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第72話 奈落の底の暴食王と、絶望を分かつ絆(後編)
大断層グラトニーの底へと飛び込んだ俺たちの視界を、粘り気のある暗紫色の霧が覆い尽くした。落下する感覚。耳元で鳴り響くのは風の音ではなく、巨大な生き物が内臓を動かしているような、不気味な音だった。
「みんな、離れるなシロ、風のクッションだ」
「ワンッ!」
シロが六枚の翼を大きく広げ、落下速度を落とす。俺たちは、柔らかい、どことなく生温かい地面へと着地した。これは地面というよりは、巨大な細胞の塊の上だな。
「ひどい臭いですわ。まるで、世界中のゴミを煮詰めたような臭いが」
アリシアが鼻を抑え、顔をしかめる。彼女の放つ闇の灯火が、周囲の惨状を照らし出した。森や街だったものの残骸で構成された胃袋の中のような空間だった。骨のように白濁した大樹、ひしゃげた鉄の門、そしてそれらを繋ぎ合わせるように脈打つ赤黒い血管だった。
「主、上も横も、すべてが奴の肉です。私たちは今、ベルゼブブの体内にいるも同然かと」
セレーナが短刀を逆手に持ち、影の警戒網を広げる。その隣で、カインが聖剣を抜いた。
「冗談じゃない。僕たちは食材じゃないぞ! 出てこい、ベルゼブブ! 勇者カインが相手だ」
カインの声が反響し、奥底から地響きのような笑い声が返ってきた。
「クク、勇者か。公爵。あああ、実にいい匂いだ。よく来た。私の、食卓へ」
暗闇の奥、一対の巨大な黄金の瞳が俺の方に輝きを放った。暴食のベルゼブブの登場かな。
霧が晴れた先に鎮座していたのは、山のような巨体を持つ、異形の王だった。
人の上半身に、巨大な蝿の羽と、無数の口が並ぶ肥大化した下半身。それこそが、七つの大罪が一つ、暴食のベルゼブブ。
「デカいな。王都の食糧庫や、美食ギルドでだいぶ栄養を溜め込んだらしい」
原作よりも、一回りは肥えている。食い過ぎだろう。俺はシロの背中を叩き、一歩前に出た。
「ベルゼブブの食事は、ここで終わりだ。お品書きに絶望は載っていないぞ」
「リアム・ド・グラナードの魔力。それは、この世界の管理者、神の味に近そうだ。あぁ、食べたい。一口でいい。お前を、私の、永遠の空腹の食料に!!」
ベルゼブブの全身にある口が一斉に開き、真空の吸引力が俺たちを襲った。
「きゃぁぁっ!? 引き寄せられますわ!」
「くっ、地面が、足場が崩れる!」
アリシアとカインが足を取られる。奴の吸引力は、物理的な重力ではなく、魂そのものを吸い寄せる概念的な飢餓だ。
「シロ。風のいかりを下ろしてくれ。セレーナ、影の杭でみんなを固定するんだ」
「了解! 影界の絶対零度!」
セレーナの影が氷のように凍りつき、俺たちの足を肉の地面に固定する。シロが巻き起こす逆風が、ベルゼブブの吸引力と拮抗し、火花を散らした。
「ふん、吸い込めないとなれば、次は吐き出すか」
ベルゼブブの無数の口から、今度は緑色の酸が弾丸のように放たれた。
「リアム様、危ない。深淵の盾!」
アリシアが素早く結界を張る。酸が盾に当たり、ジジジと嫌な音を立てて蒸発する。
「アリシア、そのまま防御を頼む。カインは奴の左足を狙うんだ。あそこが魔力供給の起点だ」
「分かった。いくよ聖剣。光輝・断罪の一太刀!!」
カインが聖剣を振り下ろし、閃光の光の刃がベルゼブブの巨体を切り裂く。斬り裂かれた肉は瞬時に再生し、傷口から新たな口が生まれてカインの腕に噛み付いてしまった。
「再生が、早すぎる。聖剣の光さえ食べてるのか!?」
「焦るなカイン。奴の胃袋は無限だが、処理速度には限界があるはずだ」
原作の知識によれば、ベルゼブブの核は体内に一つ。常に場所を移動しているのだったな。俺の管理者の権能:構造解析なら、奴の消化の動きを把握すれば位置を特定できるだろう。位置さえわかれば怖くはないか。
「セレーナ、三秒後に影のトゲを、奴の背骨の三番目の節へ叩き込んでくれ。アリシアはそこに闇の雷を落としてくれ」
「承知いたしました。影、収束します」
「リアム様の指示なら、外しませんわ。真夜中の裁き!!」
セレーナの影と、アリシアの雷が一点に集中した。
ズドォォォォォン!! という衝撃とともに、ベルゼブブの巨体が大きくのけぞり、奥底にある心臓のような魔力核が露出した。
「ギ、アァァァ!! 痛い。お腹が、痛い!!」
「今だ、カイン。核を叩け!!」
「よしっ!! ブレイブ・バースト!!」
カインが会心の一撃を放つ。聖剣の光が核を直撃し、爆発が起きた。どうなったか?
