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「ん……ここは……」
日が沈む頃。目を覚ましたヘリオフェルトは身体中に痛みを感じて、何が起きたかのか朧げな記憶を手繰り寄せた。
(あの時セレノア殿が引っ張ってくれて命拾いした)
ブラックウルフの鉤爪には猛毒がある。ほんの少しでも掠めていたとしたら、今頃どうなっていただろうか。
課題を早々に終わらせ一人で森の奥に入り込み中級魔獣を相手に鍛錬をしていると、微かに誰かの叫び声が聞こえた。慌てて駆けつけると、そこにいたのは崖を背にブラックウルフに襲われている丸腰のクレール伯爵令息だった。
例え政敵といえども自分の目の前で命を落とせばいいだなんて思っていない。間一髪のところで間に入ってやった。だというのに、助けられた本人が文句を言うから、つい頭に血がのぼり戦闘中だというのに後ろを振り向いてしまったのだ……。
自分の不注意のせいだ。魔獣との戦闘中に他のことに気を取られるだなんて。敵を前にして注意を逸らすなど、剣を握る者としてあるまじき失態だ。
横になったまま目だけ動かして辺りを見回すと、岩穴の中のようだった。入口からは夕日が差し込み、岩肌を赤く染め上げている。
ここまでセレノアが運んできてくれたのだろうか。
小さな頃から次期当主として、伯爵家は敵だと教え込まれてきた。その家の軟弱な息子に命を救われたことに複雑な気持ちになった。もしはじめからセレノアの声だと分かっていたら、自分は駆けつけていただろうか。少しの間考えて、流石に見捨てはしないだろうと結論づけた。あの時余計なひと言を付け加えたのはヘリオフェルトも同じだ。それに気がつくと胸が重くなった。
上体を起こそうと身じろぐと、ヘリオフェルトの胸元で布がずれ落ちるのを感じた。所々土と血で汚れた白いジャケット。明らかに小さなそれは、ヘリオフェルトのものでは無い。
ふらっとくるのに気が付かない振りをして起き上がった。ヘリオフェルトの左後ろ、岩穴の壁に背を預けるようにして座り込んで眠る美少年を見つけて彼はひどく驚いた。
(なんでこいつは裸なんだ……⁉︎)
思わず目を見開く。
そこには、なめらかな肌を惜しげも無く曝け出した状態のセレノアがいたのだ。伯爵家の至宝と謳われる男が、なんという無防備な姿を晒しているのだろう。妙な罪悪感を感じ、慌てて視線を逸らす。
生まれ持って剣術の才に恵まれたヘリオフェルトは、騎士団に交じって鍛錬することも少なくない。男の半裸くらい見慣れているつもりだったが、目の前の肉体美はそれとは全くの別物である。
「あ……ヘリオフェルト様……目が覚めてよかった」
ごそごそと動いたから起こしてしまったのだろう。ふさふさの長い睫毛を持ち上げて、心配そうに眉を寄せたセレノアの顔がぐいっと近づいてくる。
不意に近づいた端正な顔に、ヘリオフェルトは息をのんだ。ブルーグレーの瞳に目を奪われる。しばらくして、二人は同時に手元に違和感を感じた。小指と小指が、まるで約束事でもしている最中かのように絡まり合っている。どちらからともなくすぐに手を離した。
「えっと……ここは?」
気まずさを紛らわすために問いかける。
「崖下から少し歩いたところにあった岩穴です」
「そうか……、っ!」
ズキズキと傷口が痛んで顔を顰める。
セレノアは心底心配そうな顔をしてヘリオフェルトの頭に向かって手を伸ばしてきた。
「……っ!」
驚いて咄嗟にその手を払いのけたヘリオフェルトに期限を損ねることも無く、セレノアは申し訳なさそうな顔をする。
「すみません、痛みますか? 止血はしたんですが」
「いや……傷は浅いみたいだ……そ、それより服をだな……」
