第九十四話 もしも戻れるなら
恋愛と食欲は似ているように思う。
満たされている時には気が付かないのに、無くなると恋しくなる。
食べ物に賞味期限があるように、これが期限付きの恋だったなら、与えられた期限がいつまでなのか、最初に教えて欲しかった。そうしたら、もっと大切に味わったのに。
先輩と過ごした日々が、走馬灯のように浮かんでくる。
先輩、酒に酔った御乱心のおじさんに、挑発するように暴言を吐くのはやめて下さい。先輩のきれいなお顔が殴られたら、俺の方が悲しくなります。
長時間、直射日光に当たるなんて無理も、もうしないで下さい。今度来る夏は、一緒にいられないから。
それから、初めて血を吸われた後、俺が先輩を避けたのは、俺のつまらない羞恥心のせいで、先輩のせいじゃありません。俺の血が先輩の体の一部になるのに、血を吸われる事が怖いなんて思いません。もうあげられないけど……。
先輩の特別になりたくて、守ってあげたくて、だけど先輩の寂しさに気付いてあげられなくて。
夏の夜に、先輩が俺に縋った本当の意味を、俺があの時、知ろうとしていたなら、もっと早く気付いていたのかな。
もしも戻れるなら、入学してまもなくのあの日に戻りたい。
そうしたら、先輩を叩いたりさせないのに。無理をさせる事も、俺の知らないところで、寂しさに一人で耐えることも、絶対させないのに……。
俺が恋愛をするなら、温かいものでお腹を満たした時の様な幸福感を、相手に与えてあげたい。そう思っていたけど……。
先輩、俺は、そうする事ができていましたか?
顔の上に、ポツポツと雨が降る。
すごいな、死んでからも感覚ってあるんだ……。滴が肌に当たる感じがリアル。まるで、まだ生きてるみたいに、大粒の雨が顔を濡らすのが分かる。
だけど……雨にしては……温かいような……。
ゆっくりと瞼を開けると、整った中性的な顔立ちと、光を帯びたような色素の薄い髪、透き通ったヘーゼルアイが目に入ってきた。
え……?
先輩の目から、絶え間なく涙の滴が溢れ、俺の顔の上に落ちた。
それは、この世に降る、最も美しい雨みたいに思えた。
泣いてる……? 何で……。
びしょ濡れになった睫毛に触れると、涙が俺の指に移った。
先輩が、泣く事しか出来なくなってしまったみたいに、涙を落とし、浅い呼吸を繰り返している。
「俺の為に、泣いてくれてるんですか?」
「死んだかと……思った……っ」
先輩が、乱暴に自分の目を拭う。
「あ……全然! 痛くないです! どこも! びび、びっくりしましたよね!? 俺も死んだかと……瞼を開けた瞬間、目に入ってきた先輩がまるで天使で、天からお迎えが来たのかと……」
ててていうか、これ、先輩の膝枕ですか!?
「文都……」
先輩が弱々しく俺の名前を呼ぶ。
「先輩……?」
「バカ!」
突然、強い口調で吐かれた暴言に、肩を震わせる。
「はい! すみません!」
反射的に謝る俺。
「バカバカバカ!」
「すみません! すみません! すみません!」
何この応酬……。
「痛くない訳ないだろ! お前……事故に遭ったんだぞ!?」
「あ……でも本当に、どこも痛くなくて……。車も減速してたし、日頃の行いがいいんですかね?」
それか、打たれすぎて打たれ強くなったとか?
「事故に遭ったのが俺で、良かったです」
先輩の頬に触れると、まだ目に涙を溜めたままの先輩が、俺の顔を両手で包んだ。
「何でこんな事……。俺の傷がすぐ治る事、知ってるのに」
「すぐ治るかどうかなんて、関係ないですよ。好きな人が目の前で怪我するのを、見ているだけなんて耐えられないです」
「お前、それが自分だけだと思ってるの?」
先輩は静かに、怒りと苛立ちを含んだ声でそう言った。
「え……?」
「お前が怪我をして、俺が何も思わないとでも? 本当に、死ぬかもしれなかったんだぞ?」
罵られる訳でも、蹴りが飛んでくる訳でもないのに、これが、これまでで最大級の怒りだと分かる。
「もう、絶対こんな事しないで」
先輩の手と声が、震えている。
「お前がいなくなる以上に、怖いものなんてないから」




