『リ・バース』第二部 第5話 Ereshkigal④
「癒しの風よ、大地にそよ吹け……エアリーウェーブ」
貫かれた左掌の傷に応急処置を施し、ジェムシリカと再度向き合う。彼女は徒手空拳となった両手を上げ、あたかも降参するようなポーズを取っていたが、本当はそのような気などない事は自明だった。
「相変わらずのセンスだな、ライガ・アンバース……しかし、まだこちらには死霊化術が残っているぞ」
「それは俺も同じだ」
それで戦いがリセットされる──彼女がまた復活する──可能性がある以上、実行する気はなかったが、はったりとして言う。彼女が自らの「影」としての性質を知っているのであれば脅しにもならないが、この戦闘を終わらせるという事だけに限っていえば、それはウカノフからの命令の失敗を意味するものになる。
ジェムシリカは、口の端を歪めて嗤った。
「今の私は、『影』のダン──『顎』の女王だ。冥王に授けられたかの忌まわしき力を、貴様と同等だと思うなよ」
「何……?」
「そもそも、貴様を史上最悪の死霊化者たらしめたものは何だ? 魂の怨霊化を一対多で行う事だろう? そして、それは貴様自身が行うのではない、魔導具たるオムグロンデュが実行するのだ。今それは、手元にないぞ」
確かに、彼女の言う通りだった。
次に取るべき行動を考える為の時間が必要だった。会話を少しでも長引かせたいところだが、何を言うべきか言葉選びに惑う。
ジェムシリカは、畳み掛けるように言ってきた。
「じきに冥王がやって来る。真っ向から戦えば私が彼に敗れる事はないだろうが、彼は我々を統轄する術を有している。ここで私一人を相手にして、能力で劣る貴様が彼と戦って目的を果たせるとは思えぬな」
「目的?」
鸚鵡返ししてから、わざわざ聞くまでもなかった、と思う。
「……そりゃそうだよな。ウカノフは、俺やリクトがガウスの件の続きを──聖体や『影』の情報を吐かせに来る事を読んでいた。だからこその、お前だ」
「私はやはり、貴様との因縁に決着を着けない限り、どれだけ貴様があの男に従順な人形へと変じようと、同志として快く同じ影の理を戴く事は出来ぬだろう。また私が役目を全うし、善逝を受容する事も能わぬだろう」
「善逝?」
また、見知らぬ単語が登場した。ライガは眉を潜めたが、ジェムシリカはそれには答えず先を続ける。
「冥王は、『灰』によって貴様を同志としようとしている。しかし、私はそれでは今一つ煮え切らん。実を言えば、私は以前程貴様や、今は聖光士と呼ばれているあのリクト・レボルンスを憎んでいる訳ではない。もしも貴様が個別化された同胞となって共にあの男の意思を遂行する同僚となっても、拒絶はしないだろう。それこそが、あの男の洗脳なのやもしれんがな。
しかし、その為には貴様には我々の事を知って貰わねばならない。この世ならざる異空間『地下』の正体についても」
言うや、ジェムシリカの足元で影が渦を巻き始めた。最初に彼女が現れ、自分をその中に連れ込んだ時のように。
ライガは腰を落とし、彼女がまたおかしな素振りを見せたらすぐに攻撃に入る用意をする。偽りの救世主に蒼褪めた馬、「影」の繰り出してくる広範囲かつ高威力の攻撃は幾つもある。
ジェムシリカであれば、こちらを意味ありげな言葉で揺さぶり、その隙に攻撃してくるといった事をする可能性は十分にあった。しかし、彼女はこちらが身構えるのを見るやふっと笑った。
「やはり、ブラフだと思っているな? 確かに私はこのまま貴様との戦いを引き分けで流すつもりなどないが、まずは場所を替えよう。冥王に指示された事とはいえ、最初からずっと思っていた……ここは悪臭が酷すぎる」
「何処に連れて行く気だ?」
ライガは、徐々に路地全体に広がろうとする影の流体を見回した。それに踝までが完全に隠れた時、ずぶっ、という沈み込むような感覚が生じた。
あたかも、闇属性文法の足止め技「絶望の深淵」に足を取られたかのような感覚だった。先程リクトから引き離された時に感じなかったのは、ジェムシリカに拘束された状態で、彼女に付き添われる形で引き込まれたからだろう。
