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第76話:捕食要塞と、黄金の翼(前編)
伝説の鍛冶師バルガンが打ち出した至高の武具を携え、俺たちは再び、あの忌まわしき大断層グラトニーの淵へと戻ってきた。数日前に訪れた時とは、その光景は一変していた。
「何ですの、あれは。まるで、大地が病に侵されているようですわ」
アリシアが、震える声でその光景を指差した。巨大な穴に過ぎなかった大断層は、今やそこから溢れ出した赤黒い肉壁が周囲の森を飲み込み、ドーム状の巨大な要塞へと変貌を遂げていた。
それは生物の胃袋がそのまま巨大化し、地上に露出したかのようだ。要塞の表面には無数の巨大な口が並び、周囲の空気、魔力、さらには光さえも、不気味な食べる音と共に吸い込み続けている。
「主、要塞全体が脈打っています。大断層の底にある地脈から、無理やり魔力を吸い上げ、自己増殖を繰り返しているようです。もはや、ベルゼブブは個体ではなく、この領域そのものと化しています」
セレーナが影の中から報告する。その声には、冷たい彼女にしては珍しく、微かな嫌悪感が混じっていた。
「事態は深刻だな」
俺はシロの背中を叩き、鼻をつく胃液のような悪臭に眉をひそめた。原作では、ベルゼブブはこの時点でまだ穴の底で眠っていた。俺たちが一度干渉し、バルガンの鋼を求めて動いたことで、奴の生存本能が防衛本能として加速したらしい。望むところだ。隠れているよりは、その醜い姿を晒してくれた方が叩きやすいからな。
「リアム! 見て、あそこの口から、さっきの亡霊騎士たちが次々と吐き出されているよ!」
カインが聖剣を握りしめ、要塞の入り口らしき巨大なあごを指差した。あごからは、以前よりも凄まじいオーラの飢餓の軍勢が、津波のように溢れ出していた。
「アリシア、カイン! 雑兵は任せる。セレーナは影の道を作り、俺とシロを要塞の喉元まで送り届けてくれ!」
「「了解!!」」
アリシアが杖を高く掲げ、闇の結界を展開する。
「常闇の防壁! 誰一人として、リアム様の背中は踏ませませんわ!」
カインもまた、バルガンに研ぎ直された真・聖剣ガラティーンを抜いた。
「いくよ、僕の新しい相棒! 光輝の旋風!!」
カインが剣を大振りすると、前は吸い込まれていたはずの聖なる光が、逆に亡霊たちの身体を腐敗させ、塵へと変えていく。バルガンの施した再生阻害の祝福が、完璧に機能していたようだ。
「ワンッ!!」
シロが、バルガンから授かったミスリル・アーマーを激しく鳴らし、空へと舞い上がる。
黄金のラインが走るその翼は、ベルゼブブが放つ強力な吸引力による捕食の嵐の中でも、少しも揺らぐことはなかった。
「すごい。吸引力が、シロちゃんの翼に弾かれていますわ」
アリシアが感嘆の声を上げる。俺はシロの背に立ち、要塞の表面に並ぶ無数の口を見物した。
「管理者の権能:強制飽和。そんなに食べたいなら、俺の魔力をくれてやる。ただし、胃袋が破裂しない程度にな」
俺が指を弾くと、シロの翼から数千の光の矢が放たれた。要塞の口の一つ一つに突き刺さり、内側から強烈な魔力の膨張を引き起こす。
ズガガガガッ! と、要塞の肉壁が悲鳴を上げ、ボロボロと崩れ落ちた。
セレーナが作った影の回廊を抜け、俺たちは要塞の内部で、ベルゼブブの食道へと突入した。
内部は、外見以上にグロテスクだった。壁からは常に消化液が滴り、足元は粘り気のある肉の絨毯が広がっている。何より、ここには音がなかった。正確には全ての音が、奴の飢えに吸い込まれているのだった。
「静かすぎますわ。自分の心臓の音だけが、耳元で鳴り響いているようです」
アリシアが俺の服をぎゅっと掴む。
「主、前方に高密度の魔力反応。どうやら、ただの迷宮ではないようです」
セレーナの警告通り、通路の先から、一体の鏡のような皮膚を持った魔物が現れた。ベルゼブブの直属の眷属、鏡像の飽食者だろう。そいつが目の前に立った瞬間、俺たちの姿が鏡の中に映り込む。そして鏡の中から俺たち自身が這い出してきた。
「ベルゼブブの直属の眷属が出たな」
「な、なんですの!? わたくしがもう一人!?」
「僕も!? 聖剣までそっくりだ!」
鏡像の俺たちは、一切の感情を排した無機質な瞳で、こちらを見据えていた。
原作知識では、こいつは相手の最も誇りに思っている力をコピーし、それを空腹という属性に変えてぶつけてくる。カインの聖剣なら光を、アリシアの魔力なら闇を。こいつには一つだけ、絶対にコピーできないものがあるんだよな。
「カイン、アリシア。そいつらは偽物だ。自分たちの力に自信があるなら、それを疑う必要はない」
「リアム様、でもあちらのわたくしも、全く同じ闇の魔法を使おうとしていますわ」
「セレーナなら分かるな? 影に偽物は存在するか?」
セレーナは一瞬、目を細め、そして小さく首を振った。
「影は光があってこそのもの。光を偽ることはできても、その持ち主の歩んできた道までは写せません」
「その通りだ。全員、攻撃をやめよう。シロの声を聴かせてやるんだ」
俺はシロの首筋を撫でた。シロは瞳をカッと見開き、深く息を吸い込んだ。
「クゥォォォォォォォォォォォォン!!!」
神獣の遠吠えが、要塞内部を震わせた。遠吠えには、俺たちが領地で過ごした騒がしい日々、笑い声、バルガンの工房で響いた槌の音、それら全ての生の音が込められていた。
パリンッ!!
鏡像の俺たちは、その音の厚みに耐えきれず、まるで安物のガラスのように粉々に砕け散った。
「え? 攻撃もしないで、シロちゃんの声だけで?」
カインが呆然と口を開ける。
「奴らは空っぽなんだよ、カイン。俺たちが持っている積み重ねてきた記憶という名の質量に、ただのコピーが耐えられるはずがない。さあ、先を急ぐぞ。メインディッシュは、この奥だ」
迷宮の最深部へと辿り着いた俺たちの前に、巨大な膜のような扉が立ち塞がった。その膜の向こう側からは、大断層の底を流れる地脈の脈動が、激しく伝わってくる。
「ここですね。この向こうに、ベルゼブブの本体が」
クラリスが聖なる盾アイギスを構え、覚悟を決めた表情で俺を見た。
「ここから先は、もう引き返せない。アリシア、セレーナ、カイン、クラリス、シロたちの命、俺が預かる。誰一人として、あいつの胃袋には入れさせない」
俺がそう宣言した瞬間、扉の膜がゆっくりと左右に裂け、中から黄金の瞳が俺たちを見下ろした。
「よくぞ、来た。小さな、食材たち、よ」
その声が響いた瞬間、要塞全体が歓喜するように震えた。
ベルゼブブの真の姿が、闇の中からゆっくりと浮き上がってくる。
原作では絶望は、ここから加速する。俺が用意した結末は、書かれていないと思う。
俺は少し笑みを浮かべ、腰の剣を抜いた。
「死ぬほど満腹になってもらうぞ、ベルゼブブ」




