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第85話 あくびの軍勢
やる気という名のガソリンが切れた人間は、肉の塊に過ぎない。肉の塊が数万単位で押し寄せてきたら? しかも、そいつらが武器ではなく枕を抱えて、幸せそうな顔でこちらの防壁をよじ登ってくるとしたら?
それはもはや戦争ではない。悪夢のような集団添い寝の強要だろう。
俺が新都市シロ・ノヴァの建設現場で、人々に寝たら死ぬぞという愛の鞭での物理的な魔力刺激を振るっていたその時。
境界線の向こう側、黄金の霧がひときわ濃く渦巻いた。
「リアム様。来ましたわ。ですが、あれは軍勢と呼ぶには、あまりにも緊張感が欠如しておりますわね」
アリシアが、新設された監視塔の上から、遠くの地平線を指差した。アリシアの瞳には、俺が施した真実眼マジック・アイの術式が組み込まれており、霧の向こうに潜む異形を捉えていた。
「ベルフェゴールの手駒か。カイン、出番だ。寝ぼけたツラを叩き直してやれ」
「えぇっ!? 今、僕、排水溝の泥さらいを終えたばっかりだよ!? うわっ、なんだあれ! 敵なの!? ぬいぐるみ?」
カインが腰の聖剣ガラティーンを抜き放ち、身構える。霧の中から現れたのは、数千、数万という単位の羊のような姿をした魔物たちだった。羊ではない。毛並みは雲のようにふわふわとしており、歩くたびにパフパフと心地よい音を立て、周囲にラベンダーとおひさまを混ぜたような、殺意を削ぐ甘い香りを振りまいている。
「ついに来たぞ。七人の大罪。怠惰のベルフェゴール眷属、睡魔サンドマンの群れだな」
「主、彼らの足音そのものが、精神を鎮静させるリズムを刻んでいます。不用意に近づけば、呼吸さえも止めたくなるほどの安らぎに沈められるでしょう」
影の中からセレーナが警告を発する。彼女の影ですら、今は地面でとろりと溶け出し、攻撃的な鋭さを失いつつあった。
群勢は、叫び声を上げない。数万匹の羊たちが「メェー」と、この世の悩みすべてを忘れさせるような柔らかな鳴き声を上げながら、地平線を埋め尽くしてやってくる。
境界線で防衛にあたっていた、俺の強制目覚めを受けた民たちが、鳴き声を聴いた瞬間に、持っていたツルハシをポロリと落とした。
「あああ、もう、いいかな。石を運ぶの、疲れちゃったな」
「リアム様は怖いけど、羊さんの毛の中に埋もれたら、きっと」
一人、また一人と、俺の覚醒魔法が効果なく、膝を折っていく。ベルフェゴールの戦術は奪うことではない。与えすぎることなのだ。
過剰な安らぎ、過剰な幸福、過剰な無責任。それらを叩きつけられた人間は、生物としての闘争本能を根こそぎ溶かされてしまう。
「チッ。非生産的な連中め。シロの出番だ。奴らの甘い香りを、一撃で吹き飛ばしてくれないか」
「ワンッ!!」
俺の足元にいたシロが、六枚の翼を黄金に輝かせ、天高く舞い上がった。
秘銀ミスリルの装甲が太陽を反射し、領地全体に鋭い光を散らす。
「管理者の権能:オーバードライヴ。シロ、叫ぶんだ!」
シロが大きく息を吸い込み、遠吠えを放った。
「クゥォォォォォォォォォォォォォン!!!!」
声は、ただの音波ではない。俺の魔力によってカフェインのようなものと闘争心の概念を圧縮した、魂への劇薬に近い。
遠吠えの衝撃波が羊の群れを直撃し、立ち込めていた黄金の霧を真っ二つに切り裂いた。
「あああっ! あ、危なかった。今、僕、一生なまけものとして生きる決意をしかけたよ!」
カインが、聖剣を杖にしてなんとか立ち上がる。
「カイン、甘えるな。羊の群れの後ろを見ろ。真打ちのお出ましだぞ」
睡魔の騎士だろうな。霧が晴れた先、羊たちの波を割って進んでくる一体の騎士がいた。
全身を重厚な、けれどどこか丸みを帯びた象牙色の鎧で包んだ巨漢だ。
騎士は、巨大なクッションのような盾を持ち、剣の代わりに香炉がついたモーニングスターを引きずっている。
奴が歩くたびに、香炉から紫色の煙が立ち上り、シロの遠吠えで晴れた空気が再び澱んでいく。
「我が名は怠惰の第一騎士、静寂のスランバー。公爵よ、なぜ、そこまで急ぐ? 世界は、眠りを求めている」
騎士の静寂のスランバーの声は、聞いているだけで鼓膜がとろけそうなほど心地よい低音だった。確か、原作ゲームでも登場した敵キャラだったか。
「理由? 決まっているだろう。俺が、夜更かししてでも成し遂げたい娯楽、つまりは開拓の邪魔をされたくないからだ」
俺は指先で小さな魔導回廊を構築した。
「重い鎧を着て。疲れるだろう? 盾に、身を任せよ」
スランバーが、ゆっくりと香炉を振りかぶる。
香炉から放たれた煙が、意思を持つ生き物のように、俺の街シロ・ノヴァへと雪崩れ込んできた。そこで対抗として覚醒をしよう。
「絶対覚醒!」
俺は、摩天楼の芯柱から供給される膨大な魔力を使い、領地全域に冷たい氷の針を降らせた。
物理的なダメージはない。針に触れた者の精神は、まるで氷水をぶっかけられたかのような強烈な覚醒状態へと引き戻されるわけだ。
「痛いっ! リアム様、針、精神的にとっても痛いですわ! おかげで目が覚めましたわ。よくも、わたくしを寝かせようとしましたわね、不潔な羊さんたち」
アリシアが、怒りの魔力を杖に集約させる。
「セレーナ、カイン、羊は雑魚だ、俺が魔法で一掃する。香炉の騎士を黙らせるのを頼む。五分以内に仕留めなければ、今日の夜食は苦い薬草粥だけだぞ」
「それは、死よりも辛い宣告。承知しました」
「わわっ、やるよ! やればいいんだろ! 光輝の連撃!!」
カインが、光の尾を引いて静寂のスランバーへと肉薄した。新生・聖剣ガラティーンが、象牙色の鎧に叩きつけられる。
ガギィィィィン!!
