第九十一話 先輩が吸血鬼でよかった
帰宅した明かりが、町中を照らす頃に降り始めた雪は、止むことを忘れたように、世界をあっという間に白く染めた。
わー別世界。
先輩も雪見てるかな? いや、早く寝るって言ってたし、もう寝てるか。
窓に映る、街灯が雪を照らす幻想的な夜が、壁にかけられた絵画のように見えた。
時計の針は、間もなく日付けが変わる事を知らせている。
先輩、元気ないように見えたけど、大丈夫かな?今日、金曜日でよかった……明日学校あったら大変……。
冷たいベッドに潜り、うとうとし始めた俺を起こすように、スマホが先輩からの着信を知らせる。
え? 珍しいな、こんな時間に……。
「は、はい。先輩? どうしました?」
布団にくるまって、ベッドに寝そべったまま電話に出る。
「……ごめん。こんな時間に。起きてた?」
「はい、今寝ようと思ってた所です」
「あ、そっか……ごめん……」
ん? 二回も謝られたぞ?
何となく気になって、ベッドから体を起こし、枕元のライトを点けると、先輩が早々に通話を切り上げるような挨拶をした。
「じゃあ、おやすみ。邪魔しちゃって……」
「あの! 今、目が冴えちゃって、少し話しませんか?」
要件も告げずに切ろうとする先輩を、慌てて引き止める。
「あ……ほ、ほんと?」
胸を撫で下ろした時の吐息のような声に、先輩のほっとした顔が浮かんでくる。
「先輩は、早く寝るんじゃなかったんですか?」
「早く寝たんだけど、起きちゃって……」
何か、俺に用事があった訳じゃなさそう。
もしかして、眠れないのかな?
「雪、見ました? 外、すごくきれいですよ。真っ白で……」
あれ? 反応がないな。
「先輩?」
「雪は、見てない」
「あ……そうなんですね」
雪、結構前から降ってるんだけどな。
「こういう時、何話してたっけ?」
「どこにいる? とか、何してる? とかですかね。俺は今……あの……ていうか、先輩……」
俺、おかしいかな? こんな夜なのに。雪降ってて、交通手段もないのに。
「俺、先輩に会いに行ってもいいですか?」
シルエットのような葉の落ちた街路樹も、ブロックのオモチャを並べたようなコンクリートの建物も、何もかもが巨大な冷凍庫に入れられて、平等に冷やされているように思えた。
冷たい檻に閉じ込められたような、自分一人しかいないモノクロの世界を、走って、走って、走って……。肺が破れそうでも、足が折れそうでも。
先輩の家が見えると、高い塀の前で、小さくうずくまっている先輩が見えた。
「先輩っ、着いたら電話するって言ったのに……」
呼吸が整うのも待たずに、先輩の背中に触れてハッとする。
「震えてるじゃないですか! 早く部屋に……!」
抱き抱えるように体を起こすと、先輩に乗っていた雪が落ちて、冷え切った髪と頬が、俺の首に触れた。
「あったかい……本当に来てくれたんだ」
先輩が、雪と一緒に消えてしまいそうな儚い表情で笑う。
「遅くなってすみません」
「俺こそ、高校生にもなって、怖い夢見て雪の夜に呼び出すとか、最低……」
縋るように首に腕を回され、冷たく柔らかな感触が唇に伝わってきた。凍った体を溶かすように、強く先輩を抱きしめて、それに応える。
決められた事を淡々とこなすように、感情を持たないもの特有の冷たさのようなものを纏いながら、雪は降り続く。
「でも、文都が来てくれたから、もう怖くない」
俺は、何をしているんだろう。
冷静になってみると、ものすごく恥ずかしい。
先輩の部屋で、お借りした服に着替え、頭をタオルで拭き、お風呂上がりの先輩を待つ。
急激に襲ってきた羞恥心に耐えきれなくなって、顔をタオルで覆う。
寝ているご家族を起こさないように、先輩に言われるまま、部屋にコソコソ入ってしまったけど、俺、雪の降る夜中に、実家住みの恋人の所に押しかけるキチガイみたいじゃない? いや、図々しく先輩の事を恋人と言った訳ではなく。
それと俺は、どのタイミングで帰ろう。もしも泊まらせて頂いたなら、翌朝ご家族と挨拶をする事に? 一緒のベッドで朝を迎えて、なんて自己紹介すればいいの? 先輩の血ですって? 殺されない?
