『リ・バース』第二部 第13話 Political Enemy⑤
⑤ ブラダマンテ・イェスネット
「ごめんなさいね、こう何度も来て貰って」
ブラダマンテが夫と共に暮らすイェスネット分家にて、自分を訪って来たオルフェに対し、母ヴァランティーヌは言った。オルフェは微笑し、「いえいえ」と穏やかな声で応える。
「私も、義母上との時間は数少ない安らぎの時なのです」
「嬉しいわ。でも、そういう事はセフィラさんやイングリットさんに言っておあげなさいな」
少々遠慮がちに言うヴァランティーヌだが、その顔はやはり隠しきれない喜びを湛えている。オルフェがやって来た途端、連日体調が優れず気分的にも塞ぎ込んでいた彼女が回復したようで、ブラダマンテはやはり弟は凄い、と思う。
先々週も彼はこちらの家を訪問し、その前週にブラダマンテが頼んでいた通り、亡き父の形身の弦楽器ウアトネで「水瓶座の旋律」を奏でた。母はこの楽譜により体調が幾分か回復したが、それ以前にいちばんの薬となったのはオルフェの訪問それ自体のようだった。
オルフェとヴァランティーヌには、血の繋がりはない。しかし、ヴァランティーヌは現在、実子たちの中で唯一の生き残りであるブラダマンテと同等か、ややもすればそれ以上にオルフェに愛情を向けていた。
ブラダマンテはそれで、オルフェに対して何か複雑な思いを抱いた、という話ではない。母が当たり前のように娘を愛している事は理解しているし、三十代も半ばに差し掛かって、まだ子供のように母に甘えたいなどと考えている訳でもない。ブラダマンテはヴァランティーヌの心境について、恐らく彼女は、オルフェに対して夫の面影を感じているのかもしれない、と考えていた。
多くの女性と浮名を流した父アレイティーズだが、ヴァランティーヌとの許婚としての関係は十代に入る以前から始まっており、単なる家同士が決めた関係という以上に互いを愛し合っていた。この話はイェスネット家の関係者たちから、幼少の砌から繰り返し聞かされてきたので間違いない。
母親が歳若い我が子に、かつて恋人だった頃の亡夫の面影を見る。他の家庭の事は知らないが、恐らくはあまりない事なのではないだろうか。しかしヴァランティーヌの場合は、オルフェが実子ではないからこそ、それが成立し得る──成立してしまう事を、本人が自らに許している──のではないか。
「オルフェ、それじゃあ」
ブラダマンテが促すと、彼は「ええ」と肯き、ウアトネの弦に触れた。
旋律が流れ始める。ヴァランティーヌは寝椅子に深く背中を預け、深呼吸して目を閉じた。ブラダマンテも傍らに座ったまま、その嫋やかな調べに身を委ねる。本来は戦場で味方の回復をサポートする為の楽譜なので、自然回復力を上げるという効果は狙った対象にしか有効ではないが、恐らくオルフェは、この場に立ち会っている自分や彼自身にも効果を施しているのだろう、と思った。
オルフェの顔をちらりと見ると、自らも音色を味わうように瞼を閉じた彼も非常に穏やかな表情をしていた。
ブラダマンテは、少し安心する。昨日まで、彼は激務に追われ、いつ寝ているのかすらも分からなかったのだ。
カルマのラナ・ピックルス副騎士長らが拘束し、連れ帰ったフォースタス・ハントの尋問、元老長ナサニエル・ヤーツの家宅捜索と彼の逮捕、同じく尋問。この二人は逮捕されてから今までずっと沈黙を続けており、取り調べを行う自分たちの側も精神を試された。更にオルフェは、それらと並行して、ヤーツ元老長の逮捕による今後の次期元老長選挙に関する話し合いの為、シックマン候補や選挙管理委員会と何度も会っていた。
日頃から殆ど宝瓶宮に泊まりきりの彼だが、月に数回は自宅に帰り、唯一の使用人であるタロマティと二人だけで毎日を送っている妻セフィラと共に過ごす。しかし今月に入ってからは、その機会もなかなか設けられず、しばしば申し訳ないと零していた。