金属音が響く。静寂のスランバーは微動だにしない。
「無駄だ。必死さは、すべて私の布団シールドが受け止める」
静寂のスランバーの盾が、物理的な衝撃を柔らかい魔力へと変換し、無効化していく。
それどころか、剣を当てたカインの腕から、急激に力が抜けていくのが見えた。
「腕が重い。剣を振るのが、面倒くさくなってきた」
「カイン、下がれ! 影の縛鎖!」
暗殺メイドのセレーナが、スランバーの足元の影を鋭い槍に変えて貫こうとする。影の槍さえも、スランバーの香炉から漏れる煙に触れると、ふにゃふにゃと曲がり、攻撃性を失ってしまった。
「なるほど。単なる精神干渉じゃない。周囲のエネルギーのベクトルそのものを、強制的に停止へ向かわせる権能か。ベルフェゴールの直属だけはある」
俺は、シロの背中から飛び降り、スランバーの正面に着地した。手強いな。一歩間違えば、全滅しかねないな。
「公爵、自ら眠りに落ちに来たか?」
「いいや。不眠症の辛さを教えてやろうと思ってな」
俺は、左手を高く掲げた。摩天楼の天辺から、俺へと一本の太い魔力のラインが接続される。
「強制稼働。セレーナ、カイン、アリシアたちの時間の進みを、十倍に加速させる」
俺が指を弾くと、三人の全身を青白い電光が駆け抜けた。
「えっ!? なにこれ、体が勝手に動く! 速い、速すぎる!」
カインの動きが、肉眼では追えないほどの残像へと変わった。スランバーの停止の権能が追いつく前に、カインの剣が十回、二十回と鎧の隙間を切り裂いていく。
「速い、すぎる。追いつけな」
「トドメだ。シロ、全魔力を一点に集中しろ!」
俺とシロが同時に放つ、極大の魔力放射。熱でも光でもなく、対象の細胞一つ一つを無理やり叩き起こし、過負荷で焼き切る覚醒だ。
「不眠のフレア!!」
ドォォォォォォォォォォォォン!!
スランバーの巨大な体が、内側から溢れ出す青い光に包まれ、爆発した。
衝撃波が羊の群れを一掃し、黄金の霧を完全に消し飛ばす。
爆煙が晴れた後、そこにはボロボロになった象牙色の鎧の破片と、消えかかった香炉だけが転がっていた。
数万の羊たちは、魔力供給を失って、ただの綿毛のような塵となって消えていく。
「はぁ、はぁ。リアム、死ぬかと思った。体が、まだ勝手にガクガク動いてるよ」
加速の反動で地面に倒れ込むカイン。
「主。敵の将を討ちましたが、霧の奥から、さらに巨大なあくびが聞こえた気がします」
セレーナが、冷や汗を拭いながら北の空を見据えた。俺は、摩天楼の屋上に再び戻り、平らになった地平線を眺めた。
「当然だ。今の騎士は、ベルフェゴールが寝返りを打った際に出たザコのようなもの。本番は、奴が重い腰を上げた時だ」
俺は、手のひらに残る熱を冷ますように、夜風を受けた。戦いは始まったばかりだ。疲れ果てた仲間たちを冷ややかに見下ろしながら、内心ではシロの毛並みを心配しながら、次なる強制労働の予定を脳内に書き込んだ。
「カイン。五分休んだら、次は壊れた石垣の修理だ。怠惰に勝つには、寝る間もないほどのやりがいが必要だからな」
「鬼だ! リアム公爵は、本物の魔王より鬼だー!!」
領地に響き渡るカインの叫び。それこそが、ベルフェゴールの呪いを打ち破る、最高に目覚めのいい音楽だった。




