『リ・バース』第二部 第15話 Comrades②
② アウロラ・ド・ゲネラッテ
九月下旬の、ある日の朝だった。
城の他の者たちよりも一、二時間は目覚めの遅いアウロラがベッドの中で薄目を開いた時、自室の外が騒がしい事に気付いた。何やら言い争っているような声が、ぼんやりとした頭に響く。
軽い不快感を覚えながら耳を欹てていると、その片方が付き人のカレンデュラである事が分かった。少女時代から自分の専属メイドを務めている年上の彼女は、今や城内では中堅のスタッフだ。
「……姫様はまだお休みになられています。彼女はいつも、ご気分が優れないので遅くご起床あそばされるのです。ドーデム様も許婚であらせられるのなら、姫様の体調の事に関してはご理解頂けなければ困ります」
──ドーデム?
枕に頰を押しつけたまま、アウロラは体を強張らせる。いつも、顔を洗わねば立ち消えてくれない眠気が、一瞬にして雲散霧消した。
果たして、カレンデュラに応えたのはドーデムの声だった。
「よく言われる。あなたが、六年間もずっとそのようにして体調が体調がと繰り返すものだから、私は婚約者でありながら毎日彼女とは真面に話せないままだ。どのように理解を育めと?」
高圧的な、意地の悪い調子。カレンデュラは皇女の傍付きという事でメイドたちの中でも一目置かれ、ドーデムやリクトらにとっては年上に当たる年齢でもある為、騎士たちであっても礼儀を持って接する事が多いが、ドーデムの場合は常に慇懃無礼な態度を取る。
鼬のような男だ。臆病で矮小な癖に、虚栄心は強く、狡知に長けた上に癇癪持ちである。同じファタリテの騎士でも、先代騎士長ロディの実子であったマロン=エキュレットとは大違いだ。
唾棄すべき男。あのような者と添い遂げさせられるくらいであれば、一生独身か最悪死んでも構わない。
しかし……
(彼の方から、わざわざ訪ねて来る事があるなんて)
アウロラは胸中で呟き、ここ数日間の彼の事について思いを巡らせる。
滅多に部屋から出ないアウロラだが、三十代になっても昔からのお喋り好きで情報通なところは変わらないカレンデュラが外の出来事に関する話は毎日のように伝えてくれるので、決して世間知らずではなかった。
四日前、ドーデムの父親である元老長ナサニエル・ヤーツが逮捕された。フェート騎士団によって家宅捜索を受け、書斎からリクトたちの探していた聖体と、それを謎の死霊化者たちに大金と引き換えに譲り渡すという旨の記載された同意書が発見されたのだ。更にその二日前、彼の次期元老長選挙に於ける推薦人であり、ドーデムの部下であり同期でもあるフォースタス・ハントが、レトワール首長国で聖体を捜索していたカルマ騎士団のラナ副騎士長らを殺害しようとしたとして、同じく逮捕されていた。
ドーデムにも、当然疑念が向けられる事になった。一昨日、彼はアウロラの母テレサに天秤宮への出頭を命じられたらしいが、そこでどのような事を語ったのか、昨日も一日彼は自由に城内を闊歩していたそうだ。
そして今日、このような朝っぱらから──といっても午前八時をとうに回っているが──彼は自分の元を訪ねて来た。
これは、何を意味しているのだろう?