今度は共連れではなく、彼女によって招かれた結果、そこに入る事を許されたようだった。そう感じた事には、転移した際、「弾き出された」という感覚があった事が関わっている。
あの時、ライガが感じたのは”拒絶”だった。そういえば、こちらに襲い掛かろうとする直前、ジェムシリカは「共感」に招かれる、という言い回しを使用していたような気がする──。
「恐れる必要はない、ライガ・アンバース」
ジェムシリカもまた、沈み込み始めていた。影の流体は路地のタイルの地面を覆い尽くすと、くすんだ膠灰の壁に囲まれた空間を徐々に満たすように”水位”を上げ始める。自身が沈み込んでいる事もあり、その速度は少しずつ上がっているように感じられた。
影が腹へ、胸へ、首へと迫り、口と鼻に及びそうになった時、溺れるのではないかという本能的な恐怖が生じ、ライガは咄嗟に息を止めた。
目も瞑り、暫らくそのままの状態を維持していたが、やがて限界を迎えて口を開いてしまう。だが、液状の影が肺へと流れ込んで来るような事はなく、しっかりと呼吸が成立した。
冷水を飲み下した時のような、硬質な石を口に含んだような味がした。まだ夏の暑さの残っていた外気が急に温度を下げ、工場から漂っていた油っぽい悪臭もすっと遠ざかる。足には地面についているようでいながら、まだ静かに下降を続けているような引力が残っている。
恐る恐る目を開けた時、最初は何も見えなかった。
自分の目がどうかしたのだろうか、と思ったが、そうではなかった。
黒色が見えた。闇に閉ざされていると思っていた視界が、実際には黒色という色を持った空間であった事を悟った。
そこは、何処までも続く、冷たく光沢のある材質の床の上だった。黒曜石──だがそれだけではなく、自然界ではまずそれに生じる事のないであろう色とりどりの宝石の捕獲岩が点々と埋め込まれている。それらには表面の光沢はなかったが、内側から発光しているような微光を帯びていた。
気付けば、その床に足が付き、落下感も収まっていた。ライガは自らの足を見下ろし、黒曜石に上下の反転した鏡像が映っているのを認める。
「何処だ、ここは……?」
呟いた声は、何処までも反響しながら闇の彼方へと呑み込まれ、遂に戻っては来なかった。
影の流体の中で溺れるのではないか、という恐怖は、今や異なる理由のそれへと変化していた。
「ジェムシリカ! 何処に行った!?」
一瞬──目を閉じてから、ここに辿り着くまでの一刹那──のうちに姿を消した彼女に呼び掛ける。いつでも魔術を放てるように両手を構えながら、方向感覚を狂わせる程に一様に同じ周囲に視線を走らせた。
死角から彼女に攻撃されたら、物陰に隠れるなどの回避手段はない。死霊化術で止めを刺すという形でならこちらを殺す事にも不都合はないと彼女は言っていた為、どれだけ早く反応して防御魔術を使用出来たとしてもそれが効果を持たない致死の攻撃がなされる事は、現状最も警戒すべき事だ。
引き込まれた瞬間、降霊術によって開かれる一時的な空間という事で”虚無”のようなものを──四方が闇に閉ざされていて何も見えない、など──を想像していたので俄かに混乱したが、ここはウカノフや彼女が「地下」と呼称していた異空間に違いない。
彼女がわざわざ、ここに自分を引き込んだ事が気掛かりだった。ジフト戦役での交戦を経、ジェムシリカが目的を遂げる為ならどのような手段でも使用するという狡猾さ、執念深さを有している事は知っていた。
彼女は「我々の事を知って貰わねばならない」と言ったが、それを字義通りに受け取る程、ライガは自らをお人好しだとは思っていない──。
「ようこそ、我らが出処へ」
しかし、その警戒を滑稽なものだと嘲笑うかのように、背後から届いたのは攻撃ではなく、何処か愉しむような響きを帯びた声だった。
反射的に、霊力を練りながら振り返る。
自分がそのような行動を取り、それが成立した事で、ライガはこの場所にも霊魂は存在する、即ち境界が重なっているという事を理解した。
この世ならざる場所──という言葉には、語弊があるようだった。正確には、人の世ならざる場所。この世界、ジオス・ヘリオヴァースの一部である事には間違いがないらしい。
