『リ・バース』第二部 第10話 Une Saison en Enfer⑤
「偽天……オグドアド!」
ウカノフが叫んだ刹那、その赤黒い空が落下してきた。回避するのは、著しく困難な攻撃だ。
ライガが咄嗟に実行したのは、
「ブラキオプネウマ!」
腕状霊魂を発動した後、
「サドンデス!」
それを死霊化する、という方法だった。
無論、一本だけでは全く足りない。その上、相変わらず分離した毒の欠片は降り注いで来る。
ライガは続いて、第二、第三の腕状霊魂──腕状怨霊とでも呼ぶべきか──を飛ばした。
プログラムは、ライガもまたウカノフと同様自身の支配が及ばなくなる事を恐れていた。しかし、まだ自分はウカノフとは異なり、プログラムの制約に縛られ続けている。その証拠に先程、眼状霊魂と斬撃術を同時発動する事は出来なかった。
しかし、死霊化された魂であれば、この世に抑留され続ける。制約から外れた最初の腕状霊魂を境界に還さないまま、同じものを二つ、三つ招聘する事は出来た。その代わり、やはり操作性は鈍る。
直接触れていないにも拘わらず、ライガは頭上に凄まじい重みを感じた。物理的なものではなく、精神的な重圧だ。
「プリヴェントファクター!」
降り注ぐ毒の雨には、普通の障壁因子を頭上に展開する事で対処した。通常の怨霊生成──「突然死」であったら防ぐ事は出来なかったが、ウカノフのこれは死霊化術というカテゴリの中に含まれる”技”だ。
とはいえ、障壁因子に当たって跳ねた雫に当たってもアウトだ。そこでライガは光の壁をなるべく広範囲に展開出来るよう、直前に無詠唱で魔素出力向上を施す事もしていた。
大小の魔術のオンパレードだ。驕る訳ではないが、恐らく自分でなければ採り得なかった対処方法だろう。ウカノフも、やや驚いたように眉を上げた。
「『八つの天』を防ぐか……」
「悪い癖が戻ってるぜ、ウカノフ──いや、アリフか……?」
頭上から迫る重圧に圧し潰されぬよう、腕状怨霊たちを懸命に操作して押し返そうとしながら、ライガはせめてもの威勢を示そうと口角を上げて見せた。相手のペースに呑まれては駄目だ、と自らを鼓舞した。
「情報を小出しにして、相手をおちょくろうとする……な。まだ……俺は話を終わらせたつもりは……ねえ……ぜ?」
自らだけは毒の影響を受けないかのように、漆黒の空間に立ち昇る赤黒い柱の中に半ば同化されているウカノフを、障壁因子の光膜越しに見据えて続ける。
「ドーデムが、どうして──」
しかし、答えを待つ必要はなかった。はっと、その事に思い至ったのだ。
「そうか……イスラフェリオの、カヴァリエリ脱出作戦の時だな? あの時イスラフェリオは、わざと一旦捕虜になってドーデムたちを油断させた。街を出る時、ドーデムたちは奴らの持っていた武器や魔導具を鹵獲して──」
そしてその中に、聖体の「右手」があったのだ。
「赤峨王は、あの時私が”作成者”から新たな聖体を受け取りに行っているものだと思っていた」
ウカノフは言った。
「それは偽りだが、結果は間違いではなかった。私はあの時、ラオコーン・シュバーンの隠し持っていた『心臓』を回収すべく、ガウスに出向いていたのだからな。故に赤峨王は、カヴァリエリを脱出する際にドーデム・ヤーツらによって軍用物資を検められ、『右手』が取り上げられる可能性についてそこまで大きくは考えていなかったのだろう」
だがそれでは、と思った。
(何でドーデムは、それをリィズに報告しなかった? 出征前に、テレサ様は聖体の情報は解禁したはずだ)
いや、それを言うのであれば、ファタリテ騎士団と共同で作戦に当たっていたデスタン騎士団もそうだ。ネクアタッド騎士長は、ドーデムが「右手」を回収した現場に立ち会わなかったのか?
