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第139話 伝統の綻び
「貴様、今なんと言った?」
父、ハインリヒの眉間が険しく波打つ。手にしていた古典詩の写本が、その指先で微かに震えていた。俺はこのゲームの世界に転生してきてリアムになった。学園の卒業の時で、リアムは処刑破滅シナリオだったから、そのままシナリオ改編の道に進んだ。だから父親に会うのは初めてである。まあ原作ゲームではカイン視点で見てはいたが。怒ったのかな。
「ですから、この屋敷の物の流れが完全に詰まっていると言ったんです。父上、先ほどからその羽ペンの走りが悪いのは、インクの品質ではなく、室内の湿度がやや高すぎるせいですよ。古文書の保存にとっても、執務の効率にとっても最悪だ」
俺は執務室の窓際へ歩み寄り、重厚なカーテンの隙間に指を滑らせる。
「兄上も、そんなところで剣をもてあそんでいないで、少しは屋敷の裏側を見てはどうですか。厨房からここへ至るまでの動線に、無駄な装飾品が三箇所。そのせいで、父上の好む温度の紅茶が届くまでに、想定より三十秒も余計にかかっている。これはもはや、茶ではなくただの温水だ」
「なっ、貴様っ。兄に対して何を勝手なことを!」
エドワードが顔を真っ赤にして詰め寄ってくる。俺はそれを無視して、入口で震えていた初老の執事に視線を向けた。
「執事。地下の食糧庫、西側の棚にある小麦の袋が、二つばかりネズミに食い破られているぞ。管理表には異常なしとあったが、俺の鼻と物資管理の勘は誤魔化せん」
「そ、そんなはずは毎日点検を」
「その点検が形だけなんだよ。伝統を重んじるあまり、今の状態を見ることを忘れている。カイン、例のものを」
「はい、リアム様、これですね」
カインが手際よく広げたのは、俺が馬車の中で書き上げた、公爵邸内物流最適化案だ。
「なんだ、その奇怪な図面は」
父が覗き込む。そこには、屋敷の間取りに細い線が幾重にも書き込まれ、人員の配置と物資の移動経路が秒単位で記されていた。
「リアム、この図面僕でもわかります。この赤い線の場所、いつもメイドさんたちがぶつかりそうになって立ち止まっていた場所ですね」
「そうだカイン。そこを右側通行に徹底し、邪魔な観葉植物を二歩分ずらすだけで、一日の総歩行距離は三里は削減できる。浮いた体力と時間は、より精密な清掃と管理に充てられるというわけだ」
俺の言葉に、部屋の隅に控えていたメイドたちが、驚いたように顔を見合わせる。
「確かに、あそこの鉢植え、いつも邪魔だと思っていましたわ」
「お掃除の時間、もっと短くなるのかしら?」
「お前たち、持ち場を弁えろ!」
エドワードが怒号を飛ばすが、俺はさらに畳みかける。
「さらに言えば、地下のワイン庫だ。ハインリヒ父上、貴方が愛してやまない一二世紀の聖地産。あれのコルクが乾燥し始めている。一刻も早く横置きの角度を二度修正し、湿度を一定に保つ魔法具を再調整しなければ、来月にはただの酢に変わります」
「まっ! ま、まさか、あの至宝が」
原作知識でワイン収集が趣味の父だと知っていた。ついに腰を浮かせる。
「信じられないなら、今すぐ確かめに行けばいい。俺の領地、シロフォートレスでは、一粒の麦の腐敗も見逃さないのが法だ。この屋敷の管理は、俺から見れば穴だらけのザルですよ」
「リアム、貴様何を企んでいる。こんな細かい指摘をして、我らを嘲笑うつもりかよ」
兄エドワードが剣を抜き放とうとした、その時に部屋に向かってくる足音がした。
「お待たせいたしました、リアム様」
涼やかな声と共に、執務室の扉が静かに威圧感を持って開け放たれた。
「アリシア、それにセレーナまで来たのか」
現れたのは、旅の服装を解いたばかりのアリシアとセレーナだった。二人の背後には、圧倒的な威圧感を放つ帝国の第一皇女、フィオナまでもが控えている。俺の実家に帝国皇女まで来たのか。
「あら、リアム様。随分と厳しい歓迎を受けていらっしゃるようですわね」
アリシアが扇子で口元を隠しながら、兄エドワードを冷たく見据える。
「この男が、リアム様を豚呼ばわりした不届き者ですか。その口、二度と動かないように縫い合わせて差し上げましょうか。リアム様への罵倒は耳障りです」
セレーナの瞳に、暗い魔力が宿る。
「ま、待て貴様ら、何者だ。ここはグラナード公爵邸だぞ!」
エドワードが気圧される中、フィオナが一歩前へ出た。手には、帝国の紋章が刻まれた軍鞭がある。
「私はヴォルガルド帝国第一皇女、フィオナ・フォン・ベルシュタイン。リアムとの共同事業の打ち合わせに参った。ハインリヒ公爵。貴殿の息子は、今や帝国のインフラをも左右する男だ。このような無能な管理体制の中に閉じ込めておくには、あまりに惜しい人材だと思うが」
「て、帝国皇女だと?」
父、ハインリヒが絶句する。無理もない。王国の名門公爵といえど、他国の皇女が、それも最強の盾と謳われる女性が、一介の息子のためにわざわざ出向いてくるなど、前代未聞だろう。
「リアム、お待たせした。屋敷の外にいた護衛の方たち、僕がお掃除しておきましたから」
カインが笑顔で不穏な報告をする。
「お前たち来るのが少し早すぎるぞ」
俺は苦笑しながら、再び父と兄に向き直った。
「さて、父上。伝統という名の停滞を守り続けるか、それとも俺の最適化を受け入れて、この屋敷を再生させるか。選ぶのは貴方だ。もし拒むというなら、俺はシロフォートレスへ戻るだけだ。もちろん、帝国や聖王国との契約も全て連れてな」
俺がそう告げると、屋敷の使用人たちの視線は、もはや父や兄ではなく、俺の方へと注がれていた。彼らにはわかるのだ。誰が、自分たちの働きやすさと、この家の未来を見ているのかが。
「クォオオン!」
シロが勝ち誇ったように、父の執務机のすぐ傍で、ふかふかの絨毯を陣取った。