「ともかく、姫様は現在、ドーデム様にお会いする事は無理です。時を改めて、もう一度お出で頂きたく思います」
カレンデュラの言葉を聴いているうちに、アウロラの心の中では徐々に決意が固まっていった。身を起こし、枕元に置かれた鏡を見ながら手櫛で寝癖を直す。まだやや寝起きで顔が浮腫んでいる感は否めなかったが、あの男と顔を合わせる為にわざわざ装いを整える必要などない。
そもそも、皇女としての義務などなかったら、わざわざ七面倒臭い化粧やらアクセサリーの装着やらなど、アウロラはしたくはないのだ。後でカレンデュラから叱言を言われるだろうな、と思いながら、アウロラはネグリジェ姿のまま立ち、入口の扉に歩み寄って遠慮なく開いた。
言い争っていたカレンデュラとドーデムが、同時にはっとしたような顔で言葉を切り、こちらを見る。アウロラがカレンデュラの方だけを見ながら「おはよう」と声を掛けると、彼女は慌てたようにこちらを室内に押し戻そうとした。
「姫様、そのような格好で出て来られては──」
「ドーデムが、何か私にご用なのでしょう? いいわよ、お部屋の中でお話しして貰うのでも」
アウロラは、彼女の言葉を遮って言う。
ドーデムは呆気に取られたような顔をした後、途端に意地の悪そうな薄笑いを取り戻して「それはそれは」と言った。
その顔を見て、アウロラははっとする。彼もまた、酷い顔をしていた。先程自らの顔を鏡で見、浮腫んでいるな、と感じたが、彼の方がそれは著しい。その上、目の下には隈が黒々と浮かび、瞳は血走ってギラギラと光っていた。徹夜でオーバーワークを行っていたのだろうか、というような印象を受ける。
彼は、土産物ででもあるかのように両手で大きな布の包みを持っていた。アウロラはそれも気になったが、こちらが何かを口に出すよりも先に、ドーデムは這わせるような視線でこちらを見つつ言葉を続けた。
「朝早くからで恐縮ではありますが、アウロラ姫、あなたにお願いしたい事がございましてね。何、そう面倒な事ではありませんし、姫にとっても決して悪い話ではないはずですよ」
「そういう事は、私を通してから──」
「残念ですが、あなたには外していて貰いたい。姫にだけの用なのです」
ドーデムは視線だけをちらりと動かし、カレンデュラを見た。彼女はまた何か反駁しようとしたようだったが、アウロラはそれよりも先に「いいでしょう」と肯き、彼女の方を向いた。
「カレン、あなたは下がっていて」
「姫様、しかし」
「用が済んだらドーデムに伝えさせるから、いつも通り着替えと化粧道具を持って来て、控え室で待っていてちょうだい。……大丈夫、この方はまだ、表では犯罪なんかに手を染めていないのでしょう?」
もしもこの後に自分に何か危害を加えるような事をすれば、状況からして彼が犯人である事はすぐに分かる。他でもなく、ここで今話を聞いているカレンデュラが証人になるのだ。
カレンデュラはまだ微かに下唇を噛んでいたが、いつも自己主張をしないアウロラが珍しく有無を言わせぬ口調で言った為だろう、やがて「了解」と返事をし、踵を返した。
最後に一度だけ振り返り、ドーデムをきっと睨んだ。
「お分かりかとは思いますが、もしも姫様に変な事をしたら……」
「承知していますよ、よくね」
ドーデムは、口の端を歪めて嗤った。
* * *
「獅子宮が、これから捜索を受ける事になるでしょう」
部屋に入って来るや、ドーデムは遠慮なくベッドの上に腰を下ろし、いきなり切り出した。
「フェートにかもしれませんし、特権持ちの聖光士にかもしれない」
「何故、そう思うのですか?」
アウロラが尋ねると、彼は布包みを解きながら答えた。
「宝瓶宮に、昨夜泥棒が入りましてね。……おっと、まだこの事は内緒ですよ。あちらの騎士たちがよく知っている品と、知らない品が盗まれたのです。で、これがその前者ですよ」
包みの中から現れたのは、円盤様の盾に似た物体だった。ドーデムはそれを傍らの台の上に置き、続いて螺子回しを何処からか取り出して物体のあちこちをつつき始める。一、二分後、円盤の上部が外れた。
開いた中から覗いたものに、アウロラは思わず吐きそうになる。収められていたのは、灰色に変じた人間のものらしい右手首で、その周囲には饐えたような悪臭を放つ大量の白っぽい粉末が積もっていた。