ブラダマンテは自分の体が空いた時、彼に代わってセフィラを訪問し、彼がそのように「申し訳ない」と思っている旨を伝えて理解を得ようとした。彼女は無論、夫の仕事について理解を示し、不満を口にする事はなかったが、やはり孤独感に苛まれている事は否めない。
──せめて、子供が居れば。
セフィラ自身も、自らの死産について引き摺っているので、義姉の自分からそのような事を面と向かって言う訳には行かないが、やはりそう考えてしまうのは如何ともし難かった。
今まで蔑ろにしていた分も、これからはきちんと姉として弟を支える。そう考えながら、もう九年も経った。時の長さがそのまま”埋め合わせ”の為の時間となるのなら、あと十年以上自分はそのような思いでいなければならないという事だが、それはやはり間違った考え方だろう。却ってぎこちなくなるだけだ。そう思ってはいるのだが──。
「……っ!」
その時、不意にヴァランティーヌが鳩尾の辺りを押さえ、呻き声を漏らして顔を顰めた。ブラダマンテはぎょっとして立ち上がり、オルフェも慌てたようにウアトネの演奏を中断し、彼女に駆け寄った。
「義母上、どうかさなれましたか!?」
「いいえ……何でもないわ。ちょっと、お腹が痛くなっただけ。……大丈夫、もう治まったわ」
ヴァランティーヌは言い、笑みを浮かべて見せるが、やはりその額には汗が滲んでおり、やや無理をしているようだった。
オルフェは、同じく母に駆け寄った自分に「姉上」と声を掛けてくる。
「先々週から──前回私が伺った時以降、このような事は?」
「いいえ、なかったわ」ブラダマンテは頭を振る。「明後日、また定期検査をして貰う予定だったの。前回、腫瘍が見つかったって言ったでしょ? 半月経って、どうなったかもう一回調べる為に」
「……前は、月に一度で宜しかったのに」
オルフェの呟きに、ヴァランティーヌが「大丈夫よ」と応えた。
「念には念を入れてってだけだから。ブラダマンテ、あなたもあんまりオルフェに心配掛けるような事を言っちゃ駄目じゃないの」
「だけど、お母様」
「オルフェだって、何かと大変な時期なんだから」
「お気遣いなく、義母上」
弟は、困ったような笑みを湛えながら容喙する。
「義母上の事に比べたら、些末な問題です」
「オルフェ……」
彼はもう一度、「本当にお気遣いなく」と言い、ブラダマンテとヴァランティーヌの手を自身の両手で同時に握った。
「お二人は未だに、私を何処か他所の人間として見られている節があるようだ。しかし私は、過去には拘泥しません。イェスネットという家族の一員として、身内としてあなた方を心配出来る自らを、おかしな事かもしれませんが私は結構気に入っているのですよ」
──やはり、彼をごまかす事は出来ない。
ブラダマンテはそう思い、おかしなものだな、と胸中で呟いた。
長い間彼を惟みなかった事への償いをしている、などという思いがある以上、やはりどうしても特別扱いをしてしまう。彼にとってはそれもまた、家族という繋がりに不自然さを感じさせる事かもしれないのに。
確かに自分たちの関係は、主にオルフェ本人の心情に関して、九年前までと比べて格段に改善された。兄たちから蔑まれ、イェスネットの名すら名乗る事を許されなかった状況と比べたら、誰が何と言おうと彼が自分たちとここまで良好な関係を築く事が出来たのは奇跡に近い。
それでも──本当は、それは奇跡などではなく、当たり前の事であるべきだったのだ。奇跡だと捉える事を、自覚しないままにオルフェに強いてしまっているのだとすれば、それはやはり自然ではない。
貴族の間ではよくある柵だ、と言って済ませてしまう事は、ブラダマンテはしたくなかった。