「だが、まあいい」
ウカノフは、毒の天井をこちらに押しつけたまま言った。
「あの男がどのような悪巧みをしていようが、そのような事は些細な問題だ」
「そうか? もしそれが本当なら」
ライガは言い返す。
「もうお前たちは、四つの聖体を失った事になる。いや、それどころか今こうしている間にも、ラナさんたちが残りの十一個も見つけているかもしれねえ」
「すぐに巻き返せる。あの男を挫く事は、特に難しい事ではないのだ。殿下がいらっしゃる限りはな」
こちらにとっては大問題だ、とライガは思った。
聖体は、どのような目的の為であれ軽々しく扱って良い代物ではない。ドーデムが自分の目的の為にその私物化を図っているのだとしたら、どのようなものであれ事態がおかしな方向に行く前に留めねばならない。
それに──と、ライガはウカノフを睨みつける。
彼を生かして捕らえ、これ以上の事について情報を引き出そうとするのは恐らくもう無理だ。彼は真の主君とそのプランの最終形については意地でも口を割らないだろうし、生きている限り猛威を振るい続けるだろう。
リクトとラオコーンと共に確認したように、やはりヘルガクヴィーダの転生先を突き止め、全ての謎を解くには、聖体を全て揃えて遺体の主を特定し、「回顧録」によって記憶を見るしかない。
魂の材質ごと、生ける屍となった肉体をばらばらに分割されたのだとしたら、たとえ片方の手首が欠けているだけでも、ラオコーンが魂から記憶を抽出する事は出来ない可能性が高い。無論ある程度部位が集まったら一度試してみるつもりだが、やはり存在の分かっている聖体を放置は出来ないだろう。
「だが、その前にライガ・アンバース──」
ウカノフの台詞に、ライガは微かに肯きながら応えを返す。
「ああ、リムゲイ・ウカノフ」
「ここで貴様を──」
「お前を倒す!」
被せるように叫び、ライガは両腕を障壁因子に押し当てた。
背を伸ばし、全身でその光の壁を押す。それは、更に上で迫り来る毒の天井を押し返している腕状怨霊たちを、下から押し上げた。
ビシリ、という音が鳴った。
光の壁に、一つの腕状怨霊の接している箇所から亀裂が走る。しかし、こちらが押し負ける事はなかった。
同様の亀裂が、天井にも走った。そちらの亀裂の拡大速度の方が、障壁因子に走るものよりも速かった。扁平な塊だったそれが、内側から叩かれてでもいるかのように随所で膨張と収縮を始める。
その一部が裂け、中から溶岩の如く粘り気を持った毒の流体がどろりと噴き出してきた。
押しきれそうだ。しかし、このままでは良くない。
時間的に、こちらの障壁因子が砕け散ったタイミングで、天井の内側に充満していた毒が自分にどっと覆い被さる事になる。
障壁因子を再度展開している時間はない。一瞬でも今のものが解除されれば、それによって防がれている天井がまた落下の速度を上げる。
ライガは脳をフル回転させ、次の策を考えた。
次に来るのは流体だ。腕状怨霊を追加したところで、完全に抑え込める可能性は極めて小さい。ならば、
「再誕」
ライガは溢れ出した流体に向かって手を伸ばし、その術を使用した。
前例がない事を行っている、という自覚はあった。破れかぶれではないのか、と胸中で咎めてくる自分も居る。だが、ライガは最大限に、自分が生き延びられる可能性の高い選択肢を採ったつもりだった。
──降霊術として発動されている霊力も、霊魂だ。
そして、それは死霊化術として発動されている怨霊も同じ事だ。
基本的に、降霊術の形でこの世に現れている魂の滞在時間は一瞬だ。だから、人に宿った状態のそれ程、皆それが未だに生前の記憶を宿した──境界から招かれる魂は全てが「審判の七日間」中のものだ──ものであるという事を実感せず、単なるエネルギーや触媒のように捉えがちである。
しかし……
──うわああああああああああ……っ!!
