『リ・バース』第二部 第8話 Young Lion④
④ アウロラ・ド・ゲネラッテ
「そうなんだ、年明け早々に……」
アウロラが呟くと、マロンは「ああ」とやや愁いを帯びた声で応えた。
「やっぱり、どうしても考えてしまうよな。ジフト戦役の直前、旧ランペルール製の魔導具が各地の魔物を活性化させた、っていう……だが、決してそれ以前も、このような事がなかった訳ではない。むしろ、俺たちが生まれてからはずっと、騎士団の役割はそういった魔物を相手にした戦いだったはずだ」
忘れてしまいがちだけどさ、と彼は言った。
十二月三十日、大晦日前日。
アウロラとマロンが居るのは、自分の私室だった。カレンデュラは現在、獅子宮に出向いて後輩ペネロープ・イタキの指導を行っている。ペネロープの行儀見習いの課程は修了し、二年前から既に正式なメイドとして使用が決まった彼女だが、まだまだ駆け出しであり、学ばなければならない事は多い。
カレンデュラは依然、彼女にあれこれと世話を焼いているが、最近では他の業務がない時にちらりと彼女の元へ顔を出す、という程度になってきているらしい。現在カレンデュラが彼女の所へ行っていて居ないのは、アウロラとマロンが自室で二人きりになる為の配慮だった。
アウロラはその事を分かっており、言葉には出さないながらも彼女の気遣いに感謝した。
「俺も、出来れば年明けは君と一緒に過ごしたいと思っていたんだが」
ごめんな、と手を合わせるマロンに、アウロラは慌てて両手首を振った。
「仕方ないわよ、任務なんだから。現地では、今でも困っている方々が居るんだろうし……だけど、旧ランペルール領かあ。ジフト領になっていた地域の、中心中の中心って感じね。気を付けて」
「大丈夫さ。今回指揮官を務められるのは、副騎士長のウィーズル殿だ。他にもトリュフォー殿にポピュレーター殿、ファタリテの主力は大抵参加する。北方に駐箚されているハント殿らも協力して下さるそうだ」
「そんなに──」
アウロラは、やや疑問に思って独りごちた。
「そんなに大掛かりなのに、ロディ騎士長は赴かれないのね」
「……父上にも、色々と他の業務がある」
マロンはやや早口で言ってから、「それより」と話を替えた。
「俺への話というのは何だったんだ? 二人きりで話せる場所なら、他にも幾らでもあっただろう?」
本当に自分がここに居てもいいのだろうか、というような、そわそわと落ち着かない様子で彼は室内のあちこちに視線を彷徨わせた。
七月末、ヴァイエルストラスでの一件があってから、マロンは今まで抑圧していたものが吹っ切れたかのように、城内でアウロラを見かける度に声を掛けてくるようになった。それまでは部屋に籠りがちだったアウロラの方でも、彼と話す機会が生じるのを楽しみにして外を出歩く事が増えた。
面と向かって、本心で彼と話を──真面目な話ばかりでなく雑談なども──出来るようになると、彼が思いの外気さくで、ユーモアもある性格なのだという事がよく分かった。その一方で、これもまた思いの外、名実共に”恋人”となったアウロラのふとした仕草にどぎまぎするような初心なところも見られた。
自分たちは、姉シアリーズやリクトやライガがそうしていたように、天秤宮のバルコニーや庭園で会い、話をする事が多かったが、一度もアウロラが彼を自室に招いた事はなかった。
それは、プライベートな用件であれば、姉とリクトも同じ事だったが──。
「その……ね、マロン」
今回は、アウロラの方からマロンを呼んだ。
これは別に、未だに彼に消極的なところがあるとか、怯懦が彼の中で勝っているとかいった事を殊更に意味するものではない。どれだけ親しくても、婚約が成立していても、アウロラは皇女だ。特段の用事もないのに呼びつけにするような事は、彼には出来ない。これは、リクトやライガから、仲のいいシアリーズに対してであっても同様の事だった。
「まず、今年はどうもありがとう」
ソファから立ち、ぺこりと頭を下げると、マロンは戸惑ったように怪訝な表情を浮かべた。
「どうしたんだ、急に畏まって?」
