第八十八話 裏切らずに叶えて
俺の脳内で、メンデルスゾーンの結婚行進曲が鳴り響く。バラの花びらが舞い散り、教会の鐘の音が鳴る。二人を祝福するように、白い鳩が飛ぶ。
け、結婚!!? 何が何で、どうなって!?
頑なに、希惟さんとの交際を拒否していたのに、俺たちがここに来るまでに、何があったの?
希惟さんが、蝋人形のように固まっている。
いや、立ちすくむ姿が美しいな。
希惟さん、告白の返事をすっ飛ばされて、プロポーズされた心境はいかがですか?
希惟さんが、スマホを取り出し、どこかに電話をかける。
ん? こんな状況で、誰に電話を……。
希惟さんが、クールな表情のまま、業務連絡をするように、
「鬼ケ原、同性結婚を認めている国の国籍を取得する手続きを」と言った。
この機会を逃さないという強い意志を感じる。
俺の後ろで、先輩が、
「結婚……?」と呟く。
はっ……先輩!
突然、兄が兄にプロポーズした事に、さぞショックを受けて……。
「同姓結婚って、どうやってするんだ?」
先輩? 気にするポイントはそこですか?
「公都さん、国籍に希望はありますか? イギリス、フランス、オランダ……。アメリカなら、カリフォルニア州、ニューヨーク州……」
希惟さんが、ここぞとばかりにグイグイ進めている。成功する経営者はチャンスを逃さない。
「お前、何て残酷な事を……」
兄が、この世の終わりを告げられたかのような、悲壮な声でそう言った。
「公都さん?」
希惟さんが、兄の腕に触れ、
「私が、何か失礼な事をしましたか?」と聞いた。
「俺は、もうお前なしでは生きていけないのに……突然離れていくなんて……お前は悪魔か!」
悪魔じゃなくて、吸血鬼。
「俺のご飯!」
兄が、希惟さんの持つ荷物にしがみついた。
俺の、ご飯……?
ローテーブルを囲むようにして、床に座る俺たちに、兄が事の成り行きを説明する。
「差し入れなんて別にいいのに、でも貰えるなら食べるか、くらいに思っていたんだ」
すごい失礼な奴だな。
「それが、いつの間にか心待ちにするようになってしまった。いや、それどころか、それなしでは生きていけなくなってしまったんだ」
何か深刻な感じに言ってるけど、単純においしかったんだろ。
先輩と同じで、希惟さんも料理上手だったんですね。なんて素敵な兄弟。
「仕事をしながらも、頭の中はもう差し入れの事ばかり。今回は何かな?とか、この前のおいしかったなとか。それはもう、遠足前日の小学生のように、ウキウキワクワクソワソワ……」
仕事に集中しろ。
「ところが、定期的にあった差し入れが、文都と電話した日を境に無くなったんだ」
ほう……?
「帰宅する度、あるかな〜? ない。あるかな〜? ない。あるかな〜? ない……当たり前のようにあったものが、ある時、突然に失われた時の絶望、分かる? お別れも告げずに、同棲していた彼女に出て行かれ、その事実に日を置いて気づくみたいな」
人からいただいているものを、当たり前のようにあると期待するな。
「分かる? 無料期間が終わって淡々と月額を知らせる、アッ○ルミュージックを目にした時のような気持ち。一億曲が俺の手元を離れていった寂しさ」
有料プランで契約しろ。
「差し入れしてくれてたのが、実は亜蘭くんじゃなくて希惟だった事は、今日初めて知ったけど、そんな事はもう、些細な事に過ぎない。重要なのは、ここに俺のご飯があるという事実。あ〜恋しかったよ〜俺のご飯〜!」
離れ離れになっていた、恋人との再会を噛み締めるように、兄が差し入れを抱きしめる。
作った人、重要じゃないのかよ。それこそ重要だろ。お前、仮に理人が差し入れ作ってたら、理人にプロポーズしたのかよ。
理人が呆れた顔をして、
「そんな大袈裟な……差し入れくらいで……」と呟く。
「いや……理人、それには同意できない」
「甲斐くん?」
「俺には分かる。期待が裏切られた時の悲しみが」
「先輩のお弁当の事? 甲斐くん、半泣きになってたもんね」
「大体、一人暮らしの男に料理の差し入れはダメだろ! そんなの、惚れてしまうだろ!」
「じゃあ受け取らなければいいんだよ。大体、三日おきとか図々しいよ」
「期待を抱かせたら、裏切らずに叶えてほしい!」
「ピュアなハートを弄ばないでほしい!」
「何だこのバカ兄弟」
希惟さんが、申し訳なさそうに眉を下げ、
「すみません。仕事が忙しくて、作る時間が取れず……」と言った。
いや、社長が社員に差し入れ作れなくて謝るって、すごい状況だな。