そこに立っていた黒衣のジェムシリカは、
「相も変わらずせっかちな男だな、貴様は」
言い、丸腰である事を示すかの如く両手を上げた。
ライガは、放ちかけていた斬撃術を中断した。だが無論、嘲笑われようが警戒を解くつもりはなかった。
「降霊術の──『影の部屋』の作用か?」
声を低め、尋ねる。とはいえ、答えを待つつもりはない。
ライガは眼前の黒曜石の床に向かって右手を翳し、除霊術を使おうとした。
「だったら、これで解除出来るはずだな」
「無駄だ、やめておけ」
ジェムシリカは、上げた手をパタパタと振り、ゆっくりと下ろした。
「『部屋』はあくまで、この時空にアクセスする為の術に過ぎん。ここは冥王によって城としての運用が開始されるよりも前から、プログラムに縛られたこの世の暗部として存在していた」
「本にはそんな事、ちっとも書かれていなかったぞ」
「それはそうだ。言ったであろう、ここは我らが出処だと。いや、胎と言い換えても構わないな。本来は群体である我らの、個を有するに至るまでの宿り処。自らが自らを生み出す為の母胎……」
彼女は謎めいた言葉を紡ぎ続ける。が、それはウカノフのようにはぐらかしているというより、彼女自身もこの場所を正確に言い表す為の言葉に適偶出来ていないが故の言い回しのようだった。
「生まれ落ちた瞬間の事を、覚えている人間など居ないだろう。……いや、非忘却者などのケースもあるから一概には言い切れないが。少なくとも私は、この場所で覚醒した時の事を覚えていない。そもそも、『影』としての発生は、死霊化術によって砕け散った魂の材質をプログラムが練り直す事によって引き起こされ、その時点で生前の人格はないからな。私が冥界の女王として──ジェムシリカ・イスラフェリーとして目覚めた最初の記憶は、当然だがこの異空間の中であの男が眼前に立っているというものだった」
彼女はそこまで言うと、不意にぴたりと言葉を切って胸元を押さえた。眉間に、やや不快そうな縦皺が刻まれる。
「……なるほど、語りすぎという訳か。我々は未だに、プログラムの軛を逸脱しているとは言い難い。あの男が更なる盲点を突き、我々に死霊化術を刻み込んだ時点で大いなる矛盾は発生していたのだからな」
続いた彼女の言葉は、どうやら独り言であるようだった。
「死霊化術を軛の内へ併合するには、やはりプログラムもまだ時間が必要だと見受けられる……ふふっ、ざまを見ろといったところか。だが、そうだな──これ以上はまだ、客人に過ぎぬ貴様には教えられぬか」
「何だよ、それ?」
ライガは、こちらは疑問によって眉を潜める。ジェムシリカは、唐突に感じた不快感──胸苦しさだろうか──が去ったのか、息を一つ吐き、再びこちらに狐の如き嗤笑を向けた。
「残念なお知らせだ。貴様を『影』とする事の方を、説明より先に行わねばならないらしい」
「はっ、やっぱりそうなるのかよ」
ライガは自らに、落ち着け、と暗示を掛け続ける。
ガウスで植えつけられた疑問は、解消されるどころか増々膨れ上がった。ややもすると、そうしてこちらの集中力を奪う事こそがジェムシリカの目的だったのではないか、と勘繰りたくなる程に。
しかし、好機である事は確かだ。作戦開始時まで、ウカノフから直接全てを聞き出す事を目標にしていたが、搾れば情報を引き出せそうなのはむしろ彼よりも、今目の前に居るジェムシリカの方かもしれない。
リクトは既に、イスラフェリオと交戦を始めただろうか。ここでの時間の流れが一定ではない、という事だけが気掛かりだが──。
(今は、俺に出来る事をやるしかないよな)
「ライガ・アンバース! 互いの生前には叶わなかった良好な関係とやらを、ここで築こうではないか。不死者としてな!」
彼女が言った刹那、その姿が揺らぎを帯びた。
それは一瞬で元に戻ったが、その時には再び彼女の両手には、瑠璃色の双剣が出現していた。
黒曜石の床が、鋲打ちの軍靴に音高く蹴られる。こちらに肉薄して来る彼女を真正面から捕捉しながら、プログラムにとって死霊化術が実際に意味するところとはどのようなものなのだろう、と、ライガは今まで考えもしなかった事が胸中で頭を擡げるのを感じていた。




