『リ・バース』第二部 第9話 Pleroma②
② ライガ・アンバース
異空間「地下」から踏み込んだ、更なる深淵の闇が唐突に晴れた。
それがあまりにも急な変化だった為、ライガは反射的にうっと呻き、ガラルのものである小さな手の甲で廂を作りながら目を細めた。
瞳孔の開き具合が適切なものになると、急に目の前に現れた光景が徐々にはっきりと見えるようになる。景色が見えるようになると同時に、音もまた耳に届くようになってきた。
しかしその音もまた、厚い硝子壁を間に挟んだかのように、半ばくぐもって聞こえた。あたかも、自分の居る場所とは異なる遠い世界で──本来、自分が居ないはずの場所で起こっている出来事であるかのように。
或いは、実際にそうなのだろう。ライガが今目にしているものは、戦場の光景だった。森を抜け、高台へと攻め上る大勢の兵士たち。あちこちで上がっている火の手と黒煙。
その場所には見覚えがあったが、高台の上に聳え立つ”街”が違った。
「ユークリッド……?」
呟いた自分の声だけが、一切に不明瞭な雑音の掛かった世界の中で、やけにはっきりと聞こえた。
そこは確かに、現在ユークリッドのある場所だった。兵士たちが抜けて来た森は現在のホイヘンスだろう。しかし、高台に見える城塞都市の外壁は現在の玄武岩ではなく、煉瓦だった。
城壁の上に、不織布の軍服や革鎧を纏った男たちが集まり、銘々に弓に矢を番えたり、魔術を放とうと掌を突き出したりしている。陣鼓の音が鳴った、と思うと、そこで一斉に八属性の光が閃滅した。
ライガの立っている場所は、森を抜けて、緩やかな上り勾配の始まっている所だった。やはり自分がそこに居ないものであるかのように、こちらの体を攻めの兵士たちが次々と通過して行く。今まさにその中の一人が通過しようとした時、その上体に城壁の上から放物線を描いて降り注いだ火球の一つが命中し、爆発音と共に鉄の鎧諸共火達磨と化さしめた。
ライガがあっと声を上げ、反射的に身を引いた時には、半ば炭化したその兵士の体は地面に俯せに倒れ伏していた。
この距離で、恐らく今し方の火球の大きさから見て火属性文法最高技「審判」ではない「炎の弾丸」であろう攻撃を放ったにしては、それは凄まじい威力を誇るものだった。
たまたまセンスが秀でた者が居たのか、と思ったが、よくよく周囲を観察してみると、他の場所でも明らかに自分の知っているそれらの平均的な威力よりも高出力の技が炸裂していた。現在攻めの兵士たちが陥落させようとしている都の防衛部隊は、そもそもその「平均」自体が極度に高いらしい。
中には、左右の手で同時に二属性の文法を放っている高位者も少なからず含まれていた。同時にという事は、片方、もしくは両方の技を無詠唱で放っているとも考えられ、一層彼らの魔術的なセンスが卓越したものであるのかが窺える。高位者は珍しいという程のマイノリティではないが──ライガのように、訓練を積んで後天的に生来の適性属性以外の技を修得する者も居る──、通常これ程大勢が集まって出現する事はない。
ライガはそこでやっと、彼らが何者であるのかを察した。
同時に、この戦いがいつ行われたものであるのか、という事についても。帝連の民であれば誰でも知っている初歩的な歴史の知識だ。
這い登って来た鼠が払われるように、先陣の兵士たちはたちまちのうちに蹴散らされた。ライガは無意識のうちに、手に汗を握ってその様子を見守っていた。
しかしやがて、森の方から打楽器のそれと思しき旋律が響いて来た。
振り返ると、果たしてそこには太鼓を前に抱えた兵士の一団が現れていた。現在の帝連軍の楽隊に相当する者たちなのだろう、音頭を取るかのように、最初に打楽器を持った者たちが五人ずつ横に並び、更にその後ろから、弦楽器、管楽器を手にした者たちが左右に両翼を形成して続いて来る。
先陣の五重奏が、兵士たちの最前列で空中に半透明の波紋様の膜を、あたかも魔物が魔除け結界に触れた時のように展開した。城壁の上からの攻撃は、一瞬警戒したように止み、その後再び、未知なる攻撃を力で押し切ろうとするかのように一層激しさを増して雨霰と降り注いだ。
