温かな食事と冷たい決意
茉莉と共に篁家に戻った風真は、台所のコンロの前に立っていた。
料亭で何も食べていないので夕食を作ろうと思ったが、当主達が不在の今夜、おまけに使用人達の食事の準備も終えた現在、大した食材はなかった。
それに茉莉が疲れているように見えたので、風真はするすると食べられるようなものを作ることにした。
鍋の中で卵雑炊が煮えている。
ぐつぐつと音を立てるそれを見ながら、風真は料亭を出てから今までの茉莉の様子を思い返していた。
茉莉は矢島という男に襲われたことを一言も話さなかった。
颯馬の口から知ったこの件を事実かどうか確かめるすべはないが、颯馬が嘘をつく必要は見当たらない。
茉莉がこの件について何も言わないのは、きっと自分に心配をかけたくないからだろう。だから自分も何も聞かなかった。ーー聞けなかった。
茉莉が気丈に振る舞うことくらい目に見えているから。
それに認めたくないが、颯馬が茉莉を助けたことが想像できて、自分が情けなくなったからーー
昔の自分ならすんなりと受け入れられた。茉莉を守ることが出来る颯馬ーー兄を尊敬していた。いつか自分も兄のようになりたいと、颯馬を目標としていた。
でも今は、違う。
自分は強くなったと思っている。茉莉を守れるほどに強く。茉莉の側を離れ、彼女を悲しませてばかりの颯馬を軽蔑してさえいるのだ。
それなのに自分は茉莉を守れなかった。
周りの言うように、自分はまだまだ颯馬には敵わないーー
「ーー何をしてるのですか?」
鋭い声が風真の思考を遮った。振り返ると、台所の出入り口付近に五十代後半ほどの女性がいる。
「ここはあなたが入っていい場所ではありませんよ。当主様達が口にするものを作る場なのに、あなたのせいで穢れます。ましてや料理だなんてーー」
コンロの火を弱め、風真は冷笑した。
「な、何がおかしいの」
「すみません」
謝罪を述べつつも、棘を含んだ言い方になってしまった。
いつもは上手く流せるのに、今の自分は機嫌が悪い。八つ当たりだということも分かっていた。
「考え方が古いなぁと思いまして。遅くなりましたけど、台所を使ってもよろしいでしょうか?」
「だめよ、今すぐやめなさい」
「困ったな……」
言葉とは裏腹に、風真の表情には笑みが浮かんでいる。
風真はこの台所をしばしば利用していた。茉莉の夜食や軽食を作るために。
そのため、料理頭を含め料理を担当する使用人達には仕事を手伝う代わりに見逃してもらっていたのだ。
だが、今目の前にいる使用人の女は違う。正妻の腰巾着だ。それでも風真には余裕があった。
「僕もあなたのことを見逃すので、おあいこにしましょう」
「何を言ってーー」
「タバコは身体によくないですよ」
風真の言葉に、使用人の女の顔が青くなった。
「恵子さんって、タバコ嫌いですよね? あなたがタバコを吸っていることを知ったら、お怒りになると思うんですけど」
『恵子』とは正妻の名前だ。
風真は以前、この使用人の女が隠れてタバコを吸っているところを偶然目撃したのだった。
「あ、あなたの言うことなんて、誰が信じるものですか!」
この女にとってはまずい話だ。彼女は明らかに動揺した様子で、半ば叫ぶように言った。
「そうですか? 使用人の中でも僕を信じてくれる人が何人かはいますよ。何年もかけて信頼を得るよう努めてきましたから」
「……あなた、変わったわね。昔は自分の兄や妾の子の後ろに隠れてめそめそしていたくせに」
使用人の女の嫌味に対して、風真はにっこりと笑った。
「褒め言葉として受け取っておきますね」
風真はくるりとコンロの方に振り返り、火を止めた。二人分の卵雑炊を手早く食器によそう。
「料理が冷めるので、これで失礼します」
呆然と立ち尽くす使用人の女の横を通り過ぎて、風真は台所を出た。
※
「変わった、か……」
卵雑炊を乗せたお盆を持って茉莉の部屋へと向かいながら、風真は独りごちた。