髪をタオルで拭きながら、悶々とする俺の元に、お風呂上がりの先輩が戻ってくる。
そして、そこを居場所に決めている猫のように、ベッドに座る俺の上に跨った。
「本当に大丈夫だった? お風呂入らなくて」
いや、お風呂上がりのいい香りが! 近い近い!
「大丈夫です! 着替えお借りしてすみません!」
「泥と雪でびしょ濡れだったから……転んだりした? あ! 怪我してないよな!?」
俺という椅子から降りようとする、先輩の腰を持って引き止める。
「してないです」
先輩から俺に寄り添ってくれたのに、まるで俺が先輩とくっ付いていたいみたい。事実だけど。
「先輩こそ、寒くないですか?」
「もう大丈夫。でも俺……お前と一緒にお風呂入りたかった」
「……」
また先輩はそういう事を……!
熱を移すように、先輩がベッタリと体を寄せて、俺にもたれかかる。
あったかい……何この癒し効果……。
いや、俺の方がリラックスしてどうする。
「落ち着きましたか? 怖い夢を見ちゃったんですか?」
「あ……本当にごめん。そんな事で呼び出して……」
「俺、そんな事なんて思ってないです。大丈夫ですか? 夢の中で巨大化した猫に襲われましたか?」
「巨大化した猫……?」
唸れ俺の想像力。
「何度も繰り返し見る夢があって」
先輩が、あまり気乗りしない様子で夢について話し出す。
もしかしたら、巨大化した猫の夢で呼び出したと思われるのが、心外だったのかもしれない。
「両親と乗った車が衝突されたり、家族で乗った車が多重事故に巻き込まれたり、パターンは色々なんだけど、毎回決まって雪が降ってる」
「……」
亡くなったご両親のことが思い出されて、言葉に詰まる。
「夢の中では、いつも俺だけが生き残るから。それが嫌で……」
俺の肩に頭を預けて、先輩は心細く呟いた。
上手く掛ける言葉が見つからなくて、先輩の頭をやさしく撫でる。
「両親が亡くなった日、その車に本当は俺も乗るはずだったんだ。俺の誕生日が近かったから、無理言って仕事場に連れて行ってもらう約束をして。だけど前日に出た熱が下がらなくて、家で留守番することになって……。その日はずっと、窓から雪が降るのを眺めてた」
小さい頃の先輩が、ご両親が早く帰ってくる事を願って、窓を曇らせる様子が思い浮かぶ。
「俺が、雪の中に両親を置き去りにしてしまったような気がして、怖くて」
じゃあ、さっき雪の中で震えてたのって、もしかして寒いからじゃなくて……。
「それにもし、父と母の事故に居合わせていても、俺は生き残ったと思う。夢と同じように、俺だけが。俺……何で吸血鬼なんだろう」
そうじゃなかったら良かったのにと、言葉が続くように思えた。
「もう、ないですか?」
先輩が、注意を受けて姿勢を正すように、俺から体を離す。
「あ……ごめん。急にこんな話して。本当はこんな情けない所見せたくないのに、俺、お前に弱い所ばっかり見せてるな」
濡れた髪を掻き上げた先輩の表情が、自分を責めているように見えた。
「それで全部ですか? 先輩が怖いもの」
タオルでやさしく先輩の髪を拭う。
「一人きりでいる事、ホラー、爬虫類、怖い夢、雪の日……その全部から、俺が先輩を守ります」
守られてやってもいいって、俺に言いましたよね?
「血を飲むことで、気分がよくなったりするんですよね?」
服に手をかけ、上半身をさらけ出すように、着ていたものを脱ぐ。
「俺は、先輩が吸血鬼でよかったです。先輩が吸血鬼じゃなかったら、こんな風に慰めることもできなかったし。俺から、先輩に分けられるものがあって良かった」
俺から目を逸らし、顔を赤く染める先輩を抱き寄せる。
「文都……」
「先輩、吸ってください。満足するまで」
「でも……」
「俺がそうして欲しいんです。俺を欲してる先輩を見せてください。血を吸う先輩を見れるのは、俺だけの特権だから」
「そんな事言われると、それはそれでやりにくいんだけど……」
「やめておきますか?」
不安の色が薄れて、血を求める欲求に忠実な、いつもの先輩が戻ってきたように思えた。
首元に小さな痛みが走る。
雪が降っているのも忘れて、俺の血が先輩の一部になっていくのを感じながら、静かな夜が更けていく。
血の熱で、先輩の心に残る不安を全部溶かしてしまいたい。
それが叶わないのなら、夜が明けるまで寄り添っていたい。
こうしている間は、二人でいることが保障されているような、何ものにも邪魔できないような、そんな気がするから。




