第八十五話 先輩がこんなに近くにいるのに
それから約二週間が過ぎ、外に出るのが躊躇われるほどに、本格的な寒さが身に染みるようになった、1月末の日曜日。
暖かい俺の部屋で、ベッドに座った俺の上に乗り、先輩は俺の血を啜っていた。首元に口を寄せて、うっとりとした目で、先輩が俺の血を堪能する。
ああ、先輩がこんなに近くにいるのに……。
息遣いや、俺に預けられた体重や、髪の匂いにクラクラしているのに、ただひたすら耐えることしかできないなんて……。
目を閉じて意識を他の事に向け、欲と戦う俺。
俺に恋愛感情のない先輩に、何かしようものなら、即幻滅されてしまう。集中、集中。他の事を考えろ文都。猫はかわいい、猫はかわいい、猫は……はっ。
ふわふわ猫さんの格好をした先輩を思い出し、顔が沸騰したお湯のように熱くなる俺。
ウワァーン! 逆効果! 何か違うこと違うこと!
「文都……」
艶っぽいリップ音を立てて、先輩が俺の首元から唇を離す。
「はっはい! 何でしょう!?」
もしかして俺の下心がバレた!?
「お前、最近不摂生してる?」
先輩が眉を寄せる。
「不摂生……?」
やけになって、夜遅くにカップラーメン食べたり、お菓子食べたりはしてましたけど。
「俺、太りました?」
「いや、見た目は変わらないけど、何か血が……」
え? 血の味って変わるの!?
「サラサラしてないっていうか……」
不満そうな顔をして、先輩がかわいい舌を出す。
血まで見放されたら、俺に何が残るの!?
俺の存在意義!
「マズいですか!?」
縋るように先輩の肩を掴むと、俺の気迫に驚いて、先輩が目を見開いた。
「いや、そうじゃなくて。俺、お前のことが心配で。ストレスとか溜まってない? ドナーから提供される血も、ドナーの精神状態によって味が変わるんだよ。だから、何かあったのかなと思って」
「せ、先輩……」
俺のことを心配してくださるんですか?
こんなにやさしさを頂いているのに、もう一人のものではない体に、俺はなんて馬鹿な事を……。
「お前、学校でお昼、何食べてるの?」
「パンとか、適当に買って……」
「俺、お弁当作ってこようか?」
お弁当!?
「で、でも先輩、ご負担じゃないですか?」
ベッドの上で、ガッツポーズをしながら飛び上がってしまいたい衝動を抑えて、平静を装う。
「兄から聞きました。三日おきくらいで、差し入れをいただいているって」
それは先週のこと。
夜遅く、カップラーメンを食べる俺に、兄からの着信が入る。
「何だよ、こんな時間に。俺、今ラーメン食べてるんだけど。伸びちゃうだろ?」
「へー? ラーメン食べてるの?」
兄のニヤニヤした顔が想像できて、イライラが募る。
「だから何」
勝ち誇った様に兄が、
「俺は今、亜蘭くんからの差し入れをつまみに、酒を飲んでいる」と言った。
「えっ?」
先輩からの差し入れ?
「羨ましいだろ〜?」
「この間、おいしすぎて早々に食べ切ったって言ってたのに……」
「三日おきくらいで、俺の部屋に差し入れしてくれてるんだよ。家に帰ると玄関のドアノブにかかってて」
「な……」
「あ、せっかくだから見せてやろうか?」
ビデオ通話に切り替わると、画面に、ホーローやガラスの容器に入った、彩りのいいおかずが映された。
「今回は、ラタトゥイユとキャロットラペ、煮込みハンバーグ、白菜と鶏肉のクリーム煮、ほうれん草のキッシュ。食材の値段も上がってるのに、毎回バランスよく作ってくれて……俺実家にいた時より、いいもの食べてるかも」
「ずるい」
自慢気な顔に挑発されて、画面を割ってしまいそうな気持ちになる。
「ヒヒッ羨ましいだろ〜? こんなに尽くしてくれるなんて、亜蘭くん、本当は俺のことを好きなんじゃない?」
「は?」
「あはは、冗談冗談。始業式の日以来、会えてないから、亜蘭くんにお礼言っておいて。後でお返しに、何でも好きなもの買うって」
先輩にだけは、財布の紐がゆるむ兄。
「じゃ、ラーメンの邪魔しちゃ悪いから、切りま〜す」
一方的に通話を切られ、スマホをベッドにぶん投げる俺。
という事があり……。
「三日おき? 差し入れ? 俺が?」
先輩が首を傾げる。
「え? 先輩じゃなかったんですか?」
じゃあ、あいつ、一体誰からの差し入れ食べてるの?