それが母やリクトたちの追っていた聖体である事は、実物を見た事のないアウロラにも直感的に察せられた。
「『右手』です」
ドーデムは言った。
「そう、父の書斎から見つかったものですよ」
「ドーデム、まさかあなたは──」
言いかけたアウロラを、彼は掌を突き出して制した。
「カルマ騎士団が、十の聖体を世界各地から回収して来たという事について、姫様はご存じですか?」
「え、ええ。カレンから聞きました」
「それまでに聖光士たちが回収したものを含めて、これで十四個目です。既に解禁されている情報によれば、聖体は全てで十五個、そしてその全てが揃わなければ、ラオコーン・シュバーンは記憶を抽出する事が出来ない。私からこれを奪取出来ない限りは、聖光士は千日手です」
「………!」
アウロラははっとし、ドーデムを睨みつけた。
「あなた、リクトに何て事を──」
するつもりなのだ、と続けようとした。しかし、やはりドーデムは、アウロラの言葉を最後まで聴く事はしなかった。
「おやおや、これは異な事を」
彼は皮肉っぽく口角を上げ、試すように言った。
「あなたは、その死から造次顛沛、マロン=エキュレットの事のみを想って七年間を生きてきたものかと思っていたのですがね。あなたの瞳には、私は映ってはいないようだった」
「お黙りなさい!」
アウロラは叫んだ。拳を、聖体の収められた円盤の載る台に叩きつける。軽いテーブルはがたりと揺れ、「右手」の周囲に積もった粉末が微かに跳ねた。
しかし同時に、拳にも痺れるような痛みが走った。
「あなたのような下衆な性根の男を、彼と比較する事自体甚だしい彼への侮辱に当たります!」
「おっと、お気を付けて。その粉は猛毒です、零してはいけませんよ」
ドーデムの態度は、膠質の如くこちらの感情を平気で跳ね返し、一切を通さないようだった。机上で、彼の手がアウロラの手首をぎゅっと握って押さえつける。その途端、背筋がぞわりと粟立った。
「放して下さい!」
「……やれやれ。嫌われたものですね」
彼は溜め息を吐き、アウロラから手を離すと、「右手」に再び蓋をして螺子を回した。それから、幾分か声色を改めて「アウロラ姫」とこちらを呼ばってきた。
「聖光士や、あなたの姉や母である女王陛下やテレサ様が、隕命君主ライガ・アンバースの復活について情報を隠匿している事はご存じですか?」
それは、アウロラであれば容易く予想のついた事だろう、というかのような調子だった。
アウロラはやや逡巡してから、顎を引いて肯定の意を示した。
ドーデムは肯き、「では」と言った。
「あなたはその事について、どう思われていましたか? ライガは、あなたの愛したマロンや、あなたの父親である先帝を殺害した。あなたが、あの男を憎んでいる事は皆が知っています。
そのような中、あなたにとって最も身近な者たちが──あなたの”心”を誰よりも理解しているはずの者たちが、あの男の復活を祝うべき事のように取り扱い、剰えその事をあなたには隠そうとした。いえ、隠しきれるものではないと分かっていながら、あなたに見て見ぬ振りを強いた。ねえアウロラ姫、あなたはそれに、どのような思いを抱かれていたのですか?」
「私は……」
アウロラは、ドーデムの言葉が自らの胸を、銅鑼を乱打するかの如く酷く打ち震わせるのを感じた。
聖体について姉が──というより母が公開した情報については、一通り頭に入れてはいた。それが、新生ジフト、そして「影」と呼ばれる謎の死霊化者たちによって狙われている危険物だという事も。
ドーデムは、意図的にその捜査を妨害しようとしている。そして、これから彼が自分に対して何を言おうとしているのかという事も、この時点でアウロラには察しがついていた。
彼の言葉は、寄生木の種のようなものだ。一度受け入れてしまったら、以後いつ果てるとも知れない共生関係を強いられる事になる。
それが分かっていながら、アウロラは突っ撥ねる事が出来なかった。
「リクト・レボルンスに関しては、あなたもまだ情を持っているらしい。かつて愛した男です、二世の契りを交わした──か否かは存じ上げませんが、マロンが死んでから、縋りたいという思いが萌していても仕方がない。しかし、彼も女王陛下もテレサ様も、ライガが死んだ途端、姫様に対して酷く等閑な態度を取るようになったとは思われませんか?
