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頬をくすぐるられるような感触がしてセレノアは瞼を持ち上げた。
「いててて……」
しばらくの間気を失っていたのだろうか。セレノアが目を覚ますと、先ほどよりも随分日が傾いていた。
ところどころ破けた制服の下に覗く真っ白な肌は、あちこち傷だらけで血が滲んでいる。木が沢山生えていたおかげか、高いところから落ちた割に怪我は少ない。それでも、全身が重く痛んで目に涙が滲んできた。
上を見上げるが、崖のてっぺんはだいぶ高い。よじ登ることは難しそうだ。
「ヘリオフェルト様は……?」
ハッと我にかえったセレノアは、自分の下敷きになっているヘリオフェルトを見つけた。微かに残る記憶の中で、崖から落ちている最中にヘリオフェルトは空中で自分を抱き寄せて庇ってくれた。
彼は今、頭から血を流して切長の瞳を固く閉ざしている。目を覚ます気配もない。そのことに気がついた瞬間、息をするのも忘れてしまうほどに心臓が変な音を立てた。
「ヘ……ヘリオフェルト様!? うそ、ヘリオフェルト様! ヘリオフェルト様!」
慌ててどいて声をかけるが、気がつく様子はない。まさか最悪のことが起こってしまったのではないだろうかと思って口元に耳を近づけると、かろうじて息はしているようだった。
ホッと息を吐く。どうして自分を庇ってくれたのだろう。見殺しにできると思っているセレノアなんかを、どうして。疑問は次々に沸いてきたが、今はそれどころではなかった。
ここはほぼ確実に、森の奥深くだ。ブラックウルフよりも凶暴な魔獣だって生息している。
(ここにいちゃダメだ、暗くなったら魔獣が寄って来ちゃう……)
近くに身を潜められそうな岩穴を見つけたセレノアは、自分よりも二回りも三回りも大きなヘリオフェルトをなんとかして担いだ。若干足を引きずってしまっているが、そのくらいは許してほしい。
ただでさえ自分よりも遥にガタイがいいというのに、意識がないからかその重さは凄まじかった。セレノアだって怪我をしているのだ。肺が潰れてしまうのではないかと思いながらも、ゆっくりと前に進んだ。何度も何度も転びながら。
地面に叩きつけられて痛いはずの身体も今は気にならなかった。今はただ、自分を助けてくれたヘリオフェルトのことで頭がいっぱいで、普段では出せないくらいの力がみなぎってくるのだ。
(なんでさっきはあんなこと言っちゃったんだろう。ヘリオフェルト様が助けてくれなきゃ僕は確実に……それに、崖から落ちる時だって僕を守るようにして……)
幼く愚かな自分の先ほどの行いを悔やんでも、現実は何も変わらない。
やっとの思いで岩穴に辿り着くと、セレノアは身に纏っていたジャケットとシャツを脱いだ。露わになった上半身は寒くて仕方がないが、そんなことよりも大事なことがある。
今セレノアの頭を占めているのは、ヘリオフェルトだけだ。シャツを噛みちぎって、いまだ目を覚まさない青年の傷口にあてる。初めてのことで上手くいかず、二度三度とやり直した。そのうちに要領を得て、数箇所止血する。
よく見れば、傷口はそこまで深くなかったようだ。なんだか緊張が解けて、また目元が潤む。
それから血を失ったヘリオフェルトが寒くないように、そっとジャケットをかけてやった。体格差があるせいで、まるで効果がなさそうだったが、ほんの少しでいいから身体を温めてやりたい。
「ごめんなさい……僕のせいで……」
情けなく震えた心の声が漏れた。暗く沈んだ気持ちで目を瞑ったままの顔を眺める。
こんなに心細い時間を過ごすのははじめてだ。こんなに怪我をしたのもはじめて。邸には帰れるだろうか。助けはくるだろうか。もしこのまま世界から置いてけぼりにされたらどうしたらいいのだろう? 次から次に嫌な想像をしてしまう。
そっと彼の頬についた土を指の腹で拭ってやる。
だんだんと暗くなり、心細くなったセレノアは眠ったままのヘリオフェルトの小指を握った。
何代も前から敵対する家系のソルヴァイン侯爵家の嫡男ともあろう人が、文句を言いながらも自分を救ってくれたから、今自分は生きていられる。申し訳なさと不安で溢れた涙は頬を伝って洞窟内に静かに染みをつくった。




