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27話

第27話 二分間の蹂躙


 王国北部の国境線、アルザス平原。肥沃な穀倉地帯として知られたその場所は、今や死の静けさに包まれていた。地平線の向こうから押し寄せるのは、漆黒の霧をまとった魔王軍の先遣隊。その数、およそ一万と推測する。

 骨と皮だけの不死者アンデッドの群れ、狂ったように吠える魔獣、そしてそれらを統率する上位魔族たちもいるだろうな。

 対する王国軍は、数こそ同等なれど、兵士たちの顔には隠しようのない絶望が張り付いていた。

 彼らは知っている。魔王軍の先遣隊は、一体が人間の兵士十人に匹敵する怪物であることを。

 あれが、原作エタラビで最初の関門となるアルザスの虐殺の舞台か。

 平原を見下ろす小高い丘の上。

 俺は不撓不屈の法衣の裾を風になびかせ、冷ややかに戦場を観察していた。

 原作でのこのイベントは、勇者カイルが仲間と共に多大な犠牲を払いながら、かろうじて魔族の指揮官を討ち取るという泥沼の消耗戦だった。今のこの世界には、その勇者はいない。代わりにいるのは、レベル115に到達し、世界の理を書き換え始めた俺だ。つまり原作とはやや違っている展開となる。問題は原作ではリアムは処刑されるし、死ぬ運命であるから、どんなに俺が破滅ルートを変更しても強制的に俺を殺すように世界が強制してくることはあり得る。だから最大限の注意は必要だ。


「リアム様。あの薄汚い軍勢、貴方様の視界に入れることすら忌々しいですわ。今すぐ、空ごと握りつぶして差し上げましょうか?」


 俺の隣で、アリシアがうっとりと俺を見つめながら、指先で小さな闇の球体を転がしている。その球体一つに、城塞都市一つを消滅させるほどの高密度な魔力が凝縮されているのを、俺の世界の観測者は見逃さない。


「待て、アリシア。お前が動くと地形が変わる。ここはセレーナ、お前に任せる」


「御心のままに、主人」


 左後ろの影から、セレーナが音もなくひざまづく。

 彼女の琥珀色の瞳は、戦場の敵を生物として見ていない。ただの排除すべきゴミとしてのみ認識している。


「一万か。セレーナ、三分で終わらせられるか?」


「承知いたしました。ですが、主人の貴重な時間を一秒でも無駄にするわけには参りません。二分、いえ、百二十秒で達成でございます」


 セレーナが立ち上がると同時に、その姿が霧のようにかき消えた。

 直後、戦場に異変が起きた。

 魔王軍の最前列で軍の気を上げていたオーガたちの首が、何の前触れもなく、一斉に宙を舞った。

 鮮血が噴き出す暇すらない。あまりにも鋭利で、あまりにも高速な切断。


「な、何だ!? 何が起きている!」


 魔族の指揮官が叫ぶが、その喉元には既に、目に見えない死の糸が絡みついていた。

 セレーナの固有スキル、虚無の暗殺術千変万化。

 彼女が振るうのは、特殊な魔力によって不可視化された、原子レベルで磨き上げられた極細の鋼糸だ。その糸はセレーナの指一本の動きで、平原全体を網目状の処刑場へと変貌させていた。

 魔獣が駆けようとすれば脚が千切れ、不死者が再生しようとすれば核ごと粉々に切りにされる。

 セレーナは戦場を駆けてすらいない。魔王軍のど真ん中に立ち、優雅に踊るように指を動かしているだけだ。

 その姿は、阿鼻叫喚の地獄を奏でるタクトを振る、指揮者のようでもあった。


「あ、ああ。バカな、たった一人で我が軍勢が!」


 指揮官の魔族が、自身の身体がバラバラに崩れ落ちるのを自覚しながら、最期に目にしたのは、無表情に自分を見下ろす一人のメイドの姿だった。


「主人の許可なく、この地を汚した罪。死をもって償うには、あまりに軽すぎますね」


 開始から六十秒。

 魔王軍の半数が、物言わぬ肉塊へと変わった。


 俺は丘の上からその光景を眺めながら、原作知識を脳内で思い出していた。

 この先遣隊の本来の目的は、王都への侵攻ではない。この地に魔力の種を植え付け、魔王降臨のための座標を固定することだ。

 真理の速読で解析すれば、平原の地下に流れる龍脈が、魔族たちの死から溢れ出した瘴気によって汚染され始めているのが分かる。


「セレーナ、遊びは終わりだ。龍脈の汚染ごと、根こそぎ刈り取れ」


 俺は遠くにいるセレーナに叫んだ。


「承知いたしました」


 セレーナが右手を高く掲げた。

 彼女の指先に集束されるのは、暗殺者の隠密魔力ではなく、俺から分け与えられた虚無の魔力。


「虚無の葬列。終焉の庭」


 セレーナが拳を地面に叩きつけた瞬間。

 平原を覆っていた無数の糸が、一斉に収縮を始めた。物理的な切断を超え、空間そのものを折り畳むような暴力。

 逃げ惑う魔物の残党も、汚染された大地も、魔族の執念も。

 すべてが中心の一点へと引きずり込まれ、音もなく消滅していく。

 百二十秒。

 セレーナが告げた通りの時間。先ほどまで一万の軍勢がひしめいていたアルザス平原には、もはや魔物の死体どころか、土塊一つ残っていない。そこにあるのは、円形状に完璧に削り取られ、不自然なほど滑らかに露出した無の地表だけだった。


「完璧ですわ、セレーナ。少しは役に立ちましたわね」


 アリシアが、ライバルを見るような鋭い視線を向けながらも、その戦果を認めざるを得ないように小さく頷く。


「お褒めに預かり光栄ですわ、聖女様。主人の手を煩わせることなく、庭の掃除を済ませるのがメイドの務めですので」


 セレーナは一滴の返り血も浴びることなく、俺の前に。完璧だった。


「主人、大掃除、完了いたしました。ご満足いただけましたでしょうか」


「ああ、上出来だ。だが、魔王軍もこれで終わりじゃない。むしろ、これが宣戦布告になる」


 俺は空を見上げた。

 魔王軍の先遣隊が全滅したことで、魔王の視線がこの地に向いたのを感じる。

 世界の理が、レベル115の俺という異分子を排除しようと、さらなる災厄を呼び寄せようという動きだ。

 丘の下では、全滅を免れた王国軍の兵士たちが、何が起きたのか理解できずに立ち尽くしていた。

 彼らが命を賭けて守ろうとした国境。それを、一人のメイドが、一人の男の命令で、たった二分で解決してしまった。

 彼らの目に映るのは、感謝ではなく、理解不能な恐怖だろう。


「リアム様。あの者たちの視線、不快ですわ。貴方様を、まるで化け物を見るような目で。いっそ、あちらも掃除してしまいましょうか?」


 アリシアが物騒なことを口にする。


「よせ。放っておけ。恐怖は、支配の基礎になる。俺に頼らなければ死ぬと、骨の髄まで理解させるには、これでいい」


 俺は背を向け、歩き出した。

 魔王軍先遣隊の消滅。それは世界にとっての救いではなく、より深い絶望の始まりに過ぎない。

 なぜなら、この世界には今、魔王に歯向かう悪役が君臨しているのだから。


「さあ、帰るぞ。次は、降伏した王たちに徴収の内容を伝えてやらなきゃならないからな」


 俺の声に、二人の狂信的な従者が声を揃えて応える。

 アルザス平原に残されたのは、神の不在を証明するような静かな地平だけだった。

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