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第84話 無為なる行列と、不眠の沙汰
安息とは、本来、乾いた喉を潤す一杯の水のように、苦難の果てにこそ許される甘露であるはずだ。水に毒を盛り、一生目を覚まさぬ沼へと人々を突き落とす者がいる。
名を怠惰のベルフェゴール。七人の大罪の一人。そいつの吐息は今や、王都から新領地シロ・ノヴァの境界線まで、黄金色の霞となってねっとりと這い寄っていた。
俺の目の前には、異様な行列が出来上がっている。王都から流れてきた民草だ。足取りは泥に足を取られたかのように重く、瞳は焦点の合わぬまま。ただ心地よい場所を求めてウロウロしている。
「ああ、リアム様。見てください。あの方々の顔、まるでお酒に溺れて、そのまま幸福な夢の中に溶けてしまったかのようですわ」
アリシアが、覚醒の結界の縁で、不気味な行列を見つめて戦慄している。彼女の手に握られた杖からは、俺が命じた青い魔力が火花を散らしており、近づこうとする霧をパチパチと弾き飛ばしていた。
「ふん。魂を磨くことを忘れ、ただ肉の器を休めることだけに耽るか。カインもあの中に入りたいか?」
「と、とんでもないよ! あんな風に、よだれを垂らしながら笑って歩くなんて、勇者の名が泣いちゃうよ! でも、なんだろう。見てるだけで、こっちまであくびが伝染しそうなんだ」
カインは、自身の頬をパチンと叩いて気を引き締めている。無理もない。ベルフェゴールの呪いは、戦意がある者ほど戦うことの虚しさを増幅させて、意志を去勢していくのだから。
俺は、更地から街へと姿を変えつつある領地の入り口に、一本の巨大な石柱を打ち立てた。
そこが、俺の管理と奴の怠惰が衝突する境界線だ。
「主。第一陣の群衆が、境界に到達しました。中には、高名な学者や、王都の政務官の姿も見えます。しかし、誰もがただ眠らせてくれと口にするばかりです」
影の中からセレーナが言う。彼女の指先は、俺が授けた氷晶の糸によって、眠気に沈む感覚を物理的な痛みで上書きしていた。
「よろしい。ならば、俺がこの地に相応しい目覚めを与えてやろう」
俺は行列の先頭に立ち、空に向かって指を弾いた。
管理者の権能:強制自立。
青い魔力の波動が、境界を越えようとする群衆に降り注ぐ。慈悲深い癒やしではない。脳髄に直接義務と自律を打ち込み、無理やり脊髄を真っ直ぐに伸ばさせる、精神の矯正術だ。
「ううっ!? がはっ、な、なんだ!? 急に、頭が割れるように、いや、冴え渡っていく!?」
先頭にいた、だらしない服を着た男が、地面に膝をつきながらも顔を上げた。瞳から、ベルフェゴールの黄金の霞が追い出され、現実という名の光が戻ってくる。
「目覚めたか、迷い人よ。ここは安らぎの園ではない。己の知恵を、腕を、魂を、一秒も休むことなく削り、明日を築くための鍛錬場だ」
俺の言葉は、魔力に乗って一人一人の鼓動を叩く。
「あ、暖かい夢を見ていたはずなのに。どうして、こんなに心が騒がしいんだ。リアム公爵様?」
「夢で腹は膨れん。セレーナ、目覚めた者たちの手に、スコップと魔導工具を握らせよう。アリシアは彼らに都市の下水道設計図を叩き込もう。一文字でも忘れたら、今日の夕食は抜きだ」
「は、はいっ承知いたしましたわ、リアム様。皆様、いつまで惚けていらっしゃいますの。さあ、知性を働かせなさいませ!」
アリシアが、先ほどまでの眠気をどこへやら、鬼教官のような顔で民衆を追い立て始めた。
「ひ、ひぃぃっ! 眠らせてくれるんじゃないのか!?」
「静かにしろ。俺には、寝ることよりも、石材を積まなきゃいけないっていう衝動の方が強いんだ! なんだこの、奇妙なやる気は!」
そう、これが俺のやり方だ。ベルフェゴールが無為を与えるなら、俺は過剰なまでの目的を与える。
何もしないことが苦痛になるほどの、圧倒的なまでの作業量。思考を停止させないための、絶え間なき情報の洪水だな。
俺は、さらに都市の中枢で、聖剣モデルの芯柱へと戻った。
基礎は終わった。次は、都市に声を与える番だ。
「シロ、頂点へ飛べ。シロの遠吠えを、柱の増幅器に注ぎ込んでくれ」
「ワンッ!!」
シロが翼を羽ばたかせ、天を突く柱の上へと舞い降りた。そこには、俺が錬成した巨大な魔導拡声器が設置されている。
俺は地上から、柱全体に張り巡らされた魔導回路を起動した。
シロが喉を鳴らし、全身の魔力を込めて吠えた。
「クゥォォォォォォォォォォォォン!!!!」
声は、柱の増幅回路によって物理的な衝撃波となり、領地全域、さらには王都の国境付近までをも激しく震わせた。
黄金の霧が、遠吠えの一撃で消えていく。
「いい声だ。これこそが、生きる者の遠吠えだろう」
新しく建設された広場を見渡した。先ほどまで死人のようだった民たちが、怒鳴り合い、議論し、重い石を運び、汗を流している。
カインが光景を見て頬を引きつらせていた。
「リアム。みんな、目が血走ってるよ。これ、本当に救ったことになるのかな?」
「動かぬ心は、腐った水と同じだ、カイン。俺は、奴らの心の水をかき混ぜ、流れに変えてやっているに過ぎない。ほら、遊んでいないで、あの巨大な排水溝の蓋を一人で運んでこい。聖剣を使わずに、だ」
「えぇっ!? 人力!? 僕、勇者だよ!? 腕が取れちゃうよー!!」
カインの情けない叫びもまた、都市の活気の一つとして飲み込まれていく。俺は知っているのは、不自然なまでの熱狂は、俺の魔力による強制に過ぎないことを。
境界線の向こう、まだ黄金の霧が濃く漂う森の奥。
そこから、大きなあくびのような風が吹いてくる。
「見ていろよ、ベルフェゴール。世界を静けさに沈めたいなら、俺は領地を、天界まで届くほどの大騒ぎで満たしてやる」
管理者の辞書には、停滞という言葉はない。あるのは、拡張と、向上と、終わることなき前進のみだ。
俺は、次に建設すべき中央図書館の設計図を脳内で広げた。知識とは、時に人を最も激しく突き動かす毒となる。それを、ベルフェゴールの毒に対抗する薬として処方してやるのだ。
「セレーナ、次の群衆が来たぞ。次は、王都の楽団員たちのようだな。彼らには、二十四時間止まらぬ歌を演奏させてくれ」
「御意。主の采配、まさに、魂のむちにございます」
夕焼けに染まる不夜城シロ・ノヴァ。怠惰との戦いは、まだ序の口に過ぎない。
俺は、新たな民たちの労働の音を背に、次なる不眠の計略を練り始めた。
眠れる森の美女なんて物語は、俺の領地には必要ない。必要なのは、泥にまみれて明日を掴み取る、泥臭い人間の姿だけだ。
「さあ、夜はこれからだ。明日の朝までに、中央広場の石畳をすべて完成させるか。遅れた者には、俺の直接指導が待っているぞ!」
俺の宣言に、民たちが悲鳴と、それ以上の熱狂をもって応えた。不夜城の灯火は、今までにないほど激しく、輝き始めていた。




