第九十六話 もう一回言ってください
それにしても、食べ物の力って偉大だな。
学校帰り、バス停までの道を先輩と並んで歩きながら、胃袋を掴むことによって、兄とのルームシェアを手に入れた希惟さんの事を思う。
定期的に先輩に手料理をご馳走したら、俺の恋も報われないかな?
ところで……。
お互いの指が、交互に絡み合うように繋いだ俺の手を、先輩が物欲しそうに指で撫でる。
な、何ですか? その色っぽい指の動き!
俺の視線に気付いた先輩が、マフラーに口元を埋めて、上目遣いを向けた。
何か察しろと仰っているような目……。
「あの、先輩……」
「ん?」
いや、そんな期待に満ちたキラキラの目を向けられても……! 俺は一体、何を求められているんですか!?
「何かして欲しいことありますか……?」
もういっそ、ストレートに聞く事を選択。
「俺に、言えってこと?」
それ以外何が?
先輩が俺から目を逸らし、頬を赤く染める。
「……やだ」
え? かわいい。じゃなくて。
「何で言えないんですか? ちゃんと言ってくれないと分からないです」
先輩の顎を引いて、俺の方に顔を向けさせる。
「な……お前、こういう事になると、いつもそうやって俺の事いじめるよな!?」
え? こういう事?
「本当は分かってるんじゃないの? 恥ずかしがる俺の事見て、そんなに楽しい?」
先輩の瞳が、戸惑いを表すように揺れた。
え? まるで俺を、人の嫌がる顔を見て興奮する変態みたいに……。
「……して」
うわ……やっぱり、近くで見る先輩きれいだな……。目の前で宝石を見ているようで、目がチカチカします。ところで、今、何て言いました?
「先輩、もう一回言ってください」
俺の要求に反応して、先輩の顔が沸騰したお湯のように熱くなる。
「何度も言わせるなよ!」
先輩は、怒っててもかわいい。
目の前の道路を、バイクが騒音と共に走り去っていく。
「……して。いつも俺からだし、文都からしてもらったの、一度だけだから」
どうしよう。
大事な部分が聞き取れなかった。
これ以上聞き返したら、本気で怒られそうだし……。
俺が、先輩に一度だけしかしていないのに、いつも先輩から俺にしている事……?
少ないキーワードで推理していると、なぞなぞをしているような気分になってくる。
「はっ……!」
まさか?
まさか先輩!?
「いいんですか?」
「あ、改めて聞くな」
「俺、ずっと遠慮して……」
先輩が俺を許してくれたのが嬉しくて、縋りつくように、先輩の腕を掴んで、肩に顔を埋める。
「遠慮する事ないのに。俺達、そういう関係なんだから」
「先輩はどういうのが、お好みですか?」
「え?」
先輩、俺に料理をご所望なんですね!
まさか、先輩の方から欲しいと言っていただけるなんて!
この機を逃すな文都! 先輩の胃袋を掴むんだ!
「どういうの……?」
寒いから、鍋がいいかな?
むしろ料理の知識がなくて、鍋しか思いつかない。
俺はチゲ鍋が好きだけど、先輩辛いの苦手だから……。
熱いのは大丈夫なのかな?
「熱いのは嫌いですか? 俺は痺れるようなのが好きなんですけど、先輩の舌、痛くなっちゃいますもんね」
まるで時が止まってしまったみたいに、先輩が硬直する。
「俺……そういうのは、想像してないんだけど……。お前、そんな激しいのが好きなの……?」
先輩? どうしてそんなに動揺しているんですか? 激しい?
大丈夫です。心配せずとも、先輩お好みの鍋を作ってみせます!
他とは違う、印象に残るような……。
「一度味わったら忘れられない、舌に絡みつく濃厚な……」
突然、先輩が顔を両手で覆い、しゃがみ込んだ。
「先輩?」
「……」
応答がない。
あれ? どうしたんだろう急に……。
「あ……嫌ですか?」
「嫌では、ない……」
先輩の隣に腰を落とし、目線を合わせる。
「いつしますか? 俺は、今からでもいいですけど……」
先輩が、ビクッと肩を震わせた。
「お前が、したいなら……」
潤んだ瞳が俺に向けられる。白い肌が紅潮し、困ったように下がった眉が、悩ましげな表情を作っている。
「でも、ここじゃ無理だし……俺の家で」
先輩、さすがに俺でもここで料理できないのは分かりますよ?
「はい。時間をかけて、じっくり」
「……」
先輩の頭から湯気が出る。
「お前がそういう事、俺としたいと思ってるなんて知らなかった。いつも手繋いだり、頭撫でたりするくらいだし、興味ないのかなって……。過激なのが好きなのも意外だし……」
過激?
独特の表現ですね。
「どうしよう……緊張してきた。お前、よく落ち着いていられるな。これから俺と、そういうことしようとしてるのに」
「先輩から教えていただいたので、上手くできると思います」
先輩の眉が僅かに動く。
「俺が、教えた?」
「はい。先輩の家で、料理」
「料理」
俺の顔を見つめたまま、複雑な計算をしてショートしたみたいに、先輩がフリーズする。
「あの?」
先輩が、突然スッと立ち上がり、スタスタと歩き始めた。先を歩く先輩を、慌てて追いかける。
「先輩!? 怒ってないですか!?」
「怒ってない」
「え? でも……」
先輩の胃袋を掴むという、俺の計画をへし折るように、先輩が言い放つ。
「料理はいらない」
「ウッ」
巨大な石が、頭上に落ちてきたような気分。
足元から冷気に冷やされながら、バス停でバスを待つ。
先輩は一言も話さない。
結局怒らせてしまった……。
でも会話噛み合ってませんでした? 先輩は、俺に何を求めてたんだろう。
前にもこんな事あったような気がするんだけど……。その時は、何と勘違いしてたんだっけ?
バスが到着し、先輩が先に乗り込む。
後ろで乗車の順番を待っていると、先輩が拗ねたような顔で、俺に振り返った。
「キスして欲しかっただけ」
「……へ……?」
キス……?
「……」
え〜……何だ先輩、そんな事なら早く言ってくださいよ〜……。
そんな事ならいくらでも……え?
「あの、俺、今日、歩いて帰りますね。頭冷やしたいので……」
頭というか、この煮えたぎるお湯のように熱い顔を冷やしたい。
「うん。気を付けて帰れよ」
先輩が名残惜しそうに俺の顔に触れ、
「俺、過激なやつは、まだ恥ずかしいから」と言った。
イタズラっぽく笑う先輩の顔が、閉じられたバスのドアで見えなくなる。
バスを見送り、その場にしゃがみ込む俺。
先輩……俺がそんなつもりで言ったわけじゃないこと、分かってて揶揄ってるんですよね?
そうなんですよね……?