物凄い声が、耳を劈くかと思われた。肉体という依り代のない怨霊たちが、一斉に目覚めて自分たちの状態を悟る。別の魂の残骸、霊力の毒に練り合わされ、次の瞬間砕け散ってもおかしくない程に密集させられている事に。
自分が、生前の彼らの尊厳を土足で踏み躙り、考えられない程の恐怖と苦痛を味わわせているという自覚はある。だが、ライガは自分が生き延びる為、彼らにあえて犠牲となって貰った。
「ドゥクスアニムス」
物体操作術──流体の運動状態の操作により、頭上で留まった毒を一気にウカノフに向かって逆流させた。
ウカノフは常軌を逸したこちらの攻撃に──或いは殆ど母音の凄まじい揺音に一瞬硬直したようだったが、すぐに表情を引き締めて腕を下ろした。隕命君主であればこれくらいの事はやりかねない、と思い直したらしい。
「私自身に、『灰』の毒は利かぬ!」
「そりゃそうだ、元々『影』なんだからな。けど、お前の毒化術の端末は掌だ。それが思うようにならないのは、困るんじゃないか?」
完全に天井が浮上し、崩れながら、それが接続されているウカノフの両腕へと逆流して行く。ウカノフはそこで初めて苛立ちを滲ませ、自らの両腕の自由を縛めるそれをふっと消滅させる。
自分によって自我を取り戻させられたとはいえ、最初にそれらの魂を招聘し、死霊化したのはウカノフの方だ。怨霊を消滅させるか否かを決定する権利は、彼の方にあった。
「……貴様の言葉による措置ではないぞ、ライガ・アンバース」
ウカノフは言い、原形を取り戻した両手を足元に向けた。
「毒化術以外を、私が忘れているなどと思って貰っては困る。シャンブル・ド・オンブル──」
「聖裁……」
「ノンブル・ド・ラ・ベート!」
ライガは、ウカノフが術を発動する前に火属性の派生技を繰り出そうとした。
しかし、僅かに遅かった。初めて見る「影の部屋」の技だ。今までの「影」との戦いで見てきた「偽りの救世主」や「蒼褪めた馬」が、使用者の影を変形させるものだったので、これもウカノフの足元から放たれるものだと思われたが、それは考えが甘かった。
考えれば分かる事だった。今、自分たちが戦っているのは、ウカノフが既に展開した一面の「影の部屋」の作用範囲。それにカテゴライズされる技であれば、何処からでも襲い掛かって来る。
視界一杯に、焼き印で捺されたかのような「666」の数字が映し出された。それはライガの額に当たるや、そこから無数の頭を持つ獣のような光果を噴出させる。脳味噌が引き摺り出されるような激痛と頭の重さに、ライガは咄嗟に蹲って絶叫を迸らせた。
「トールスバーナ、サドンデス、プレーローマ!」
すかさず、ウカノフが距離を詰めて来る。ライガの額から現れた影の獣に向かって突き出した腕に、またあの赤黒い泥のような毒液が纏わる。
あれを、こちらの体内に流し込むつもりだ。ライガは手を上げ、斬撃術で額の獣をすっぱりと斬り落としたが、ダメージは大きかった。
額が熱く、汗が滲むような感覚があった。しかし、それが霙の如く重々しい落ち方をしたところで、汗ではなく血液である事を理解する。恐る恐る手で触れると、眉間の骨の一部からぐしゃりと嫌な感触が伝わった。
骨が抉られている。あと数センチ奥で炸裂していたら、ダメージは脳に到達していた。ウカノフはこちらを、自身の「灰」の作用を持った毒で仕留めねばならないので実際にはそのような事をするはずはないが、それでも恐怖が顔を出すのは如何ともし難い。
立ち上がらねば。また、「再誕」と物体操作術の併用で逆流させる事は難しい。それをしても、ウカノフがそれを放っている掌をこちらに押しつけてきたりしたら一巻の終わりだ。
ライガはぐっと唇を噛み、左腕の袖で眉間の抉られた傷を抑え込みながら、意を決して早口で唱えた。
「世の陰に在りし隕命の眷属よ、我が招きに応じて死地に集え!」
「何と──」
「シュラ、来い!!」
──これこそ、惨い事だ。しかし、今ウカノフに対抗出来るのは彼しか居ない。
ウカノフの手が座り込んだこちらの額に触れかけた時、丁度障壁因子が現れるように、その掌の前に招喚魔術の魔方陣が展開した。その中から、死天使シュラ・イスラフェリーがぬっと姿を現す。