あれは確かさっきの使用人の女だったか、と幼い頃のとある出来事を思い出す。
篁家に来て間もない自分が、兄の颯馬を探して不安の中、廊下を小走りしていた時のことだ。
「何ですか、騒々しい!」
あの使用人の女に、厳しく注意する口調で呼び止められた。
「あなた……久世さんの息子ね? 何て無遠慮なんでしょ」
呆れたように言われ、風真は泣きそうになって顔を俯ける。
「篁家に仕えているという自覚があるの? 全く……こんな子を引き取った久世さんの気が知れないわ。あなたの振る舞いは、久世さんに報告しますからね」
風真ははっと顔を上げた。養父である久世に迷惑をかけてはいけない。
幼心に分かっていた。実の両親が死んだ今、頼れる大人は久世しかいないことを。その久世に捨てられたら、自分だけではなく兄の颯馬共々、行き先の不安定な道を歩まなければならないことも。
再び風真は俯いた。様々な恐怖が押し寄せてきて、身体が小刻みに震える。
すると、
「ごめんなさい。わたしがふうまに気をつけるよう言っておきます」
不意に、女の子のはっきりとした声がした。風真がゆっくりと顔を上げると、前に茉莉と名乗った女の子が使用人の女の側に立っていた。
「茉莉さん? なぜあなたがその子を庇うのかは知りませんが、久世さんにきつく注意してもらわないと」
「どうして久世さんに言わなくちゃいけないの?」
茉莉の問いかけに、使用人の女が鼻で笑う。
「どうして、って。その子の振る舞いを正してもらうためです」
「この家に来たばかりの子供なら分からないこともあるでしょ? この家に前からいる大人のあなたが、いろいろと教えてあげればいいのに」
「なっ……」
「でもきっと忙しいだろうから、代わりにふうまのことはわたしに任せて。どうぞお仕事に戻ってください」
茉莉の態度は終始毅然としていた。使用人の女が面白くなさそうな顔を見せつつも、一礼する。
「では、失礼します」
使用人の女が風真の横を通り過ぎる時、苦々しく呟く声が風真の耳に聞こえてきた。
「母親に似て、男に取り入るのが上手なこと」
風真にはその意味が分からなかった。だけどそれは茉莉を傷つける言葉だと咄嗟に思った。
茉莉には聞こえていないだろう。それでも風真は気遣わしげに茉莉を見た。
「大丈夫? ふうま」
労わるような声音で茉莉が聞いてきた。風真はこくりと頷く。
「今の女の人、すっごくこわ〜い人だから注意してね」
少しおどけるような茉莉の言い方に、風真は安堵のあまり泣きそうになった。気恥ずかしくて、思わず茉莉から顔を逸らしてしまう。
「そうまを探してるの?」
茉莉の問いかけに、風真はこくりと頷く。
「そっか。じゃあ、一緒に探そ」
茉莉が風真の手を取った。びっくりしたけれど払いのける度胸もなくて、茉莉に手を引かれるまま風真は歩く。
「……ねぇ、ふうま」
「………………」
「わたしはあなたのお兄ちゃんのそうまほど、頼りにはならないけど、」
そう言うと、今まで前を向いていた茉莉が風真を見た。
「それでも少しくらいは力になれないかなぁ?」
風真は茉莉を見つめ返した。
何もかも見透かすような茉莉の瞳。兄のことしか信頼していない自分の弱さや心細さを彼女は理解している。
「もっとわたしのことも頼ってくれると嬉しいな」
この時の茉莉は、両親が死んでから毎日恐怖に押し潰されそうな風真を癒してくれるような笑顔だった。
「……ありがと……まつり」
初めて風真は彼女の名前を呼んだ。
茉莉のおかげで前よりも心強い気持ちになり、同時にひどく安心感を抱くことが出来た。
知り合ってまだ間もないのに、こんな自分を気にしてくれて、守ってくれてーー
ぼくはまつりのために、何ができるんだろう……
そう考えたけれど、生来の弱虫である風真は茉莉に守ってもらってばかりだった。
それじゃいけないと思った。変わらなきゃいけなかった。茉莉を守りたかったから。だから強くなった。強くなったと思ったのにーー
風真はぎゅっと歯を食いしばった。
