18話【名前のない愛はこぼれ落ちるだけ】
その場所に花など手向ける者はおりませんでした。
ほんの少しだけ掃除の跡が不自然に残っている往来の一角が、セルーア侯爵令嬢を襲撃した女性が亡くなった場所でした。
そこは騎士団でカップの下に置かれていたメモの地図の印がつけられた場所の近くでした。
周辺は王都の外れと言って良い地区で、その地区に住んでいる者以外は王都の外に出る場合に通り過ぎるだけの非常に寂れた場所でもありました。
平民であったとしても女性が好んで一人で歩き回るような場所とは思えません。
華やかで豪華な物が好きだったという女性は、何を思ってここで潜伏していたのでしょうか。
事件があったと私が聞いたのは、事件が起きてから数日後の事でした。
最初はただの物取りの犯行でしかないと思われており、その女性が失敗したにも関わらずセルーア侯爵令嬢の持ち物を所持していた不自然さに気付くまで時間がかかったそうです。
実際にセルーア侯爵令嬢が襲撃されたのは、私がメモを押しつけられたまさにその日だったそうです。
もしかすると私を待って往来に出ていたのかもしれない彼女の前を、偶然にもセルーア侯爵家の馬車が通りかかった。
既に亡くなっているので真実は分かりませんが、騎士団の調査では計画的に襲った可能性は低いと判断されたと聞いております。
「あれだけ逃げ続けていたのに随分呆気なく死ぬものね」
メモを無視したとは言え女性の事は気にかかっていた私は、騎士団の周辺の調査が終わったと聞いて直ぐに出かけると、セルーア侯爵夫人が女性の死んだ場所を見ておられました。
覇気もなくぼんやりと佇んでいるセルーア侯爵夫人は、怒りを向ける相手を失って途方に暮れているようにも見えました。
「あんな入れ替わりが出来るなんて短絡思考しかないのだから、結局は何ともならなかったと言えばそれまでなんだけど、娘を追い込んだ分の罪は少しくらいは償わせたかったわ」
誰なのか悟らせず逃げ回っていた割に、呆気なく終わってしまったのです。
最後に再びセルーア侯爵令嬢を襲おうとした女性については簡単に返り討ちにしたとは言え、最悪な政略結婚を押しつけてしまったセルーア侯爵夫人の後悔は言葉で語り尽くせるものではないでしょう。
「セルーア侯爵夫人……」
「あの女も最後は誰も助けなかったと分かった事だけは気分がすっきりしたわ。いつまでも誰かを頼って誰かが助けて誰かの所為にして生きて行ける訳ないものね」
セルーア侯爵夫人は私を振り向く事もなく、ただただじっと血の跡が薄ら残っているように見える地面を見つめておりました。
聞いた所によると、学園時代の彼女は信じられない事にまるでお姫様のように扱われていたとか。
セルーア侯爵夫人の仰ったように前の王太子やその側近達を含めた多くの身分の高い生まれの男性達が取り巻きとなり、何がなくても彼女には手を差し伸べ、物語の騎士のように侍っていたそうです。
あの当時はそんな彼女達の非常識な行為が許される空気が学園にあったのでしょうか?
