『リ・バース』第二部 第9話 Pleroma④
はっと気付いた時、「幻」が始まる前、自分が足を踏み入れた深淵がまだそこに口を開けていた。しかし、それは最早こちらを招いた時のように、「地下」の景色を全て覆い隠す程に拡大してはおらず、むしろその時とは逆に徐々に収縮し、最初と同様に再び人型へと収束しようとしていた。
それが完全に「影」の黒衣の姿に戻った時、彼らのトレードマークである髑髏の仮面だけは再び出現しなかった。被ったままのフードの中に、服だけを残してそれを着ていた人の肉体が消滅してしまったかのようにぽっかりと虚無の闇が見えた。しかしそれは、真に虚無ではなく、ライガが踏み込んだ深淵のように絶えず膨張と収縮を繰り返していた。
無があった。目に見えない、実体のない正体不明のエネルギーの集合が、そこで何とか人の形を維持しようとしているかのようだった。
咄嗟に臨戦態勢を取る事も忘れ、ライガはその闇を覗き込んだ。
その姿が見えない時から感じていた、深い牴牾を孕んだ”怒り”の本源が、そこにあった。ライガも、先程から自らの内に生じている焦れったいような怒りは依然去っていなかったが、深淵のそれの激しさにははっとした。
──プログラムは、自然現象ではない。自分たち人とは遥かに次元の違う高位に位置する存在ながら、それは独立した主体としての性質を、人格──語弊はあるが便宜上あえてそう呼ぶのであれば──を有している。
それが感情を持つ事は、おかしな事でも何でもない。
元々、言葉を欲するような”欲求”が、基底の性であるくらいなのだから──。
「ならば隕命君主よ、其方の問いに答えよう」
型で抜かれたような「影」の姿を取ったそれは、溢れ出しそうなその”怒り”を呑み込むように声に微かな震えを帯びさせ、再び言った。
「ジオス・ヘリオヴァースの運行を司るプログラムは、世界のあらゆる事象を端末とし、この一つの宇宙、時空間の全てを現在同時に体験中だ。そして破戒僧正は、遂に逸脱者となった」
デビル、と、ライガは小声で繰り返す。「影」となっていたジェムシリカが人格を剝奪され、現在目の前に居る個性なき姿の何者かへと変じた時、プログラムと思しき声が告げた言葉だった。
「不死者としての理のみならず、既にプログラムそのものの手の及ばぬところまで行ってしまった。最早、冥界の女王をこうして還元したように、あの男を従来の運命へと修正する事は能わない」
「待てよ、それじゃああいつが──あいつも『影』だったって言っているみたいに聞こえるぜ」
ライガは自分で言った言葉ではっと気付く。
本当に「影」が、プログラムの業によって生み出された存在ならば、それらの固有降霊術である「影の部屋」を、何故ウカノフが修得しているのか?
少し考えれば、単純に理解出来る事だったのではないか?
「あの男にプレーローマの術を持つ事を許してしまったのは、完璧ならざるプログラムの落ち度だった」
声に、慙恚のような調子が混ざった。
「かつてプログラムに過渡期をもたらしたあの男に、その変化を啓示する事で自身が何を行ったのかという事を知らしめるはずだった。『地下』を訪れる為の術も、その際に彼の魂に刻み込んだものだ。
しかし、何故理がそのように変じねばならなかったのかを知って尚、あの男は己の行いを顧みる事をしなかった。否、周囲がそれを許さなかった。隕命君主、其方と同じように、循環する有限の魂が須らく迎えるべき死すらも」
「何の為に?」
ライガは尋ねる。まだ、滔々と語られるその全ての事柄を消化出来た訳ではなかったが、今の部分には何やら引っ掛かるものがあった。
「俺と同じって……」
第二の疑問を発し終える前に、声が最初の問いに答えた。
「争わずにはいられない人の性の為だ。しかし、あの男のみが足掻こうとも、人の子一人の力には限界があった。死すら許されず、来るべき時の為に畢生の継続を強いられた彼は、旧時代の最後の裔として今度こそ静かに、誰にもその最期を知られぬまま生涯を閉じるはずだった。
だが、彼が──まだ破戒僧正という名で呼ばれていなかったあの男の魂が、連続性を断たれずに過去世からの転生を果たしてしまったが故に先天的に負う事になった大きな罪業を払拭出来ぬまま、煉獄に向かう事がほぼ確定した段階になって、偶然が悪さをした。彼は不死者となり、然る後逸脱者となり……そして、遂に破戒僧正となったのだ」
「それは、つまり」
そこでやっと、ライガは彼の正体に気が付いた。
ウカノフは、非忘却者だ。
今し方、「周囲が彼の死を許さず、畢生の継続を強いられた」と語られた事を鑑みるに、正確には境界転生によって強制的に呼び戻された魂なのだろう。だから、声は彼について、ライガと同じだと言ったのだ。
(それじゃあ……)
──ウカノフは、一度は「周囲」から望まれた何らかの悲願を、達成し得ぬまま二度目の死を迎えるはずだったという事か。
──ならば、そこで「偶然が悪さをした」とは?