「お兄さんのファンが、差し入れしてるんじゃない?」
兄のファンなんて、この世に存在しないですよ?
「俺は、お兄さんよりお前の方が心配だけど。どうする? いるなら作るけど……」
「お気遣いは無用です。もういい歳ですし、一人でできますから」
申し出を、食い気味でお断りする。
先輩の手料理を、兄に食べさせてたまるか。
ご近所ってだけでも羨ましいのに。
「いい歳?」
「はい、もう誰かに頼るような年齢ではないので」
「自立してるな。でも別に俺……」
「先輩にご迷惑はかけられません」
俺から目を逸らした先輩の口元が、僅かに引き攣っている。
「あ……じゃあ……そういう事で……」
兄への差し入れは無用だと言われて、先輩が残念そうな顔を……?
何か無性に兄を殴りたい気分。
「あの、それで先輩……俺、期待していいですか?」
「え?」
「もしご負担でなければ、いただきたいです」
「何を……」
家の前の道路を、消防車がけたたましくサイレンを鳴らし、走り去っていく。
「最近、……足りてなくて、……もっと……したいし、先輩の……、大好きなので。口が先輩の……を欲しているというか、俺、先輩に……て欲しいです」
最近、栄養が足りてなくて、健康をもっと意識したいし、先輩の料理、大好きなので。口が先輩の手料理を欲しているというか、俺、先輩にお弁当作って欲しいです。
言ってしまったあー! 図々しくも言ってしまったあー!
「え? ごめん、よく聞こえなかった。俺に何して欲しい……」
クイズの答えが閃いた様に、ハッとする先輩。
「お前、欲求不満?」
欲求不満?
そういえば以前、欲求不満を解消すると誘われて、デカ盛りに連れて行かれた事が……。
「そうです! 俺、欲求不満です!」
先輩! 大正解です!
「そんな堂々と……」
「先輩さえ良ければ、明日、学校でいただけませんか?」
「がっ学校で? それは……」
あ、やっぱり負担なのかな……お弁当。
分かりやすく肩を落とす俺。
「えっ!? あ、文都? き……傷ついた……? 俺、嫌な訳じゃなくて、ただ学校じゃちょっと恥ずかしいから……」
「え? 先輩、上手なのに」
顔を赤く染めた先輩の頭から、蒸気が噴き出す。
そもそも先輩からの提案なのに。
あ、学校で渡すのが恥ずかしいってことですか?
「今じゃダメなの?」
「え? 今ですか?」
今からうちで作るってこと?
「もちろん、俺はいつでも嬉しいですけど、先輩、大丈夫ですか? やりにくくないですか?」
「何で?」
「もうすぐ、親が帰ってくるので」
夕飯を作る俺の親と、一緒にキッチン使うの気まずくないかな。
「あ……そ、そういう事……」
先輩? 何故に恥じらいを見せるんですか?
「あの、バスの中でも受け取れます」
「バスで……? わ、分かった……。頑張ってみる……」
この瞬間、俺の脳内で祝賀パーティーが開催。
思わず、自分が食材として管理されている存在という事を忘れ、先輩をギュッと抱きしめる俺。
「ありがとうございます!」
「う、うん……」
激しく脈を打つ先輩の心臓の音が、俺にまで伝わってくる。
お弁当を人に作るのって、料理上手な先輩でも緊張するのかな?
「お前、奥ゆかしいと思ってたのに、時々すごく大胆だよな」
「え? そうですか?」
「みんなに見られてもいいの?」
「もちろん! むしろ見せたいです!」
理人や兄に自慢したい!
「それって……俺が文都のものだって、見せつけたいみたい……」
え? 今何か言いました?
俺の胸で、先輩が小さく呟いた言葉は、脳内の祝賀パーティーにかき消され、俺の耳には届かなかった。




