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とある春の、憩いのひととき

読み終えたばかりの本を脇に置く。それから茉莉(まつり)は、膝の上に置いてある和柄の巾着袋の中からお弁当箱を取り出した。


茉莉が今座っているのは、学校の屋外非常階段だ。

今日は天気がよく、春風も柔らかい。ここでお弁当を食べるのには絶好の日。

昼休みのため、外からも校舎内からも生徒達の賑やかな声が聞こえてきてーー


「可愛らしい弁当」


突然、思いもかけず背後から話しかけられ、茉莉は驚いて振り返った。至近距離にあるーー壱和(いちか)の顔。いつの間にか、壱和が茉莉の後ろでしゃがんでいた。


「お嬢様なんだからお(じゅう)でも持ってくると思ったら、随分と小ぶりだね」

「……用意してもらえるだけありがたいので」


茉莉は呟くように言った。

茉莉のお弁当は、小さな曲げわっぱだ。

京華の方は壱和の言うように(うるし)塗りの立派な重箱で、私立中高一貫学校に通っている彼女が昼食用にそれを持っていった日にのみ、茉莉のお弁当も用意されている。

「やっぱり扱いはよくないのか……」

「え?」

ボソリと言った壱和に、茉莉は聞き返した。

「ま、何にせよ。これだけだったら、育ち盛りなのにいろいろと成長しないよ?」

そう言った壱和は、茉莉の胸の辺りに視線をやっている。

呆れて、茉莉はため息をついた。

「そういうこと、他の女の子達には言わない方がいいですよ?」

「心配しなくても、ちゃんと相手を見て言葉を選んでるって。茉莉ちゃんは別に気にしないでしょ?」

「……まるで私のことをよく分かってるみたいな口ぶりですね、沢渡(さわたり)くん」

茉莉の冷やかな目に、壱和が苦笑した。


「その呼び方はやめてほしいな」

「ーー茉莉っ!」


ドアが開いた後、現れた人物ーー風真(ふうま)が叫ぶように言った。購買や自動販売機で買ったらしいパンや飲み物を持った彼は、壱和を見据えて笑う。


「茉莉に何かご用ですか?」

「仲良くなりたいなーと思って、一生懸命アピールしてるとこ」


壱和もまた笑顔で返した。


「それにしても牽制(けんせい)すごいね、君。別に茉莉ちゃんのこと取って食うつもりないよ」


風真の目が笑ってないことに、壱和は気付いていたようだ。

「あなた……沢渡、君でしたっけ」

「そうだけど?」

「いつもあれだけ女子達が側にいるのに、茉莉にまで手を出さないで下さい」


強い口調で言って、風真が大きく息を()く。


「あなたのことは注意してたんですがーー」

「だから俺、害はないから。そんなこと自分で言う人間は、信じられないかもしれないけど」


風真の壱和を見る目は胡散臭(うさんくさ)そうだ。壱和が笑って流す。


「それより君、気負いすぎ。いくら君の立場上茉莉ちゃんのことを守らなきゃと言っても、ここ学校。普通にしてればよっぽどのことは起きないから」

「は……?」

「君が茉莉ちゃんに構ってる方が、いろいろ問題起きるだろうに。昔からそうなの? 嫉妬にかられた女子たちに、茉莉ちゃんいじめられてなかった?」

「それはどういうーー」

「ああ、そういうことがあったとしても君の知らないところでか。皮肉だね」

「壱和」


ぴしゃりとした言い方に、壱和と風真が茉莉を見る。


「風真とも仲良くなりたいんじゃなかった? 印象悪くしてどうするの」


言ってから、茉莉は少し怒った口調になってしまったことを後悔した。

一方で壱和はめざとく、自分の言ったことが茉莉にとって図星だったと気付くも、それ以上は追及しない。


「あ、確かに。ごめんね久世くん、ちょっと俺ヤな奴だった。まずったな」


バツが悪そうに壱和が言ったのに対して、茉莉は内心ほっとした。

「ま、とりあえず、」

壱和が立ち上がる。そして、

「茉莉ちゃんに壱和って呼んでもらえたからよしとしようか」

今度は気を取り直したように明るく言うと、壱和は帰っていった。


「……茉莉。あいつーー沢渡っていうあの男と、関わっちゃいけない」

風真は難しそうな顔をしている。

風真が心配しなくても、茉莉は壱和と関わるつもりはなかった。ただそれは壱和に対してに限ったことではないが。

「……ん。でも……そんなに悪い人じゃないと思う」

壱和が何を考えているか分からない。ぐいぐい来るし、少々デリカシーもない。けれどさっき、素直に謝ってくれた。

彼の言葉が核心を突いていて、それを乱暴にはぐらかそうとした自分に、きっと気付いていたにも関わらず。

そして今思ったのだが、最近壱和とは別のどこかで『沢渡』の名を聞いたような気がする。

どこでだったかーー


茉莉が何となく考える中、風真は手をぎりっと強く握り締めた。

茉莉のことでたしなめられるように言われるのは面白くない。

茉莉を差別する(たかむら)家の関係者達にも、自分が強く出られない養父(ちち)にも、裏切り者の兄にもーー

それがぽっと出の得体の知れない男になら尚更(なおさら)だ。


「あっ」


突然、茉莉が小さく叫んだ。

「どうしたの? 茉莉」

「っとね、沢渡って最近どっかで聞いたなーって思って。で、ほら」

茉莉が風真に手にした文庫本を見せた。その作者名にーー『沢渡 宗一郎(そういちろう)』と書かれてある。

「ここ一ヶ月で読んでた本の何冊か、多分この作家さんのだったんだ。どうりで」

茉莉は作家にこだわりがない。そのため作家名は意識していなかったが、本に触れている内にその名前は自然と目に入っていたらしかった。

「まあ珍しい名字だよね。あの男がその名字なのは、世界的に評価されている作家に失礼だけど」

『沢渡 宗一郎』は国内外で賞を取ったことがある純文学作家だ。

今は高齢のため執筆活動は控えめのようだが。


篁家の先代ーー茉莉の父方の祖父が読書家で、彼亡き後物置きに片付けられた蔵書を、茉莉は読んでいる。

現当主も義母も京華も本にはあまり興味がないようで、このことに関してはうるさく言われなかった。

昔は母からたくさんの本を与えられた。茉莉のーー友達として。本だけが友達で、本ばかり読んでいたが苦痛ではなかった。

茉莉は考えたことがなかったが、そういうところは確かに先代の血を引いていた。

また、先代は作家との付き合いもあったため、もしかしたら『沢渡 宗一郎』と交流していたかもしれなかった。


「そうだ茉莉、はい」


思い出したように、風真が茉莉にパックのお茶を渡す。


「あ、ありがと。じゃあご飯食べよっか」


茉莉の言葉に風真が腰を下ろす。

二人が座る非常階段に、ゆったりとした空気と時間が流れる。

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