「『審判の七日間』にて発生する、プログラムの欠陥。それは、境界にある魂に生涯最後の奉仕を可能とする降霊術の存在を、人の世の秩序に許した時点で一定確率で起こり得ると割り切らざるを得ないものだった。
しかしその結果、あの男は再び求められるようになり、不死者となりながらその後の世界に仇成す存在となった。それと同じ事を、隕命君主、彼らは其方に対しても強いようとしている。それに対してプログラムが採り得る対処方法は、全てが対症療法にならざるを得ない」
そう言うや、眼前の「影」は両腕をこちらに伸ばした。
それは、ジェムシリカが変異を起こした時のように、左右どちらも鋭利な漆黒の剣となっていた。
「だから俺を──あいつと同じように境界転生で蘇って、これまたあいつと同じように『影』にされようとしている俺を、あんたは手遅れにならないうちに殺しておこうって判断した訳か」
ライガは呟き、小声で詠唱した。
「マニフェスタテイル」
深淵に踏み込んだ時、いつの間にか消滅していた生成魔術の剣を、もう一度作り直す。それを構えながら自らの体を見下ろした時、あまりにも大量の情報をやり取りし合っている間に意識から欠落していた傷の痛みが再び思い出され、実感されるようになった。
回復魔術で応急処置を行い、出血を止めていただけだ。貧血傾向が改善された訳ではなく、このままの状態でまた血が流れ出せば今度こそ危険だ、という事は自覚している。
しかしライガは、更なる敵対行動と相手に認識されるのを承知の上で、新たに生成した仮初の剣の切っ先を真っ直ぐに向けた。再び変身し、生前の姿に戻る。
「生憎だが俺は、ウカノフにもイスラフェリオにも利用される気はねえよ。一回死んだ俺が蘇らされた目的が何だったにせよ、むざむざ抵抗もせずに誰かの道具になったりはしない」
ライガは、啖呵を切るように言い放った。
「誰も、自分から生まれたいって望んで生まれて来る訳じゃない。今蘇った俺も同じだ、二度目の人生なんてチャンスを貰って何の為に生きるのか、決める権利は誰でもない、俺にあるはずだろうが」
「だが、其方が望まぬ干渉を受けずに生きる事は出来ない」
「だったら俺が、あいつらを倒せばいい。それなら、ウカノフに手を出せないあんたにとっても好都合だろ?」
一瞬、眼前の「影」のフードの中に蟠る闇が膨れ上がり、溢れ出しそうになったのが見えた。
「其方が第二の破戒僧正とならないという保証は、何処にある?」
「……なるほど、そういう事かよ」
ライガは剣を構えたまま言う。
「あんた、恐れているんだな? 神だか超越者だか知らないが、自分が定めたルールの癖に、その上で生きる人間の事を本質的に信じられていないんだろ?」
「………」
沈黙したまま、「影」はそこに佇み続ける。しかし、冷たい怒りと殺意は依然ひしひしと感じられた。
ライガは、自分がこれから再びその洗礼に晒される事を回避出来るとは思っていなかった。だから、自分の今口にしている言葉の数々は、プログラムに自分の排除を思い止まらせる為のものではない。
ただ、言いたい事、言わねばならない事を言うつもりだった。
「ウカノフが、あんたと同じ理の力を得たっていうなら……」
「思い上がるな、隕命君主。其方の力が如何に強大であろうとも、人の範疇の内では超越者には勝てない」
「だからそうなる前に、人の範疇にあるうちに倒しておこうってか」
ライガは言うと、ほぼ予備動作を見せずに飛び出した。最小限の動きで右足を後方に引き、強く地面を蹴る。黒曜石の床から、鋲打ちブーツの擦過によって小さな火花が散った。
「勝てないかどうかは、あんたで試してやる!」
剣を振り被ると、「影」はあらかじめそう決められていた動きをトレースするかのように、淡々と迎撃の構えを取った。
──お前の為にも、ちゃんと生きてやる。
二度目の生を受けた自分が、リクトに言った言葉が思い起こされる。今の自分はそれを遂行する為、こうしてプログラムによる裁断を否定しようとしているのだ、とライガは思った。
ライガは仮想物質の剣に感応を込め、超越者の意思を宿す「影」へと真っ直ぐに肉薄して行った。