あたかも、腫れ物に触るかのように。社会通念上持つ事を許されない死霊化者への情を、自分たちの断ち切り難い執心のみを優先し、どう接すべきか分からなくなったあなたに関わる事を避けるようになった。私本人が申し上げる事ではないかもしれませんが、テレサ様のお決めになった、あなたと私との婚約に関してもそうです。そこに、あなたの同意はありましたか?」
「ドーデム、私は」
「いいのですよ。あなたが私を愛せるはずがない事くらいは、私自身も理解しています。けれどね、今私は、あなたとは胸の内に抱え続けてきたものの一つを採って共感し合えると思っているのです」
彼は、俄かに声量を落として言ってきた。
「ライガ・アンバースに、復讐したくはありませんか?」
「復讐……?」
「ええ。無論、あなたを危険な目に遭わせる事はしません。ただ、この『右手』をあなたに保管しておいて頂くだけで良いのです。私はその間に、彼が再び世界から抹殺されざるを得ない状況を作り出します」
彼は言い、円盤の表面を中指の関節でコンコンと叩いた。
「私は奴の正体を白日の下に曝し、捕縛する。以降、フォルトゥナ騎士団はどのような大義名分で我らファタリテの獅子宮を捜索しようと、これを見つける事は能わなくなるのです。彼らもよもや、真にこれを秘匿しているのが姫様だとは糸毫も考えてみないでしょう。
何かと都合がいいのですよ、まずあなたは蒲柳の質という事で、滅多にこのお部屋からお出でにならない。当然ながら、このお部屋にはキュモール殿以外の誰も立ち入りませんね。更に、私とあなたの不仲は城中に広く知れ渡っている。我々が協力関係にある事を思いつく人間など、誰が居るでしょうか?」
ドーデムは言ってから、芝居がかった仕草で両腕を持ち上げ、頭を振りながら「まあ」と付け加えた。
「自分で言っていて、段々と悲しくなってはくるのですがね」
「ドーデム」
アウロラは、鳩尾の辺りに拳を押し当てながら言った。
「あなたは私を、利用しようという魂胆なのね?」
「ええ、そうですとも」
彼は悪びれる事なく肯く。
「しかしその結果、あなたの気も晴れるのでは?」
「………」
アウロラは緘黙する。確かに、自分はライガの事を憎んでいるし、未だに彼への想いを断ち切れていない我儘な姉には苛立ちを覚えている。だが、それでも「いいのだろうか」という思いは依然心の中に存在した。
だがその一方で、自分はこれから、ドーデムの言葉に自ら乗せられる事を選ぶのだろうという事も、確信に近い強度で予感していた。
「たまには利用されてみるのもいいかもしれませんよ。あなたからは、破滅願望にも近い浄化への冀求が感じられます」
駄目押しするかのような彼の台詞を暫し反芻した後、アウロラは
「……これを」
徐ろに口を開いた。
「あなたがいいと言う時まで、持っていればいいのね?」
「ええ」
ドーデムは、会心の笑みと共に肯いた。「ありがとうございます、姫様」
「だけど約束して、ドーデム」
引き返せない道に足を踏み入れた事をありありと感じながら、アウロラは辛うじて付け加える事を忘れなかった。
「嫌だけど、運命共同体ですからね、私たちは。もしもあなたがやむを得ないと判断して、お母様たちに、調査の手が私へと行き着くようなきっかけを与える事になったら──その時は、私はあなたを告発します」
ドーデムは刹那、笑みを消して険しい表情を形成した。
しかし、それはすぐに潮が引くかの如く薄れ、
「御意、ヴォートル・アルテス」
という返事が、唇から紡ぎ出された。