「ク、クケケ。甘い。甘いなぁ、勇者どもよ」
煙の中から現れたのは、核を自ら喰らって一体化した、さらに酷い姿のベルゼブブだった。
「核を、食べた!? 自分の急所を食べて、パワーアップするなんて」
アリシアの顔が蒼白になる。カインも膝を突き、肩で息をしていた。
ベルゼブブの魔圧が跳ね上がり、大断層全体が奴の意志で動き始めた。
「もういい。小細工は、飽きた。世界を。この、場所ごと。飲み込んでやる!!」
ベルゼブブの体が、ブラックホールのような黒い渦へと変貌し始めた。大断層の岩壁が削り取られ、吸い込まれていく。
「リアム様、もう、防げませんわ。結界が、吸い込まれて」
アリシアが俺の服の裾を掴む。彼女の瞳には、死への恐怖が浮かんでいた。
セレーナも、カインも、絶望の波に飲み込まれそうになっている。
◆
第72話:奈落の底の暴食王と、絶望を分かつ絆(後編・改)
ベルゼブブが放つ、すべてを飲み込むブラックホールのような暗黒の渦が、俺たちの視界と希望を奪おうとしていた。
「リアム様。もう、防げませんわ。結界が、吸い込まれて!」
アリシアが俺の服の裾を強く掴む。その小さな手が震えているのが分かった。セレーナもカインも、圧倒的な食欲の権能を前に、足がすくんでいる。
「いいや、アリシア。防ぐ必要なんてない」
俺はシロのふかふかの首元を抱き寄せ、優しく笑いかけた。
「リアム、何を言っているんだ!? このままじゃ僕たち、あいつの胃袋の中で一生を過ごすことになるよ!」
カインが叫ぶが、俺は冷静にシロの耳を撫でた。
「シロの魔力と俺の魔力を同調させよう。ただし、奴を倒すんじゃない。奴の味覚を一時的に麻痺させるだけだ」
「ワンッ!」
シロが黄金の光を放ち、俺の管理者の権能:強制満腹を発動した。俺たちの魔力を凝縮した仮想の極上肉のイメージを、ベルゼブブの喉奥へと直接叩き込む作戦だ。
「おおおッ!? お、おおお。なんだ、この、芳醇な甘みは」
ベルゼブブの吸引力が、ピタリと止まった。奴の巨大な目が、うっとりとした表情で見開かれる。
「美味い。美味すぎる。足りない。もっと、もっと欲しい!!」
「今だ。全員、撤退するぞ」
俺の号令とともに、シロが強烈な上昇気流を巻き起こした。
「えっ!? リアム様、トドメを刺さないのですか!?」
アリシアが驚きながらも、シロの背中に飛び乗る。
「今の攻撃はただのおつまみだ。奴の核は、さらに深層の断層の核と癒着し始めている。今無理に倒せば、この大陸の地脈ごと爆発して、王国が地図から消えるぞ」
セレーナが影の道を作り、俺たちの撤退を支援する。
「主、賢明な判断です。奴の気配が、さらに肥大化しています。まるで、次のメインディッシュを待っているかのように」
「クケケ、リアムめ。逃げるがいい。その美味な魔力が最高に熟成されるのを、私は待っているぞ、ケケケ」
奈落の底から響く不気味な声を引き離し、俺たちは一気に断層の淵まで飛び上がった。
再び月明かりの下に戻ってきた俺たちは、肩で息をしながら、今しがた飛び出してきた暗黒の穴を見下ろした。
「逃げ切ったんだね。あんな怪物、本当に勝てるのかな」
カインが聖剣を鞘に納め、力なくへたり込む。無理もなかった。異常な強さがあったのは間違いない。
「勝てるかどうかじゃない。勝つんだよ。カインは聖剣の真の覚醒が必要だ。アリシアは闇の奥にある慈愛の法を。セレーナは影を神域まで高めてもらうぞ」
俺は、静かに大断層を見据えた。
原作では奴の食欲を逆手に取るためのスパイスが足りない。次に決戦する前に、この領地を、俺たちの絆を、奴が決して飲み込めないほどの鋼の強度にまで育て上げる必要があるな。
「リアム様。わたくし、怖かったですわ。でも、リアム様が笑ってくださったから、足が動きましたの」
アリシアが、俺の隣に立って手を握ってきた。
「次に行くときは、あいつに、ご馳走様と言わせてやる。そのためには、もう少し準備が必要だ」
「主。次の特訓、覚悟しておいてください。私も、死ぬ気で貴方を支えます」
セレーナの瞳に、これまでにない鋭い闘志が宿る。
「ワンッ! ワンワンッ!!」
シロが、俺たちを励ますように空に向かって吠えた。その声は、断層から漏れ出る不気味な食べる音を打ち消すほど、力強かった。
「さあ、帰るぞ。シロ・フォートレスへ。ベルゼブブが本格的に地上へ這い出してくる。それまでに、俺たちは世界で一番強くなるんだ」
俺は、シロの背中にみんなを乗せ、夜明けの空へと飛び立った。
暴食との本格的な開戦での勝利はお預けとなったが、俺たちの心には、決して喰らわれることのない反撃の炎が灯っていた。
見てろよ、ベルゼブブの最後の一口は、俺が用意した特大の絶望にしてやるからな。
俺は、遠ざかる大断層を一度だけ振り返り、決意を新たにした。




