方が、ずっと自分を失くしてしまいそうで」
「わかります、影の中にいると、そのまま闇に溶けて、何も考えなくていいという誘惑が、絶えず聞こえてきます」
「だからこそ、わたくしたちが、リアム様の一番近くで、あの方を支えなきゃいけませんのよ。あの方は一人で全部背負いすぎて、そのうち自分まで機械のように無感情になってしまいそうですもの」
アリシアが、キュッと拳を握る。
「セレーナ。次に来る群勢は、さっきの倍以上です。わたくしが光の結界で霧を弾きます。貴女は、その隙間に潜む核を、影で確実に仕留めて。よろしいかしら?」
「御意。アリシア様の背中は、この影が死守いたします」
「おーーーい! 二人とも、無事かーーい!!」
階下から、泥だらけでボロボロになったカインが、巨大な排水溝の蓋、防石板として流用したものを背負って駆け寄ってきた。
「まあ、カイン様。随分と野生味溢れるお姿ですわね」
「笑わないでよアリシア。リアムに防壁の補強が終わるまで、瞬き禁止って言われてさ、もう目がバキバキだ。それより、あっちの森を見て。なんか、すごいのが来てる」
カインが指差す先。黄金の霧が凝縮され、巨大な揺り籠のような形をした、山ほどもあるゴーレムが姿を現した。
怠惰の眷属・中ボス級。夢見る巨神タイタンだろう。
「怠惰の眷属・中ボス級。夢見る巨神タイタンだなあれは」
「あの巨神は、物理攻撃をすべて眠気に変えて吸収する厄介な個体です。カイン様の聖剣では、斬れば斬るほどカイン様が眠くなるだけですわ」
「えぇっ!? じゃあ、どうすればいいんだよ!」
アリシアが不敵に微笑み、杖を突き出した。
「セレーナ、カイン様。わたくしを支えなさい。リアム様から教わった、極大のエネルギー反転を使います。幸福を焦燥に、安らぎを恐怖に書き換えて、あのデカブツに叩き込んであげますわ!」
「恐怖にか。ある意味で死より残酷な攻撃ですね」
セレーナがアリシアの影を補強し、魔力を供給する。カインは盾を構え、彼女の前に立ち塞がった。
「目覚めなさい! そして、働いて、悩み、苦しみなさい! 不眠不休の聖光!!」
アリシアから放たれた極大の光軸が、巨神の胸を貫いた。巨神は「グォォーー」と心地よげな声を上げていたが、次の瞬間、その全身を焦燥の稲妻が駆け巡り、パニックを起こしたかのように壊れ始めた。
激闘が終わり、夜明けの光が地平線から差し込んできた。巨神は消え、霧は一時的に後退した。
アリシアは、その場にぺたんと座り込み、肩で息をしている。
「はぁ、やりましたわ。リアム様、見ていらしたかしら?」
「主なら、あそこの時計塔の上で、今の戦闘のログを数値化して記録していましたよ。後で魔力出力の無駄が三%あったと、一時間ほど説教される準備をしておいたほうがよろしいかと」
「あ、あはは。それも、リアム様らしいですわね」
アリシアが苦笑いしながら、セレーナの差し出した手を取る。
俺は、時計塔の上から、その様子を見ていた。
「三%か。いや、あのアリシアの独創性は、計算外の収穫だな」
俺は、彼女たちの戦いによって守り抜かれた「活気ある不夜城」を眺めた。
怠惰の支配下にあって、これほどまでに激しく、騒がしく、熱い魂をぶつけ合う乙女たち。
ベルフェゴールが用意した最高に幸せな夢は、俺の部下たちには少々退屈すぎたようだ。
「さあ、アリシア、セレーナ、カイン。五分だけ寝るのを許可してやる。その後は、壊れた防壁の修復だ。いいな?」
俺の声が領地に響き、三人の絶叫が響いた。




