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第八十六話 可愛すぎる勘違い

 今にも雪が降ってしまいそうな、一面の灰色の雲。

 今週、一番の冷え込みを予想される今日だけど、俺の心は、蝶が舞う春の様に暖かい。なぜなら、先輩のお弁当が待っているから。お弁当を噛み締めて味わう為に、朝食も抜いてきました!


 バスの停留場で、先輩が肩を縮めて、白い息を吐くのが見えた。


 先輩、今日も変わらずかわいいです。

 まずい、先輩の顔を見たら緊張してきた。鎮まれ俺の心。平静を装うんだ。俺ごとき食材が、ガツガツしたら引かれてしまう。


 バスに乗車した先輩が、俺の隣に座る。


「おはようございます」

「おはよう」


 ツンとした表情の先輩が、俺と反対方向に顔を向けて、足を組む。


「今日は特に冷えますね」

「うん」


 顔を背けたまま、先輩が素っ気ない返事をした。


 あれ? いつもなら猫が甘えるみたいに、俺に寄りかかって、肩に頭を乗せたりするのに。

 ご機嫌が悪いとか? いや、機嫌が悪かったら、もっと分かりやすく無視されるはず……。


 足に置かれた先輩の手に、自分の手を重ねる。

 先輩の肩が、ビクッと震えた。


「わ、先輩、手が……」


 氷のように冷たい手を、両手で包んで温める。


「冷たい……大丈夫ですか? 今、俺の熱を移して……」


 ふと、目を移すと、俺の熱が過剰に移ってしまったのかと思うほど、先輩が顔を赤く染めていた。


「先輩?」

「だ、大丈夫だから」


 手を払われる俺。


 何か、様子がおかしくないですか?

 ところで先輩、お弁当は……。


「今日、乗客多くない?」

「え? あ、確かに、そうですね」


 雪は降らない予報ではあったものの、天気を心配してなのか、普段は歩きや自転車の人が寒さに屈したのか、停留場を迎える毎にバスの中が混雑していく。


「でも、もうすぐ降りるので」


 そう、もうすぐ降りますよ?

 先輩、お弁当は……。

 お忘れなのかな? 押しつけがましいけど、それとなく匂わせてみる?


「俺、先輩からいただけるの楽しみで、想像して夜眠れませんでした」

「なんっ……何で!? 何回かしてるだろ!?」

「そうなんですけど、また違った特別感があるというか……」

「まあ……確かに。人がいる所では初めてだから……俺も恥ずかしい」

「実は、朝も抜いてきました」


 ん? 急に静か。


 ふと、目を移すと、先輩が耳を疑う顔をして俺を見ていた。


「な……なん、なんで? お前、そういう趣味!? 俺に恥ずかしい思いさせて興奮するみたいな……」


 え? 何の話? 朝食を抜いたことで先輩にプレッシャーをかけてしまった?


「いえ、ただ俺は、ちゃんと味わいたいと思って……」


 俯いた先輩が、耳まで赤く染めプルプルと震えている。


「……ヘンタイ」


 なぜ?


 バスが、降りる予定の停留場に着く事を知らせる。


 あれ? 先輩、お弁当は……。


「あの、先輩……何か、お忘れじゃないですか?」

「忘れてない!」


 恐れ多くも、催促するように進言した俺の唇に、柔らかいものが当たる。


 え?


 奪うように俺の唇にキスをした先輩が、逃げ出すように席を立ち、バスから降りていく。


 え?


 その場で固まったまま、ドアが閉まるのを見届ける俺。

 降りるはずだった停留場が、バスの後方に流されていく。


 え? 先輩?


 真夏の太陽に長時間さらされたように、急激に上がっていく体温。


「朝から熱いね~」

「顔真っ赤」

「君、降りなくていいの?」


 一部始終を見ていた乗客に揶揄され、体温が上がり続ける。


 先輩? なぜ、このタイミングで?

 ていうか、お弁当は……?




「甲斐くん、ご飯食べないの?」


 昼休み。

 教室で、空腹のまま、ただひたすら先輩を待つ俺に、理人が問いかける。


 先輩、お弁当は……。


「ダイエット? 今朝、遅刻してきた時から様子がおかしいけど、また何か悩んでるの?」


 今朝はきっと、渡すタイミングがなかっただけなんだ。

 キスは、バスが揺れた時にぶつかっただけで……それで驚いて、お弁当を渡すのを忘れてしまったんですね!? あ、なるほど〜。


「甲斐くん、もうすぐ昼休み終わるけど、お腹空かないの?」


 先輩、大丈夫です! 待ってます! ずっと待ってます! 5分あれば、食べられます! 全然大丈夫です! 俺、先輩のお弁当が……。


 無情に鳴り響く予鈴。

 昼休み終了のお知らせ。


 お弁当が、食べたいです……。




 放課後。

 教室で、空腹でふらつく俺に、理人が問いかける。


「甲斐くん、大丈夫? 自制心を養う為の修行?」


 先輩、お弁当は……。


「いや、明日、明日かもしれないから……」

「何が明日なの? 甲斐くん、半泣きになってない?」

「理人、俺……欲しい……」


 先輩のお弁当が。


「何が欲しいの?」


 教室に俺を迎えにきた先輩が、問いかける。


「ごめん。昼休み、何か気恥ずかしくて、お前のところ行けなくて……」

「先輩……」


 ふらついて、先輩の肩に顔を埋める俺。


「……え!? 文都!?」

「欲しいんです、先輩の……。今すぐ、ここで」


 今日、何も食べてないから、空腹で頭が回らないな。


「へ!? い、今? ここで!? 今朝もバスでしたのに、お前、どれだけ欲求不満なんだよ。ここって……理人がいるのに……」

「はい……むしろ見せたいんです。理人や、兄にも。俺の|(お弁当)だって、自慢したくて……」


 先輩の腕をギュッと握る。


「文都……そんな風に思ってくれてたなんて、俺……」


 グウゥゥゥ。

 俺の腹から、空腹を知らせる雄叫びが聞こえた。


「え?」

「お腹、空きました」

「お腹空きました?」

「先輩、お弁当は……」


 俺の肩を揺らして、顔を向き合わせた先輩が、

「お弁当って何の事?」と聞く。


「お前、気遣いは無用だって断っただろ」

「え……昨日、いただけるって約束を……」

「もう誰かに頼るような年齢じゃないって」

「学校じゃ恥ずかしいから、バスで……」


 恐らく、俺と同時に、すれ違いがあった事に気付いたであろう先輩が、眉尻を下げて上目遣いを俺に向ける。先輩の頬が紅を刺したように赤い。


「バカ……キスして欲しいのかと思っただろ」

「……」


 胸を押さえて、床に倒れ、背中を打つ俺。


「甲斐くーん!?」

「文都!?」


 先輩、何でそんな勘違いを?

 あの……求められたらしちゃうんですか? 俺が欲しいって言ったら、そうやって何でも応えてくれちゃうんですか? 食材管理の責任があるから?

 それと、俺の事を、恥ずかしがる先輩に、バスの中でキスを求めるような変態だと思ってらっしゃるんですか?

 何より、結局お弁当は作ってくれるんですか?


 先輩……その可愛すぎる勘違い、心臓に悪いです……。

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