しかしそれらは、先陣の打楽器奏者たちが展開した薄膜に当たると、そこで炸裂するでもなく、水溜まりに落ちた雨粒の如く波紋を生じ、呑み込まれるように消滅していった。
その後、続いて来た弦、管楽器部隊の者たちが色とりどりの五線譜様の音霊を射出する。今し方敵からの攻撃を呑み込んだ薄膜だったが、それは裏側から味方が放った反撃を通過させ、城壁の上まで送り出した。
爆発音を響かせ、高位者たちの姿が土煙の中に見えなくなった。同時に悲鳴や呻き声も少なからずその中に混ざる。
「旧王朝の時代──」
あの機械質な声が、この世界での自分の声と同じく雑音なしにはっきりとライガの耳に届いた。
何処だ、と思い、周囲を見回したが、あの冥界の女王と呼ばれていたジェムシリカの変じた「影」の姿は見えなかった。声も、実際には遠い場所から聞こえているのか、近い場所からのものなのか判断がつかない。
強いて言うのであれば、それはライガ自身の頭の中に、直接聞こえてくるかのようだった。ライガはその事で、声の主が何処に居るのかを探す事は諦め、城壁の方に向き直った。
「優に二千年に渡り、大陸の文化の中心にあったビャルマ族王朝バルドバロアは遂に倒れた。隕命君主、其方が今見ているものは、帝国の建国戦争末期、都の攻略が行われた時の出来事──一つの時代の盈虧だ」
「って事は、これが……」
ライガは呟く。目にしている光景の内容ではなく、この光景そのものに対して呟いた言葉だった。
「これが、プログラム──あんたから啓示を受けた霊媒師が見るっていう『幻』なのか? 理の、世界そのものの記憶……?」
「旧王朝バルドバロアは、当時は小国であったソレスティアの進んだ降霊術によって滅ぼされた。しかし、当時からビャルマ族の中に、高度な降霊術を使用出来る者が存在しなかった訳ではない」
「それが、例えばアリフ・ジークだったりした訳か」
会話が成立しているのかは分からなかったが、ライガは自分からも言葉を発する事をやめなかった。
相手は、人智を超えた存在だ。霊媒師に、自らに基づいて動く人間に一方的に言葉を届けるだけで、こちらから意思を通す事は能わぬ存在。しかし、自分はそのような事は認めない。
神的な存在は居るとしても、自分たちはその玩具ではないのだから。
「アリフ・ジーク・バルドバロアは、それまでにも世界に存在し、ある種の脅威ではありながらあくまで人の定めし法規として禁術とされていた死霊化術を、真の意味で理が定めし最高クラスの罪業に変えた。隕命君主、いつかの其方が言っていた通りの事だ」
「俺が?」
「虫にも草木にも、人間が肉眼では捉えられない細菌にすら、魂は宿っている。有限とはいえ、その数は限りなく無限に近い。一人か二人の死霊化者が多少それらを減らしたところで、目に見える速度で世界が終焉に向かう訳ではない。無論、人の手によって魂そのものを消滅させる術を編み出す事を可能としてしまったこちらにも、問題はあったが。
しかし、アリフ・ジーク・バルドバロアは違った。奴が現れた為、魂の総数は過去にない程の速度で減っていった。それでも世界全ての滅亡を彼一人が誘発するには程遠かったが、もしもこれを看過すれば、同様の存在は未来でも無数に生まれ、少しずつ絶対的な破滅に世を導いて行く事になる」
ライガは顎を引き、考える。
善悪の判断基準は個人によって異なるし、あらゆる法は人の手によって生み出されるものだ。あえて基準を作り、法に背いた事柄を「悪」とする、と定義しようとしても、死後の審判にも直接関係する罪業が、それによって定められていたのでは何処か辻褄が合わない感じがする。
では実際に、条文のある「法律」を犯した人間に、運命石の濁りによって可視化される罪業が発生するのはどういう事か、という話だが、これは本当は前後の順番が逆なのだ。即ち、ジオス・ヘリオヴァースに於けるあらゆる法律は、あらかじめプログラムが「これを犯せば罪業を科される」と定めた事柄に基づいて規制事項が決められているという事だ。