「いえ、あなたが──マロンが、私に向き合ってくれた事。私、今年は何よりもそれが嬉しかった」
「いやいや、そんな……感謝なら、それをすべきはライガにだ。自分の事しか──いや、自分の事すら見えていなかった俺に、目を覚まさせてくれたのはあいつだ。俺こそ君には、酷い事をしてきた」
「それはもう、お互い言わないお約束だったでしょ。私はただ、ありがとうって言いたいだけ。……それでなんだけどね、マロン。私たち、その……もう、本当に恋人同士、な訳で」
勇気を出して彼を呼んだはいいものの、やはりどうしてもいざとなるとそれが萎んでしまう。しかし、アウロラは自らを心の中で叱咤激励し、やや声量を落としながらもきちんと口に出した。
「ああ──」
「だから、その……えっと。……キスとか、今年のうちにした方がいいのかな?」
──我ながら、間の抜けた言い方になってしまった。
マロンは、呆気に取られたように口をあんぐりと開け、腰を下ろしたままこちらの顔を見上げている。途端にアウロラは、羞恥心のあまり顔が耳まで真っ赤になるのが分かった。
「ごめん! やっぱり今の──」
「いいよ」
忘れて、と取り消しの言葉を口にしようとした時、マロンが言った。
もしかしたら、アウロラが部屋に呼んだ時点で薄々何かが起こるとは察していたのかもしれない。自分でも、ここまで思わせぶりな誘い方をしておいて彼が何も勘づかない訳がないと思う。むしろ、察して欲しい、というややずるさを孕んだ匂わせ方を行った、という自覚はある。
「……いいの?」
「ああ」
マロンは立ち上がると、真っ直ぐにアウロラの頰に手を伸ばした。
心の準備などをする間もなかった。彼の顔が視界一杯に映し出された、と思った矢先、アウロラは唇を奪われていた。
冬場だからか、彼の唇はややかさついていた。触れ合う一瞬、心臓がどくりと大きく拍を打ち、アウロラは咄嗟に目を瞑った。
数秒間の後、マロンはゆっくりと顔を離した。
「……別に、特別な意味を持たせるような事じゃないさ」
言い訳をするように、彼は若干早口で言った。「誰だってやっている。オルフェだって、最近紅潔伯の紹介でドラシルの娘と正式に付き合いを始めたらしい。それに比べたら、俺が──俺がちゃんと告白して、君がそれに応えてくれた時の方がよっぽど特別だ」
極まり悪そうに視線を逸らす彼の表情は、以前のままの彼であったら「憮然としている」という捉え方をされたであろうものだった。
しかし、アウロラには、今彼が気恥ずかしさを押し殺す為に必死になっている事が痛い程よく分かった。
「そうね。だから、これはまず通過儀礼みたいなもの」
アウロラは言ってから、もじもじと指先を動かした。まだ彼の温もりの残っている下唇を、味わい直すように無意識に噛んでいた。
「マロン……続きもしたい?」
ぽつりと零し、すぐに首を振る。
「いえ、違うの──いや、違くはないんだけど……どうか、私を蓮っ葉な女だ、なんて思ったりはしないで。だけどもし、あなたがちゃんと、確かめておきたいって思うなら」
「確かめる?」
「私が、ちゃんとあなたの事が好きだって事」
「それは、分かっているつもりだ。……いや、そうだな。本当は俺に、そんな資格がない事は理解していた。しかし君は、あの時点で既に、俺に言ってくれたから……今みたいに」
マロンは、言葉を選ぶようにしどろもどろになる。
言わんとしている事は分かった。あの時──ヴァイエルストラスでのマロンの言葉を、アウロラは今でもはっきりと思い出せる。
──今、愛してくれとは言わない。俺に、そのような事は言えない……だが、いつかきっと君がそう思えるように、俺は頑張るから。
(あれは、マロンの”宣言”だった)
アウロラはあの時、まだリクトを愛していた。
けれど、それでもマロンの事を好きになれるかもしれないと思っていたのは──即ち、彼が好きだという気持ちの端緒が既に萌芽していたのは事実だ。そして今、それは成長し、本当に彼を愛する気持ちへと変化した。この事は、自信を持って断言する事が出来る。
