72
第72話:決戦の地図と、五人と一匹の旅立ち(前編)
亡霊騎士団を退け、王都の食糧庫を守り抜いた数日後。俺はシロを連れ、再び冒険者ギルド黄金の翼の最奥にあるマスター執務室を訪れていた。
「そろそろ、遊びは終わりね、リアム」
カサンドラが、いつになく真剣な表情で広大な地図を机に広げた。彼女の指が止まったのは、王国北東部、かつて豊穣の地と呼ばれながら現在は不毛の口と忌み嫌われている絶壁の谷だった。
「暴食のベルゼブブ。奴の拠点は、この大断層グラトニーの底にある。美食ギルドも亡霊騎士も、すべてはここから供給される魔力の末端に過ぎないわ」
「大断層か。古文書の記述通りだな。奴は地の底で、大陸の地脈そのものを胃袋に直結させて、世界を喰らおうとしている」
俺がそう言うと、カサンドラは鋭い眼差しで俺を見つめた。
「貴方がどうしてそこまで詳しいのかは聞かないわ。古文書に書いてあるならそれでいいし、今この瞬間も奴の食欲は増している。王都で起きている異変は、奴が食事を終える前の前菜に過ぎない。奴が完全に目覚めれば、王国どころか大陸全土が砂漠になるわよ」
「分かっている。こちらには、最強の神獣と、これ以上ないほど最強の仲間がいるからな」
「ワンッ!」
シロが俺の足元で、気合を入れるように吠える。
執務室を出ると、そこにはすでに出発の準備を整えた面々が揃っていた。
「リアム様、準備は万端ですわ。聖王国の聖水に、領地で採れた最高級の保存食。ベルゼブブなんて、わたくしたちの絆で胃もたれさせてやりますわ」
アリシアが、新調した魔導騎士服に身を包み、腰の細剣を叩いて微笑み待っていた。
「主。影の武具、及び隠密用の魔道具の点検、完了しました。道中の障害は、私がすべて音もなく処理します」
セレーナはいつも通り冷静だが、目には主を守り抜くという静かで激しい意志が宿っていた。
「リアム! 遅いよ! 僕なんて一時間前から聖剣を磨いて待ってたんだから。今度の僕は一味違う。なんせ、昨日シロちゃんに特訓してもらったからね!」
カイルが、ピカピカに輝く聖剣を掲げて胸を張る。
「カイルは特訓じゃなくて遊ばれていただけだろう。まあいい。カサンドラ、これを持っていく」
俺はカサンドラから、ギルドに伝わる古の封印の魔導書を受け取った。
「リアム、一つだけ約束して。必ず、みんなで帰ってきなさい。元は悪役貴族と呼ばれていても、貴方がいないと、このギルドも、あの王女たちも、火が消えたようになっちゃうんだから」
「帰るよ。悪役は、最後までしぶとく生き残るのが様式美だからな」
王都の北門を抜けると、そこには冬の気配を含んだ冷たい風が吹き抜けていた。俺たちはシロの背と、馬車を併用しながら、一路、大断層グラトニーを目指すと決まった。もちろん原作通りなら、危険はある。
「ねえ、リアム様。ベルゼブブって、どんな相手なんですの? マモン様のように、お話が通じる相手なのかしら」
揺れる馬車の中で、アリシアが不安そうに問いかけてきた。
「強欲のマモンが物を欲したのに対し、暴食のベルゼブブは存在そのものを欲する。対話なんて成立しないと思った方がいい。奴にとって世界はただの皿で、俺たちはその上の食材に過ぎないんだ」
「食材だなんて、失礼しちゃいますわね。わたくしたちは、誰にも食べられたりしませんわ」
「そうです。特に主は、誰の口にも合わないほど毒が強いですから」
セレーナが真顔で冗談を言う。
「おい、セレーナ。それは褒め言葉か?」
「主にとっての、最高の賛辞のつもりです」
「ははは! リアムは確かに毒舌だけど、中身はシロちゃんみたいにふわふわなんだよ! 僕には分かるんだ!」
「カインは後でシロの突風で吹き飛ばしてやる」
「ワン! ワンワン!」
シロが「いい考えだ!」と言わんばかりに楽しそうに尻尾を振った。カイルはシロを本当かと言う顔に。ここまでほ至って平和な移動だった。
旅を始めて三日目。俺たちは断層の手前にある、宿場町として栄えたはずの村に到着した。そこには人の気配がなく、家々は奇妙に痩せ細っていたのが見える。ここもすでに奴の餌になったか。
「建物まで喰われているのか?」
カインが、ボロボロに崩れた木造の壁に触れる。
「いえ。木材に含まれる生命の記憶を吸い取られているんです。ベルゼブブの領域が、ここまで広がっている」
今回は王都に留まり祈りを捧げているだろうクラリスの言葉を思い出しながら、俺は周囲を警戒した。その時、村の奥からガチガチと歯を鳴らすような音が響いてきた。来るか?
「主、来ます。ベルゼブブの尖兵、餓死のドールです」
土の中から、泥を固めたような醜悪な人形たちが這い出してくる。彼らの腹部には巨大な口があり、周囲の空気を吸い込むたびに、草木が枯れ、大地がひび割れていく。触れたくないがやるか。
「アリシア、カイン、陣形を組んでくれ。ここを突破しなければ、断層には辿り着けないぞ」
「了解ですわ! 宵闇の閃光!」
「いくぞ聖剣! 勇者の旋風!」
アリシアの闇の魔法とカインの聖剣が交差し、亡者たちをなぎ倒していく。倒しても倒しても、亡者たちは周囲の岩や枯れ木を喰らうことで、即座に体を再生させていく。
「しつこいですわね。これではキリがありませんわ」
「シロ。俺に力を貸して欲しいがいいか。奴らの再生の法則を書き換える」
俺はシロの背に飛び乗り、上空へと舞い上がった。
「管理者の権能:飽食のフィード! 喰らいたいなら、この世界のことわりそのものを、腹一杯に詰め込んでやれ!!」
俺の魔力を受けたシロが、全方位に向けて純粋な情報の激流を放出した。
喰らうことしか知らない亡者たちは、その圧倒的な存在密度の魔力を拒むことができず、限界を超えて膨張して。
パァン!! と、光の粒子となって消失していった。
亡者たちを排除し、俺たちはついに、目的地へと辿り着いた。
目の前に広がるのは、深さ数千メートル、底も見えない巨大な亀裂。そこからは、胃酸のような鼻をつく悪臭と、絶え間ない食べる音に似た地響きが上がっていた。
「ここが、大断層グラトニー。この底に、ベルゼブブがいるとのこと」
アリシアが、その圧倒的な負の気配に息を呑む。
「ここからが本番だ。みんな、覚悟はいいか?」
「はい、リアム様」
「主、行きましょう」
「僕がいるからシロは休んでいていいぞ」
カインは余裕たっぷりで言う。俺はシロの頭を撫で、奈落の底を見据えた。カインは聖剣を握り直し、セレーナは影の中に溶け込み、アリシアは祈るように杖を構える。
五人と一匹。王国、そして世界の命運を賭けた最後の晩餐を止めるための戦いが幕を開ける。
「この底で奴の顔を拝むところからだ。行くぞ、シロ!」
「ワンッ!!!」
シロの力強い遠吠えとともに、俺たちは奈落の底へと、一気に飛び込んだ。