では、その中で死霊化術の場合は──。
「プログラムは移ろい、人の手によって暴かれた欠陥を修正せねばならなかった。世界から絶対なる破滅の可能性を、それがどれだけ小さなものだったとしても除き去る仕組みを用意せねばならなかったのだ」
声が言った時、また唐突に目の前の景色が揺らいだ。
一瞬の闇を経て、変化した場面が現れる。今度は、狂乱の叫びを上げながら市街地で暴れ回る無数の生ける屍の姿だった。使役術も施されていないのだろう、それらは兵士、民間人を問わず無差別に人々に襲い掛かっては、噛みつき、またその鋭い爪で肉を切り裂いていた。
これが「地獄の季節」の光景なのだ、と思った。戦が終わり、生ける屍のうち倒されなかったものが帰らずの地に放逐され、そのまま約一世紀に渡って怨念を増大させながら生き長らえていた事を思うに、アリフはライガの率いていた「魔群」に相当する怨霊の集団を生み出しながら、それをばら撒くだけばら撒いてその後は管理する事をしなかったらしい。
──否、ややもすると、出来なかったのかもしれない。
ライガがオムグロンデュを用いて一対多で使用する術を編み出した死霊化術は、対象の魂の怨霊化と同時に使役術も施すものだ。ガラルの肉体を借りて復活した今の自分にオムグロンデュはなく、それでも使役術を使用する事は出来るが、あくまでも最初は魔導具を用いての魔術だった。
帝暦紀元前の当時は、まだ死霊化術に「使役」は含まれていなかったのかもしれない。しかしそれが、却って「地獄の季節」を真に「地獄」たらしめたという事ではないか。
「霊魂、霊力とはエネルギーの塊だ。魂の材質と呼ばれるその構成エネルギーは降霊術として放出されると、効力を発揮した後、霊力の元となった魂に還元される。魂の塊そのものが崩壊する事のないよう、そうなっている。しかし、死霊化術はこれを再生不能な程に切り刻む事で、魂の本体そのものを”作用”に変換可能なエネルギーと見做してしまう。
しかし、これはある意味で、解釈の盲点だ。死霊化術により、怨霊化され、魔術の媒体とされた魂は、魂というものとしては消滅するが、それを構成していた魂の材質は粉微塵の残骸として未だに世界に存在するのだ」
一瞬理解に困ったライガだが、すぐに「ああ」と納得する。
薪を燃やせばそれはなくなるが、後には炭や灰──薪だったもの──が残る。水は放置すれば蒸発するが、水蒸気は依然として大気中に存在する。あまりに細かくなりすぎたので、なくなったように見えるだけだ。
「最早一個の霊魂たり得ぬ程細かく切り刻まれた魂の材質を、プログラムが回収して再び練り直し、結合させたものが不死者だ。そして、それを生み出す為の場所として天地と同様に作り出した世界が、この『地下』なのだ」
「不死者……」
ライガは、その言葉を繰り返す。
「それが、『影』の正体か」
──全ては、未だに完璧な世界は構築されている途上にある為。
自分にこの「幻」を見せる前、個別化されて生前のジェムシリカの人格を復活させられていたあの「影」が、プログラムを代弁する端末となってこちらに伝えてきた言葉だ。
ライガは今、その意味を真に理解した。死霊化者アリフが「地獄の季節」を引き起こし、未来に同様の存在が繰り返し出現する事で世界滅亡の可能性を感じ取ったプログラムが、新たな秩序を構築した。死霊化術を使われた魂は完全に消滅するのではなく、「影」として復活する、と。
「不死者は、現実世界に浮上して命を落とす事により、再びその魂を境界へと還元させる事が出来る。そして、再び転生の輪廻に取り込まれるようになる。また死霊化術で殺害された場合は、魂の分解と再構築を経て同じく『地下』で目覚め、次の機会を待つ事となる」
「……それが、ジェムシリカの言っていた『善逝』ってやつだな」
それは、一度は転生の理から逸脱した魂が、再び本来在るべき理の内に戻る為の死を意味する言葉だった。




