『リ・バース』第二部 第10話 Une Saison en Enfer⑥
シュラが立ち上がり、自らの顔面でウカノフの掌を押し返した。死霊化とプレーローマを同時に施された毒液は彼の顔を赤黒く染め上げたが、彼には毒の状態異常も死霊化術も作用しない。
反撃とばかりに、シュラは右手の爪を振り上げた。そこには瘴気がまとわりついていたが、果たして効くだろうか、とライガは不安が萌す。
ウカノフは「影」だ。「影」は、すぐに「地下」で復活するとはいえ死霊化術を受ければ命を落とす。しかし、ウカノフは死霊化術の作用を持った毒液を浴びても平気な様子だった。彼が特殊な逸脱者であるのに起因する事なのか、それとも術の方が通常とは異なっていたのか。「灰」の作用を再現している、それを喰らった者が直ちに「影」と化すという事以外に──。
そこからのウカノフの反応で、ライガは後者の方が正解だった、と判断した。
シュラの爪が、「死に至る病」をもたらす瘴気が迫るや、ウカノフは大きく跳び退き、それから逃れようとした。
シュラは爪による薙ぎ払いを大きく空振りすると、空いていた左手で顔に浴びた毒液を引き剝がし、更に追撃を掛けようとした。しかしライガは「シュラ!」と呼んで一旦攻撃の手を止めさせ、立ち上がった。
距離が保たれている間に姿勢を立て直し、抉られた眉間に左の指先を這わせながら詠唱を行った。通常の回復魔術ではなく、傷口を閉じる事に長けた癒合術の歌うような詠唱だ。
「シュラ、大丈夫か?」
尋ねると、彼は前方を向いたままこくりと肯いた。ごめんな、と謝る。
「身代わりにするような招喚になっちまって」
「……いえ」
シュラが、短く返事をした。
それだけの返事だったが、自分が復活して最初に彼を招喚した時以来、彼が唸り声や咆哮ではない、意味のある言葉でこちらに応えたのは、考えてみればこれが初めてだった。
ライガは一瞬はっとし、すぐに表情を引き締めて「そうか」と言った。
共に並び立ち、ウカノフを睨む。
死霊化された毒化術が効かない事に、「死の舞踏」が警戒されている事。やはり今この状況で、ウカノフに対してアドバンテージを持って戦えるのは、自分よりもシュラの方だ。
「死天使……」
ウカノフは、今の衝突で先程までの攻撃が有効でない事を悟ったらしく、足元に黒っぽい水溜まりを出現させた。
──「影の部屋」ではない。霊力ではなく、魔素による文法だ。黒紫色の光果の中で、無数の狼が形成されている。闇属性文法古代魔術、「漆黒の湖」。
「私の事は襲うなという命令は、やはり私の口から下す事は出来ぬようになっているらしいな」
「シュラに命令を下せるのは、俺だけだ」
ライガは言い放った。
「俺だって、まだこいつの事は友達だと思っている。だから主従関係なんていう言い方も、本当は嫌だよ。だけど、誰かが悪意を持ってこいつの力を利用しようっていうなら」
言いながら、ちらりと「そういえば」と思った。
パペス国にて、シュラは自分が呼んでいないにも拘わらず現れ、「蠍」の若者たちを攻撃した。その時、彼の項には向精神作用の魔術印が刻まれていた。思えばあの犯人も、まだ特定されていない。
しかし今は、余計な事を考えている状況ではなかった。
「よく言う……貴様ですら、手に負えているとは言い難いのに」
ウカノフが、独りごつようにそう呟いた。
刹那、ライガの脳裏にあの悲劇が──先代ファタリテ騎士長ロディ・エルヴァーグの息子の死の光景が蘇り、無意識のうちに体が強張った。
その一瞬を逃さず、
「アームスヴァルトニル!」
発動されていたウカノフの古代魔術が、こちらに向かって射出された。
「ライガを傷つけるな!」
シュラが、嗄れた声ながらもはっきりと言葉を発し、飛び出した。両手の爪を振るい、地面すれすれからアッパーカットを繰り出すように薙ぐ。地を這うようにこちらに肉薄して来ていた「漆黒の湖」は、舞い上がった影の流体に遮られ、ライガとシュラに到達する事はなかった。
ライガは我に返るや、距離を保ったまま輪状霊魂を招聘する。斬撃術の方が強力だが、軌道を変更しながら飛ばす事の出来るこちらの方が、シュラをスムーズに掩護出来る。
脳裏に焼き付いた彼の──マロン=エキュレットの今際の笑みを、ライガは一時的に振り払おうとした。トラウマに支配され、戦闘に集中出来ない状況だけは避けねばならなかった。
「驕児よ……私もまだ、貴様を殺処分する事は出来ないのだが」
ウカノフは言い、次の文法を発動する。
「レギンナグラル!」
またしても古代魔術だ。今度は光属性の斬撃系統──。
「シュラ、転写術だ!」
ライガは叫ぶ。肉体で防御を行っても、却って部位欠損を引き起こす可能性の方が大きい。
シュラはそれに従い、ウカノフに「神々の爪」を返す。同出力の為一瞬の拮抗が起こり、その瞬間ライガの投擲した輪状霊魂がウカノフの首筋の辺りに吸い込まれるかのように飛んで行った。
「ええい! オースコープニル!」
ウカノフは間一髪で後方に跳び退くや、顎の辺りを押さえながら更なる魔術を使用する。空中に火の輪が現れ、その中から炎に焼かれているような兵士の姿がぞろぞろと湧き出してきた。
