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第56話 記憶の壺
黄金の塔の最上階。そこにたどり着いた俺たちを待っていたのは、マモンの玉座ではなく、部屋の中央に座わる、高さ五メートルはあろうかという巨大な壺だった。
その壺は、薄汚れた黄金色をしており、表面には苦悶する民衆の顔が浮かび上がっては消え、不気味な脈動を繰り返している。
「ヒヒヒ! 間に合ったな、リアム君! うかつに近づかないことだ。この忘却の壺には、現在進行形で王都の民たちの、君に対する記憶を吸い込ませている最中なんだよ!」
玉座の奥から、マモンの肥え太った声が響く。奴は巨大なモニター越しに、こちらを小馬鹿にしたような顔で眺めていた。
「記憶を吸い込むだと? マモン、またそんな回りくどい嫌がらせを」
「嫌がらせ? とんでもない! 最高の略奪だよ。王都の人間は、明日になれば君が誰か分からなくなる。君が救った食糧難も、シロ君の奇跡も、すべて私の功績として書き換わるのさ。君はまた、ただの忌み嫌われる悪役貴族に戻るんだよ!」
「なっ! なんて卑劣なことを!」
アリシアが激しく怒り、魔導書を強く握りしめた。
「リアム様がこれまで積み上げてきたものを奪うなんてそんなこと、絶対に許しませんわ!」
「主。街の人々の影が、急激に薄くなっています。記憶という魂の重みを失ったせいでしょう。このままでは、人々は空っぽの人形になってしまいます」
セレーナが冷静に状況を分析する。俺は一歩前へ出て、不気味に輝く壺を見つめた。
原作知識によれば、マモンのこの能力はもっと先のシナリオで発動するはずだったはずだ。俺たちが予定より早く進撃したせいで、奴は未完成のまま無理やり起動させたな。なら、攻略法は一つだ。
「シロ、聞こえるか。これから、あの壺の中に入るぞ」
「クゥ、ワン!?」
シロが驚いたように耳を伏せた。
「なっ、なんですって!? リアム様、あの壺の中に入るなんて自殺行為ですわ! 記憶をすべて吸い尽くされてしまいます!」
アリシアが俺の服の裾を掴んで引き止める。
「案ずるな、アリシア。この壺の仕組みは、吸い込んだ記憶を貯蔵しているだけだ。マモンはそれを選別して書き換えようとしている。つまり、書き換えられる前に、中から物理的にぶち壊せばいい」
「でも、主、中の圧力は想像を絶します。精神が崩壊する恐れがあります」
セレーナの懸念ももっともだ。俺には確信があった。俺自身の記憶は、この世界の原作という強固な骨組みで守られている。そして、俺の隣には今を生きることの化身である神獣がいる。
「マモン、聞こえるか。記憶を略奪できると思っているようだが、本物の記憶ってやつは、頭の中じゃなく、魂に刻まれているんだよ。行くぞ、シロ!」
「クゥォォォォォン!!」
俺はシロの背に飛び乗り、吸い込み口となっている壺の口へと一気に跳躍した。
「ヒャーッハハハ! 愚か者め! 自ら私の胃袋に飛び込むとはな! さらばだ、リアム・ド・グラナード!」
視界が黄金の光に包まれ、俺たちは記憶の激流へと飲み込まれた。壺の中は、まるで情報の嵐だった。
「公爵様、ありがとう」「あの悪魔め」「美味しいパンをありがとう」「リアム様、素敵」。
王都の何万という人々の、俺に対する愛憎入り混じった記憶の断片が、弾丸のように体を突き抜けていく。
「うっ、ぐぐぐ。シロ、大丈夫か!?」
「クゥ、ゥ!」
シロの白銀の毛並みが、記憶の圧力で乱れる。周囲を見渡せば、そこは過去の映像が無限にループする、精神の牢獄だった。
「リアム様? どこですの、リアム様!」
ふと隣を見ると、一緒に飛び込んできたアリシアが、うつろな瞳で周囲をさまよっていた。
彼女の記憶の一部が、すでに壺の略奪に反応し始めている。
「アリシア! しっかりしろ!」
「わたくし、何をしていたのかしら。あの、あなたは、どなたですの? とても懐かしい悲しい」
