第5話
第5話 聖女の覚醒と、悪役の再始動
学園の正門を蹴り開け、俺は夜の空気を切り裂くように外へ飛び出した。
背後で誰かが叫んでいた気もするが、耳に入る前に置き去りにする。今の俺の脚力なら、追いつける人間など存在しない。レベル50の身体能力は、もはや人の領域を逸脱していた。
地面を一度強く踏み込むだけで、数十メートル先まで一瞬で距離が縮む。街路樹や街灯が、まるで静止した背景画のように後方へ流れていく。
かつての俺の体を思い出し、鼻で笑った。
豚公爵と憎まれ、数歩歩くだけで脂汗を垂らしていたあの肉体。あれは同じ魂が宿っていたとは思えないほど、無様だった。今は違う。肺に吸い込む夜気は冷たく澄み、血流は力強く脈打っている。
「まずはこの国を抜ける。それからだ」
独り言は風に溶け、すぐに消えた。
学園の高い塀を飛び越える瞬間、背後を振り返ることはなかった。そこに未練はない。残してきたのは、原作主人公カイルの糾弾と、観衆の剥き出しの憎悪だけだ。
だが、あれらは取るに足らない。原作ゲーム『エタラビ』の知識を持つ俺にとって、学園内の人間関係など、嵐の前の静けさに過ぎない。この数ヶ月後、魔王の封印がほころび始め、世界各地に高難易度ダンジョンが強制的に生まれる。
備えのない国家は、文字通り一夜で消える。軍も、英雄も、民も関係ない。レベル不足は即死に直結する世界だ。
だから俺は、国外追放という名の自由を選んだ。
「悪役だからな。誰かを救う義務もない」
自虐気味ながら、俺は国境線を越えた。
足を踏み入れたのは隣国ラズワルドの原生林。人工の跡が一切感じられない、魔物と魔力に満ちた森だ。木々は異様なほど高く、枝葉は光も通さない。
だが、恐怖はない。
俺の目的地は、地図にも記されていない未踏の地。古の賢者の塔。原作でも、終盤近くまで正規ルートでは辿り着けない場所だ。
◆
リアムが去った後の学園パーティー会場は、異様な沈黙に支配されていた。
華やかな音楽はいつの間にか止まり、誰一人として口を開こうとしない。床には散乱した食器と、ひび割れた床石。その中心に、原作主人公カイルは座り込んでいた。
彼の全身は小刻みに震え、視線はさまよっている。
手から滑り落ちた聖剣は、もはや神聖な輝きを宿していなかった。ただの鉄の塊のように、冷たく床に横たわっている。
選ばれし者の象徴が、力を失った瞬間だった。生徒たちはそれを見て、ようやく理解した。
圧倒的だったのは、聖剣ではない。リアムという存在そのものだったのだと。
だが、その場でただ一人、恐怖とも違う表情を浮かべている者がいた。
聖女アリシア。
彼女は胸に手を当て、荒くなった呼吸を整えながら、リアムが立っていた場所を見つめていた。その顔には、後悔と狂気が入り混じった微笑が浮かんでいる。
「ああ、なんてこと。私は、なんて愚かだったのかしら」
近衛騎士が様子をうかがい、慎重に声をかける。
「アリシア様。お怪我はありませんか」
しかし、彼女は反応しない。
「見えていなかったのね。リアム様は、最初から全部わかっていらした」
彼女の脳裏で、過去の記憶が次々と書き換えられていく。冷酷な振る舞い。無礼で怠惰な態度。周囲から嫌われる行動。そのすべてが、自らを孤立させるための演技だったのだと。
「あの魔力。あの動き。無駄が一切なかった。どれほどの修練を積めば、あそこまで研ぎ澄まされるのかしら」
アリシアは、床に散らばった糾弾状の破片を拾い上げる。
指先でなぞるように、それを一枚一枚集めていく姿は、祈りにも似ていた。
「カイル様の正義は、あまりにも軽い」
彼女の声には、確信が宿っている。
「本当の正義とは、称賛されるものではない。すべての憎しみを引き受け、それでも前に進む覚悟のこと」
その瞳に、危ういほどの熱が灯った。
「待っていてください、リアム様。あなたを理解できる存在が、まだここにいます」
その夜、学園から聖女アリシア失踪の報が上がる。
学園の秩序は、静かに、しかし確実に崩れ始めていた。
◆
俺は森のさらに奥深くへと踏み込んでいた。
視界が開けた瞬間、思わず足を止める。
そこには、空を貫くような黒い石塔がそびえ立っていた。年月を重ねた苔と魔力の跡が、塔全体に絡みついている。
「間違いない。古の賢者の塔だ」
入り口の周囲には、見るだけで鳥肌が立つほどの結界が張られていた。無差別に侵入者を拒絶し、触れた肉体を土に変える凶悪な代物だ。
だが、俺は躊躇しない。
わずかに歪んだ空間。その一歩分の隙間を、正確に踏み抜く。
デバッグモードでしか確認できなかった結界の死角。原作知識がなければ、永遠に気づけない場所だ。
「知識は、時に剣よりも鋭い」
塔の内部は暗く、冷えていた。螺旋階段を駆け上がりながら、俺は目的を再確認する。
最上階にあるのは、単なる経験値アイテムではない。
魔法詠唱をすべて短縮するパッシブスキル、真理の速読。
これを手に入れれば、戦闘の次元が変わる。詠唱の隙を狙われることもない。魔法職の最大の弱点が消えるのだ。
「まだ足りない。死の運命を踏み潰すには、もっと力がいる」
暗闇の中で、自然と笑みが浮かぶ。
悪役として生まれ変わった俺は、再び走り出した。次のレベルアップへ。世界が壊れる、その前に。




