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セレノアはぶかぶかのシャツの上から自分のジャケットを羽織った。いつもよりも少し窮屈だが、心細い夜を越すのには、かえってそれが良かった。
入口の傍でゆらゆらと燃えている炎をぼうっと眺める。ヘリオフェルトは焚き火を用意すると、この火にはいくつかの意味があるのだと説明してきた。一つ目は暖を取り、視界を確保することで眠らずに夜を越すため。二つ目は、火が苦手な魔獣たちが岩穴内に侵入するのを防ぐため。入口に近づけたのはそのためでもあるし、煙を充満させないためでもあるらしい。
セレノアはへえーと相槌をうった。ヘリオフェルトはしっかりしていると思っていたが、そんなことも知っているのか。兄たちも知っているのだろうか?
ヘリオフェルトの低く落ち着いた声が聞こえて、セレノアは現実に返った。
「君は侯爵家が嫌いじゃないのか?」
随分と単刀直入である。セレノアはぽやぽやしているから興味がないだけなのだが、出来る限り「考えている」ように聞こえるように言葉を選ぶ。
「あー……家族は僕に甘くって、あんまり政治的な話は知らないんです。関わりすぎたらいけないんだろうなと思うくらいで――だから僕個人としては特に何も思ってなかったですし、今ヘリオフェルト様と話していて、とっても優しい方だなと思いました」
セレノアの素直な言葉に、意外にもヘリオフェルトも褒め言葉を返してきた。
「そうか……私も、君は強くてしなやかな人だと思ったよ」
「あはは、ヘリオフェルト様ってば、僕のことをどんな風に思っていたんですか」
真剣そうな声色がなんだかおかしくて、セレノアはぶうたれた顔で茶化した。
「もっと計算高く狡猾な人だと思っていた……かな。あぁ、これは褒めているんだ。本当の君は優しい人だって」
慌てて取り繕うヘリオフェルトは、いつもの完璧な姿からは程遠い。もっとこの人を知りたい。隙のない日頃の彼とのギャップに興味が湧いた。
「成績もよくないですし、計算なんてできないに決まっているでしょう?」
まさかそんな言葉が返ってくるとは思わなかったのか、ヘリオフェルトは面食らった顔をしている。褒め言葉に照れるとでも思っていたのだろうか。
ヘリオフェルトは何かに迷うように口を閉ざしていたが、じっと見つめると、ようやく観念した。先ほどまでとは一転して、廊下ですれ違う時のような冷たい表情になる。
「君、ネフィス男爵令息と仲良くしているだろう?」
「ユミルが何か……?」
ぽかんと口を開けると、ヘリオフェルトは目を細めた。今度はその目に先ほどまでの柔らかさは無い。
「ブルーダイヤの件で融通をきかせてもらっているのだろう? 命を救ってくれたことに免じて口外しな――」
「ブルーダイヤが……どうかしたのですか?」
彼の目が物言いたげにまた細まる。
「どうかしたって……だから、ネフィス商会に――」
「ええ!」
ようやくヘリオフェルトの言わんとしていることを理解して声をあげた。
「ユミル・ネフィスのネフィスって、ネフィス商会のネフィスなんですか⁉︎」
「は……?」
「はぁ〜! 今やっと気がつきました。確かに同じ名前だ」
衝撃の事実に、思わず思ったことが全て口に出る。まさか仲の良い友人の家が、伯爵家が大変世話になっている取引先だったとは。自分は今まで礼の一つも言っていなかったじゃないか。とんだ失礼だ。
百面相しているセレノアを見て、ヘリオフェルトはおそるおそる口を開いた。
「まさか……知らなかったのか?」
「えぇ、今知りました。家族にはあまり友人の話はしないので、教えてくれる人もいなくて……お世話になっていたのにとんだ無礼者です……」
「そうだな……勉強は、した方がいいな」
しゅんと沈むセレノアを慰めてくれたっていいのに、ヘリオフェルトは神妙な面持ちでそう言った。ムッとした気持ちが顔に出てしまっていたのだろう。ヘリオフェルトは目を丸くしたかと思うと、盛大に吹き出した。肩を揺らし、声を上げて笑い始める。