疑問に思った所で、今更私が調べる事が出来ないくらいに当時の学園の一切の記録が抹消されておりました。
唯一残る物としたら、彼女達の処分を決めた方々の名前が辛うじて神殿に残っているくらいです。
その一人が、セルーア侯爵夫人です。
「こんな女でも死んだって聞いて泣いた人はいるそうよ。ただ何もする気のなかった彼らに何処で死んだのか教える気なんてないわ」
私どころか誰も迎えに来なかった時点で、既に女性はお姫様でも何でもありませんでした。
辛うじて廃嫡を免れたかつての取り巻き達もただ思い出に泣くだけです。
今や多くが妻子を持ち自分の立場を守る方が大事であり、わざわざ危険を冒して過去の幻影を助ける事も協力する事もありませんでした。
それが良かったのか悪かったのか。
あの女性は無謀にもたった一人で刃物を持ってセルーア侯爵家の馬車に向かって行き、呆気なく護衛に切り捨てられたそうです。
「あの時の私達の判断は何だったのかしらね? あの女は反省もせず私の娘は傷付けられ、貴女も大変な事になってしまった。あの時関係する人間が多過ぎてあんな解決策しか考えられなかったけれど、本当はどうしていたら良かったかしらね」
学園で前の王太子の件からコラント辺境伯夫人の事件まで、良識を欠いた行動に関与していた貴族子女の数はあまりに多く、リシス公爵が仰るには学園の半数以上が何らかの形で関与していたとか。
その大量の生徒達に相応の処罰を与える事を躊躇ったセルーア侯爵夫人達の気持ちは、処罰すれば多くの貴族家が後継を失って消滅する結果になっていた事を考えると、私には声高に否定は出来ません。
唯一言えるとしたら、元凶だった者達に甘すぎたと言う事です。
前の王太子だけが全ての責任を押しつけられた形になっているのは、王族故の結果だったと言うにはあまりに雑な幕引きではないでしょうか。
今回の件は、幸いにもセルーア侯爵令嬢は襲撃があった事も知らないまま領地に行かれたそうです。
そしてこのまま、命が尽きるまで領地で静かに暮らすとか。
セルーア侯爵令嬢の婚家で受けた傷はあまりに大きく、これ以上の回復の見込みがないと診断されたそうです。
合わない政略結婚の結果の中で最悪の部類ではないでしょうか。
もしもあの女性が正しく厳罰を受けていたのなら。
それが頭に浮かぶと同時に、私がもしもあの女性を保護していたらとも思ってしまいます。
もしも私があの女性を保護して騎士団に連れて行っていたなら。
私と同様に過去の出来事に今更正解など存在しない事を知っているセルーア侯爵夫人は、被っていた帽子を目深に被り直し、
「前の王太子があんな事を起こさなかったら良かったのに」
一礼し去って行くセルーア侯爵夫人を見送る私には、安直にかける言葉はありませんでした。
自分の娘を虐待した犯人がかつて自分達が温情を与えた人間だったなんて、セルーア侯爵夫人も一番自分自身を責めているでしょう。
もしも何もかもが起きていなかったら。
私は無駄な考えを追い出すべく頭を振りました。
仮定の話はどんなに考えても意味がなく、虚しい後悔が生まれるだけです。
あの時にお姫様扱いされていた女性が潜んでいた最後の場所を見たかっただけの私もこの場を去る事にしました。
セルーア侯爵夫人の背中はもう見えなくなっていました。
ずっと仮定と悔恨の話ばかりを口にしていたセルーア侯爵夫人が敢えて私に言わなかったのか、気付いていなかったのか。それは私には分かりません。
前の王太子が何も起こさなかったらと考える事は、何故あんな事をしようと考えたのかという話に通じます。
前王太子の問題には、不審としか言えない点があります。
同じく異性関係で破滅した前の王太子の妹であるコラント辺境伯夫人と、あの女性を含めた複数の女性と関係を持っていた前の王太子。
男女の差はありますが、やっている事は基本的には同じです。
王族として厳しく節制をしなくてはいけない身でありながら、突然堰を切ったように異性と交流を始めるのも不思議な事に同じ。
気付いてしまった私の体はぞわぞわしています。
偶然にも兄妹が同じ行動を取っただけなんて考える方があり得ないでしょう。
共通した何かがあったから全く同じ事をしただけだと考えた方が余程しっくりくると思います。
前王太子は姉とは学年が違っていたそうですが、コラント辺境伯夫人は勿論、クレア様も姉と同学年だったと聞いております。
王女だったコラント辺境伯夫人を通じてリシス公爵と知り合ったように、姉は王太子と知り合っていたのではないでしょうか。
私はその可能性は高いと思っています。
学園時代の姉が自分の付き合い自体は節度を保っていたので、周囲から品行方正で成績優秀な評判の良い貴族令嬢だと見なされていた事は分かっております。
王族が姉に、姉が王族に近付いても誰も特には警告などしなかったでしょう。
そして、前の王太子にも……姉は考えのない発言をしてしまっていたら?