しかしマロンの中では、アウロラの気持ちは分かっていながら、まだ彼自身が自らを許しきれていないのだろう、と思う。それが無意識的に、まだ自分は本当にアウロラから愛されていいのだろうかという気持ちになり、その結果、それが「アウロラは本当に自分を愛しているのだろうか」という心配に変形している。だから、今の彼の中には、アウロラの一途さを信じる気持ちと、自分がアウロラから本当に愛されているのかという疑問の、一見両立しないかに思われる思考の共存を可能にしてしまっている。
アウロラはそこまで思ってから、ふと、自分はこれ程までに他人の複雑な心理を慮れる──理解出来る、というのはあまりに傲慢なように思うのであえてそのようには言わない──人間だったか、と考えた。
いや、もしくは、相手が彼だからここまで考える事が出来るのかもしれない。
(もしも私が、これで彼の心配を──罪悪感を消してあげられるのなら)
アウロラは考えてから、実際にはそれすらも言い訳か、と思った。
内心では少し、彼に抱かれる事を──女として扱われる事を、他でもないアウロラ自身が期待していた。
「……駄目だ!」
羞恥、仄かな期待、後ろめたさ──それらの混在しているような表情を湛え、葛藤するようにその場で指先をもじもじと動かしていたマロンは、やがていいとも悪いとも言わずに、自分からアウロラに向かって右手を伸ばしかけた。
が、すぐに彼はその手を下ろした。
「マロン?」
「駄目だよ。俺たちはまだ、婚姻を結ぶ前だ。いきなりそんな事をしたら──既成事実を作ったら、何かあった時に醜聞の中心になるのは君だよ」
マロンの言葉は切実だった。
たとえ自分たちが、自分たちのそれぞれの肩書きや立場を超越して愛し合う関係になったとしても、だからといって完全にそれらから解放され、何者でもない男と女になれる訳ではない。アウロラは依然、現在の帝連の最高指導者たる皇帝フレデリック二世の次女だ。
アウロラも、忘れた訳ではなかったが、
「それこそ、特別な事じゃないでしょう? お祖父様なんて、第一間征期の頃はしょっちゅう城下に出て、歓楽街で女遊びをなさっていたとか」
直ちに引く事はしなかった。
「それに、お姉様だって……」
「シアリーズ姫が?」
マロンは何を想像したのか、やや体を強張らせる。大体予想はつく。彼女の相手が堅物のリクトであるだけに、まさかそんな、という気持ちが生じたのだろう。
「ほら、リクトが……お姉様の感応の移植を行った時」
「ああ……それか」
マロンも、詳細の語られなかった感応移植術の内容について、薄々察してはいたのだろう。やや気まずそうな表情になってから、何処か安心したようにほっと息を吐き出す。
「それは、別に関係ないだろう? 手術をする時に服を脱がせるようなもので」
「だけど──」
「彼らの事だ、きっと媒介を作る以上の事はしていないだろう」
マロンは言ってから、「アウロラ」と呼ばいながら、こちらの両肩に手を置いてきた。両目を、覗き込むように真っ直ぐ合わせる。
「いいんだよ、アウロラ。接吻をする事も、その先も、多分、俺たちが十年以上掛けてやっと今のような関係になれた事に比べたら、確かに特別な事じゃない。けど、焦る必要はない。特別じゃない事だって、俺たち次第で幾らでも特別に出来るさ。これからな」
そう言う彼の微笑みは、やはり少し無理をしているようだった。
それが何に対する「無理」なのか、アウロラにはよく分からなかった。
「来年の四月、式を挙げたら──またキスしよう、アウロラ」
マロンは言い、小指を差し出してきた。
二十代になった自分たちがするには、やや子供っぽい仕草だ。アウロラは思わず小さく口元を綻ばせてしまう。
同じように小指を差し出し、マロンのそれと絡め合わせながら、アウロラは「もう一つだけ」と言った。
「もう一つだけ、お願い。北での任務から帰って来たら、その時もして」
「アウロラも甘えたがりなところがあるよな。……分かった、そうしよう」
マロンは再び微笑み、肯いた。
今度は、無理をしているようには見えなかった。