将来的には男の元へ嫁ぐであろうセレノアの半裸は、ヘリオフェルトからしてみれば淑女のそれと同じくらいに目の毒だ。そういった類の経験に疎いこともあり、目のやり場に困ってしまう。
「あ……えーと僕の服はそこに」
セレノアは気まずそうに微笑んでヘリオフェルトの頭や腕を指さした。誘導されるように視線を動かすと、血の滲んだ白い布があてられている。
「まさか破いたのか⁉︎」
「はい」
「な……! 今をいつだと思っている⁉︎ もう秋だぞ⁉︎ それに、人前で肌を晒すなんて……!」
「ふふっ、別に大丈夫ですそれくらい」
今度は照れくさそうに笑う彼を見て、ヘリオフェルトは顔を赤く染めた。なんと言っても目の前にいるのは国一番とも囁かれる美男なのだ。
「私は男だぞ」
「僕も男ですし……クシュンッ!」
「あぁもう言った側から」
ヘリオフェルトはシャツまで脱ぐと、セレノアのジャケットと合わせて真っ白な彼の肩にかけてやった。ジャケットだけ自分のものを羽織りなおすと、ふと目にとまったセレノアの手首を掴んだ。
「君……これ」
細い手首には、赤く血が滲んだ小さな切り傷がいくつもある。ヘリオフェルトは急いでジャケットの内ポケットを漁って、小指の先ほどの小さな小瓶を出した。
「傷薬だ。全部は足りないかもしれないが、深い箇所だけにでも塗っておくといい。実習の時くらい持ち歩け」
「え……? く、薬があるならヘリオフェルト様の傷口に!」
「いい。君のおかげでもう血は止まっているし、このくらいの傷は大したことない。それよりも君の肌に跡が残る方が――」
「ええ? そんなのいいですよ。女子生徒でもあるまいし」
「……ふっ、ふはは」
いきなり声を上げて笑い出したヘリオフェルトに、セレノアは訳が分からないと眉を寄せた。
「君は随分見かけの印象よりも男らしいのだな」
「どういうことですか?」
「いや……外見を気にしている人なのかと思っていて……その、君は剣すら持っていないし」
苦しげな言い訳に、大きなため息が返ってくる。セレノアはめんどくさそうに言い放った。
「周りは僕のことを着飾ることが好きみたいですが僕は別に……あと、剣を持っていなかったのは友人に貸したからです。持っていたとしても運動神経が壊滅的なので扱えた自信は無いですが――」
「そうか……それなのにここまで私を運んでくれたのだな」
ヘリオフェルトが柔らかく目を細めるので、セレノアは一瞬きょとんとした顔をした。それから、何かを誤魔化すように顔を逸らす。
「君は優しいんだな」
その言葉はヘリオフェルトにとって、言葉以上に重みがあった。幼い頃から信じていた自分の中での常識が崩れ落ちていくことを自覚させるような、そんな重みだ。
「そんなこと……」
「伯爵家の人間だからと今まで君を知ろうともせず避けていた私が悪かった。先ほども失礼なことを言ってしまったし……とにかくすまなかった。助けてくれてありがとう。礼を言う」
もっとも、クレール伯爵家に対する考えが変わったわけではない。ただ、目の前の恩人を家名だけで判断していたことは、認めざるを得なかった。
「とんでもないです! 僕の方こそ、助けていただいてありがとうございました! あの、やっぱりシャツはヘリオフェルト様が着てください」
「いい。君のシャツは今私が使っているし。君が着ていろ。枚数的には平等だ」
服をこちらに渡そうとするセレノアを制して、ヘリオフェルトは岩穴の中にまばらに落ちている枝を拾い、入口付近に集める。幸い、持ち歩いていた火打ち石は無事だった。乾いた枝にどうにか火を移すと、小さな炎が薄暗い岩穴を照らし始める。枝の数は心許ないが、何もないよりはましだろう。
小さな炎に照らされて、セレノアがほっとしたように微笑んだ。
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