「味見くらいなら大丈夫よ」
ちょっとだけと思っている間に深みにはまっていったのは、コラント辺境伯夫人の時と全く同じだったかも知れません。
抑圧されている人間が最も逃れにくい甘美な言葉。
ほんの少し。
ちょっとだけ。
そうして姉の囁きに抗えず『味』を覚えてしまった者達は、欲望のままに次へと手を伸ばしていったのでしょう。
そんな姉は絶対に妖精ではない筈なのに、人間を惑わし破滅させる妖精のようで。
ダリアの花の中で私が見た姉の姿の方が、文字通り幻影だったとしか思えなくなりました。
帰宅した家の中は、出かける前と少し雰囲気が違っていました。
心なしか明るく騒がしい?
廊下を歩いていると見慣れない使用人が執事達と話しておりましたので、通りかかったメイドに何があったのか尋ねようとしたら、向こうから食い気味に話を始められました。
「ラドリク様の奥様のお兄様、誰と不倫していたのか分かったそうです!」
「え? 誰だったの? まさかここに来て相手はコラント辺境伯夫人だったなんて事はないわよね」
「違いますよ! 例のセルーア侯爵令嬢を襲ったあの女性らしいですよ。どうもラドリク様の奥様のお兄様にとっては、女性が神殿に入るまで婚約し続けた愛する元婚約者だったそうです!」
私が今まで教えられてきたモラルって何だったのでしょう?
例の女性は姉達に負けず劣らず常識を粉々に破壊してきます。
つまりは絶賛婚約中の女性に、同じく婚約者持ちの男性が堂々と群がっていたと言う事でもあります。
最早、常識の全く異なる異世界の話のようでした。
前の王太子とか姉の囁きとか、それ以前の部分です。
取り敢えずセルーア侯爵夫人達は学園をなくして事件を伏せて隠す前に、こう……モラル教育をし直すべきだったような気がするのです。
いえ、取り敢えず。まずは落ち着きましょう。
あの姉と同類に非常識な女性には実際には婚約者がいたからと言っても、前の王太子が愚行に踏み切った事は間違いないのです。つまりは何かしら今後の婚約的な契約か何か……。
私が頭の中で無理矢理考えていると、ひょこっとお喋り好きのメイドが現れ、
「あの女性の話をしているんですか? 婚約者持ちだったのに何人もの男といい仲になって、側近全部婚約破棄させたって聞きましたよ。教師も何人も骨抜きにしたとか凄い魔性の女だったとか」
「そうそう。他にも婚約者がいる男を狙って奪っていたって!」
話を聞く限り、ある種、姉よりあの女性は質が悪かったのではないでしょうか。
私は頭痛がしながらもメイド達に、
「あの女性が不貞相手と分かって……それで?」
「それで終わりです。事実が判明しただけで、まだ何も結論は始まってませんよ。お嬢様はせっかちですね」
「じゃあ、今人が来ているのは何なのかしら?」
メイド達は何故か満面の笑顔になり、
「ふっふー、何だと思います? 私達は分かりませんよねー」
「ねー。お嬢様はお早く当主にご挨拶にー」
パタパタと普段は走らない筈のメイド達は楽しげに笑いながら走って行きました。
お父様に?
首を傾げていると、私の元に父の従者が呼びに来ました。
「ロウリス君から婚約の申し出を受けた。奥方の実家関連が収まりそうにないのでラドリク君達は平民となって生きるそうで、ロウリス君が後継となるらしい。幸運とは言ってはいけないが、行く行くはマリーベルも伯爵夫人だな」
驚く私に差し出されたロウリスの手紙には、
『急いで婚約者が必要になった。事後承諾になると思うが、宜しく』
「もっと何かあるでしょう!」
少し前に会ったときには何も言っておりませんでした。
私も貴族令嬢に生まれたのですから都合で結婚するのは仕方ないと思っておりますが、手を抜いているこの感じはどうでしょう?
「まあ、ロウリス君はいつもこんな感じではないか」
「そうですけど、花くらい贈ってきても良さそうでしょう!」
後日、私にロウリスから花が贈られてきました。
明らかに父の助言ですね。
色々遅過ぎる事にも腹を立てながら、私は自分の部屋のよく見える位置に花を飾って貰いました。