颯馬からの評価は気にしなくていい。茉莉に認められてればいい。そう自分に言い聞かせる。
颯馬を意識している自分が嫌だった。あんな茉莉より京華を選んだ奴なんて。権力に媚びた男なんてーー
中学に上がると同時に、颯馬と風真の二人とも茉莉の付き人になるはずだった。
久世からそう聞いていたし、それまで京華とはほとんど関わらず、茉莉と一緒に過ごしてきたのだ。
それなのにーー突然、颯馬が京華の付き人に立候補した。
青天の霹靂だった。信じられなかった。自分を含め皆、颯馬が何故そんなことを言い出したのか分からなかった。
だが、誰よりも驚き、ショックを受けたのは茉莉だろう。茉莉は颯馬のことも風真のことも、彼女自身と対等な家族のような友達として大切にしてくれて
いたのだから。
京華はそんな茉莉の様子を見て面白がり、颯馬を採用した。
京華の付き人候補は他に数人いたし、久世の実子ならともかく、両親が生きていれば篁家とは何の関わりもない颯馬と風真のことなんて見下していたのに。
これは京華の茉莉に対する当てつけだった。今もずっと続くーー
風真は茉莉の部屋の前で立ち止まった。
「茉莉、入るよ」
「……あ、うん……」
お盆を一旦床に置き、障子戸を開けてから風真は茉莉の部屋に入る。
文机の前に座っている茉莉はぼんやりとしていた。
「おまたせ」
声をかけると、茉莉はようやく風真に気がついたようだった。
風真は食事をするための小さな座卓の上にお盆を置き、そのまま座卓を茉莉の近くへと持ってきた。
湯気の出る卵雑炊を見て、茉莉が目を輝かせる。
「おいしそう」
「どうぞ」
風真は茉莉と向かい合って腰を下ろした。
二人ともいただきますと言ってそれぞれお椀を手にし、食べ始める。
「おいし」
「よかった」
顔を綻ばせた茉莉を見て、風真も嬉しくなった。
「風真はほんとに料理が上手だよね。私は壊滅的に下手だし、颯馬も……」
雑炊を木匙で掬う手を風真は止める。
「ね、風真。覚えてる? 颯馬が作ってくれたおにぎりのこと」
「……覚えてるよ」
「すっごく大きくて、一つ食べただけでお腹が苦しくなったよね」
茉莉がおかしそうに笑った。風真の脳裏に颯馬が握ったおにぎりが浮かぶ。
しっかりと海苔に覆われた大きな丸い形。その見た目から風真は『爆弾おにぎり』と呼んでいた。
中に梅干しが入っていればいい方で、具材のないーーひたすら米といった時も多かった。風真には美味しいというより、茉莉が言うように苦しい思い出しかない。
それでも茉莉は喜んでいたな、と風真は思い出す。美味しそうに食べていたな、と。
「もう食べられないのかな……」
茉莉が少し寂しそうな表情を見せた。
「茉莉、ご飯粒ついてる」
風真は茉莉の気を逸らすように言った。そして茉莉の顔へと手を伸ばす。
「え?」
茉莉の口元についているご飯粒を取って、風真はそのままぺろっと食べる。
こんなことをする自分は狡いなと思う。どこについているか、場所を教えてあげればいいだけだったのに。
「ありがと」
茉莉が子供っぽく笑った。風真の行動に対し茉莉が照れるような素振りはなく。
昔からそうだ。茉莉は自分のことを弟のようにしか思っていない。昔はただ守るべき存在。それよりも今は成長したと思ってくれているだけマシだが。
茉莉が自分のことを異性として意識していないのは、昔から気付いていた。
茉莉が異性として好意を持っているのは、颯馬にだけーー
昔は茉莉と颯馬の二人のやり取りを見るのが好きだった。大好きな茉莉を、尊敬する颯馬に任せるのが自然なことだと思っていた。
ーー自分が甲斐性なしだったから、諦めていた。
だが努力して、颯馬が京華についた時からは一層努力して、成長した今はもうーー諦めない。
茉莉が颯馬のことを少しでも想わないように手を尽くす。
そんな自分を茉莉は狡い人間だとは微塵も思っていない。純真だとさえ思っている。
狡い自分を知られたくないーー
茉莉の笑顔が、今の風真の胸には刺さった。