アリシアの瞳から、一筋の涙がこぼれる。俺という存在の輪郭が、彼女の中から消えようとしていた。
「マモンめ、本当に未完成のままやりやがったな。記憶を奪うだけじゃなく、ランダムに消去してやがるのか」
俺はアリシアの手を強く握りしめた。
「いいか、アリシアが俺を忘れたなら、何度でも思い出させてやる。俺がアリシアを、闇の底から救い出したあの日のことをな」
「闇の、底?」
「そうだ。俺は悪役だ。無理やり俺の傍に置いた、傲慢な男だ。その俺の手を、アリシアは自ら握り返したはずだぞ!」
俺はシロの青き炎を、アリシアへと分け与えた。神獣の浄化の炎が、彼女を取り囲む忘却の霧を焼き払う。
「あああ、あ、リアム、様。そうですわ。わたくし、リアム様を忘れるなんて、なんてことを!」
アリシアの瞳に、再び強い意志の光が戻った。
「主、こちらです。壺の底に、マモンの精神が繋がっている中枢が見えました」
影から現れたセレーナが、一点を指差す。そこには、黄金の鎖で縛られた、巨大な脳のような形の魔導核が浮いていた。
「あれが、記憶を書き換える壺の正体か。シロ、あいつを粉砕するぞ」
「ワンッ!!」
シロが吠えると、壺の中に充満する記憶の激流を、自らの風で一箇所に集め始めた。それは、王都の人々の俺に対する感謝と信頼の記憶だけを抽出した旋風だった。
「マモンが奪おうとしたのは、ただのデータじゃない。人々の生きた時間だ。それを、お前ごときが使いこなせると思うなよ!」
俺は剣を引き抜き、シロが集めた旋風を剣先に集める。
「合体奥義:忘却打破・神獣の吠え!」
シロの突進とともに、俺の剣が黄金の中枢を真っ二つに切り裂いた。
ガシャァァァァァァァンッ!!!
内側から溢れ出す圧倒的な光。壺が耐えきれずに砕け、吸い込まれていた記憶たちが、光の粒子となって元の持ち主たちの元へと還っていく。
爆風とともに、俺たちは塔の床に叩きつけられた。目を開けると、そこには粉々になった壺の破片と、モニターの中で泡を吹いて倒れているマモンの姿があった。
「ふぅ。シロ、無事か?」
「クゥーン」
シロは少し疲れた様子で、俺の膝の上に頭を乗せた。俺はそのふかふかの耳を優しく撫でる。
「リアム様! よかったですわ、本当によかったですわ!」
アリシアが泣きながら俺に抱きついてきた。
「本当に、アリシアというのは、さっきは俺のことを忘れていただろう」
「もう、そんなこと言わないでくださいまし! でも、不思議ですわ。一度消えかけたせいか、今はリアム様との記憶が、以前よりもずっと鮮明に、宝石のように輝いて見えますわ」
「主。王都から報告が入りました。人々の記憶が戻り、混乱は収まったようです。それどころか、マモンへの怒りが爆発し、民衆の士気がかつてないほど高まっています」
セレーナが、珍しく少しだけ口角を上げて報告してきた。
「そうか。自業自得だな。マモン、記憶を書き換えて英雄になろうとした代償は、お前自身の存在の消滅だ」
俺はモニターを冷たく見下ろした。原作では、ここでの記憶消去は一週間続き、民衆は完全な無力感に陥るはずだった。だが、俺たちが壺を内側から壊したことで、逆に民衆は俺との記憶を再認識してしまった。皮肉なものだな。
「さて、マモン。逃げ道はもうないぞ」
俺はシロの背を撫で、立ち上がった。アリシアとセレーナも、その瞳に揺るぎない覚悟を宿して俺の後に続く。
「リアム様、次はどうなさいますの?」
「奴はもう、なりふり構わず略奪の究極形態に手を出すはずだ。自分の命、魂、そしてこの塔そのものを犠牲にしてな。どんなに大きな力を手に入れようと、俺たちが守り抜いたこの記憶には、指一本触れさせない」
「ワンッ!」
シロの力強い返事。王都の記憶は守られた。俺たちの心は、より深く繋がった。
「見ていろ、マモンが最後に失うのは、黄金ではなく、お前自身の孤独な魂だ」
俺たちは、最後の決戦場となる塔の最上階、黄金の天蓋へと続く階段を、迷いなく歩き始めた。