洞窟内に笑い声が響いて呆気にとられる。貴族が人前で感情を表に出すなんて滅多にないことだ。政敵の前でなら尚更。心を開いてくれたのだろうか。それがなんだか嬉しくて、セレノアもつられて頬が緩む。
「まったく――伯爵家ではどんな教育を受けているんだ」
呆れながらも微笑み掛けてくるヘリオフェルトの瞳がなんだか甘い。まるで兄たちがセレノアを見ているときのようだ。
「きっと、甘やかされすぎてるんだなあとは思いますけど……絵とか楽器を習ってます」
「ふーん」
「結構得意ですよ?」
本当だ。特に絵には自信がある。家族が過保護でなければ、画家にでもなって各地を旅して回りたいくらいに。
「ヘリオフェルト様は僕の兄たちよりも頭が良くて、剣もできて……逆に侯爵邸ではどんな地獄の教育プログラムが……」
「アッハハ、地獄って……まあでも、確かに幼い頃は自由時間なんてものはなかったな」
「今は違うんですか?」
手持ち無沙汰な指にくるくると髪を巻きつけながらセレノアは首を傾げた。
「少しずつ実務や実践に移ってきたからな。街へ出る機会も増えて、そういう時は周りの目を盗んで羽を伸ばしてる」
いたずらっ子みたいな笑顔は意外だけれど、彼に似合っている。いつものような涼しげな表情よりも魅力的だ。
街に出られるのか。羨ましい。セレノアも年に一度や二度、護衛をつけて予め決められたルートで街を散策することはできるが、それだけだ。
「いいなあ。僕も自由に街を回ってみたいです」
キラキラと目を輝かせるセレノアにヘリオフェルトはぽかんとする。
「行けばいいじゃないか」
「心配性の家族が許してくれなくって……」
セレノアは抱え込んでいた膝をぎゅっと自分の方へ寄せて俯いた。
焚き火に照らされたヘリオフェルトの眼差しがいつもより優しい。なんでも話してしまいたくなるのはそのせいだろうか。それとも、心細い環境ゆえだろうか。
膝を抱え直して、ポツリと呟いた。
「甘やかしてくれてるんだとは分かってます。でも時々……逆に、選択肢が無いみたいに感じることがあるんです」
彼は黙って眉根を寄せる。幼い頃から厳しく教育されてきた彼には、好きなことをしているのに窮屈に感じている理由が分からないのだろう。
「剣が苦手だと分かったら、すぐに剣の授業がなくなりました。勉強だって、最低限です。やりたいことだけをやっていいと言われるけど、少しでも危険なことからは遠ざけられてしまう……まるで見えない檻の中にいるみたいです」
ヘリオフェルトは口元に手をやって、しばし逡巡した。
「いつか、私が案内してやろう」
まさかの提案にセレノアは息をのんだ。言葉の意味を理解するのに時間がかかったが、じわじわと嬉しさが胸の中で広がっていく。頭の中がたくさんの想像で色とりどりになる。
「や、屋台でご飯を食べてみたいです! 学園の図書館には無いような楽しい本も買いに行きたいです! それから、川で遊んでみたい! 他にも――」
思いついた夢を次から次に語るセレノアを、もうヘリオフェルトは笑ったりしなかった。その瞳はお日様みたいに穏やかだ。
「教会の奥にある屋台の肉串は美味いぞ。川遊びなら夏の時期だな、今はもう風邪をひく」
ヘリオフェルトはセレノアの夢を一つひとつ拾い上げて、相槌を打ちながら、おすすめの店なんかを教えてくれる。家族も友達もみんな、危ないとか、合わないとか言うのに。
ヘリオフェルトと話しているととっても楽しい。政敵なんて知るもんか。すっごくいい人じゃないか。セレノアはもともとソルヴァイン侯爵家とのいざこざにあまり興味はなかったが、本当にどうでもよくなった。
きっとお父様もお母様も、みんな誤解しているだけなんだ。邸に帰ったら、今日の出来事を教えてあげよう。そうしたら、少しは侯爵家への考えが変わるかもしれない。あわよくば、パーティーの時の重たいジャケットともおさらばしたい。