ライガはそれらを一体ずつ輪状霊魂で切り裂きながら、ウカノフに与えたダメージを確認した。
急所こそ外したものの、指の隙間からだらだらと血が溢れ出している。ようやくヒットらしいヒットが入った。
シュラの方を見ながら、勝利への道筋を考えた。
ウカノフは、すぐに復活するにも拘わらず「影」として死霊化術で死ぬ事を恐れている。本能的な恐れというのとは、やや性質が違う。
もし復活したとしても、再び彼が「リムゲイ・ウカノフ」となる為には、誰かから個別化の術を施して貰わねばならない。そして恐らく、ヘルガクヴィーダは彼が死亡した時、感知する術を有していない。
(だから、死霊化術で殺されるのも都合が悪いんだな……復活の見込みがなくなる訳じゃないけれど、大きなタイムロスが生じる)
しかし、出来れば彼が復活する可能性は、ゼロにしておくに越した事はない。彼がシュラを──一撃必殺の瘴気を恐れているのならば都合がいい、シュラの攻撃で牽制しつつ、自分が通常の文法や降霊術で仕留める。
(情報も、ここまで引き出せれば十分だ)
「死天使──」
「そんな風に呼ぶな!」
シュラは、叫びつつ瘴気を含んだ斬撃術を飛ばす。
「僕は、シュラ・イスラフェリーだ!」
ウカノフの放った、燃える兵士の最後の一体が切り裂かれて消滅した。
「では、シュラ・イスラフェリーよ」
ウカノフは珍しくはっきりとした苛立ちを滲ませながら、またしてもシュラだけを狙った通常文法での攻撃──今度は地属性の「死者の岸」だ──を繰り出した。巨大な蛇骨のようなものが、黒一色の地面を隆起させるようにして出現し、ウカノフに肉薄していたシュラはその上に載せられるような形で足を縺れさせる。そのままライガの居る方、ウカノフとは反対側に滑り落ちて来、ウカノフはそれに追撃を掛けるかのようにまたしても「神々の爪」を放った。
「貴様も怨霊である以上は、死と共に魂が消滅すれば不死者となるのだろう……しかし、その時には生ける屍として復活する訳ではない。死天使としての貴様は、永久に失われてしまう」
「ビョオッ……!」
しまった、と咄嗟に口走るように、シュラは短く声を発した。
ライガもひやりとし、腕状霊魂で彼を掴み、ウカノフの術の軌道から逸らす。それを行った為に、ウカノフへの攻撃の為に呼び出したままにしていた輪状霊魂は解除された。
蛇骨が消えると、次は「大いなる冬」の冷風が吹きつけた。
「貴様の真の主は誰だ?」
「シュラ、下がれ」
ライガは、腕状霊魂から彼を解放しつつ防御魔術を使おうとする。
ウカノフが使用した風属性の古代魔術は、ジフト戦役に於ける最後の戦い、ゲイロッド城での対ブラウバート戦で、公皇本人が使用しているのを見た事があった。あの時、もう少しで公皇に止めを刺せるところだったオルフェは凍結によって身体の自由を奪われ、アルフォンスが助けなけば逆に殺されていた。
今シュラが同様の状態異常を被れば、ライガはまた独りでウカノフと戦わざるを得なくなる。ウカノフの口振りでは、どうやら彼はまだシュラを殺すつもりはないように思われるが、活動停止のみに追い込むという事が目的であればそれは容易く達成されてしまう。
「シュラ──」
名前を呼びかけ、ライガはそこで目を見張ってしまった。
ウカノフからの問いが発された瞬間、地面に着地して次の行動──回避に入りかけていたシュラは、そこでぴたりと静止したのだ。
予想外の事だった。そしてそれは、シュラ自身も同じようだった。
「真の主? そりゃ……」
何を今更、と思ったライガだったが、そこで何かが頭に引っ掛かった。
それに正体を見出すよりも先に、シュラがうっと呻いた。爪に瘴気の蟠る両手を上げ、自らの頭を押さえる。それは、頭痛を起こしながらも懸命に何かを考える時の動作のように見えた。
「ビョオオオ……ッ!?」
それからすぐに彼は、目の前のウカノフが自分と何ら制約のない関係性である事を思い出したらしく、首を振って顔を上げた。今し方生じてしまった遅れを取り戻すかのように、跳躍回避を行うべく両足の撥条に力を込める。
しかし今し方の一瞬は、風属性術の到達速度を考えれば致命的ともいえる長さのものだった。
ライガはもう一度腕状霊魂を使い、先程と同様彼を強制的に引き下がらせようかと思った。が、その為には、今まさに発動しかけていた防御魔術を中断せねばならなかった。その為に要する時間も、「大いなる冬」の冷風が到達するまでの一瞬。次の刹那でシュラを引き下がらせようとすれば、間に合わない。
考えるともなく、ライガはこの判断を下していた。
今、発動しかけている防御魔術を中断すれば、自分とシュラ、二人ともが凍結に追い込まれる。そうなった場合、詰みだ。
(ごめん、シュラ……!)
ライガは心の中で彼に謝り、ぐっと歯を食い縛った。
冷風が吹きつけ、シュラは両膝をやや屈折させた状態のまま前半身を真っ白に染め上げられた。生ける屍の乾いた灰色の肉や、綻んだ病人用のガウンの生地の上に、びっしりと霜が生じる。
氷像──いや、樹氷のようになった彼の体が盾になり、幾分か威力を減殺されながら、冷風はライガに達した。
自分の防御魔術は、それを防ぎきるには十分だった。




