第八十四話 先輩の恋人になりたい
「社長、ドン引かれて、甲斐公都さんからゴミを見るような目で見られたいですか?」
いつこの場に来ていたのか、不穏な空気を一刀両断するように、鬼ちゃんさんが辛辣な言葉を吐く。
「ゴ……ゴミだと……? 私が……?」
希惟さんが、わなわなと怒りに震えながら、鬼ちゃんさんに視線を向ける。
「はい、ゴミです。目の前にご馳走があるからと言って、人のものを了承もなく頂いてはいけませんよ」
包丁で切った血の滴る俺の指を、条件反射で咥えた先輩の立場は……?
あと、鬼ちゃんさんも了承なく、俺の腕にキスしましたけど、あれはいいんですか?
「鬼ケ原伊織……貴様、俺を愚弄しているのか?」
「頭に血が上っているから分からないんでしょうか? 助けて差し上げているのに」
部屋全体が冷やされていくような、冷たい視線を向けられているのに、笑顔のまま、一歩も引かない鬼ちゃんさんが一番怖い。
「甲斐公都さん、社長に求めるものは何ですか?」
「え? 賃上げ」
「そうです。突然のカミングアウトなど求められていないのです」
いや、賃上げって言った事スルー?
ところで、好きな人から賃上げを要求されるのって、どんな気分なんだろう。
希惟さんが深くため息を吐いた。
「鬼ケ原、帰るぞ」
「はい、社長」
鬼ちゃんさんが、冬の陽だまりのように笑う。
「え? 帰るの?」
兄が、置いて行かれた子犬のように、名残惜しそうな顔をした。
「希惟なんて来た早々じゃん。本当に帰るの?」
「……」
希惟さんが、胸を締め付けられているように、心臓を押さえて、
「無自覚に誘惑される身にもなってください」と言った。
「今度は亜蘭くんも呼んで、鍋パーティーしましょう」
「いいね〜」
ハイタッチする鬼ちゃんさんと兄。
この二人が仲良くなると俺の心配が募る……。
「手作りのお菓子持ち寄って、おうち男子会もしたいですね」
「何それ楽しそう。やる、絶対やる」
女子か。女子会か。
でも先輩の作ったお菓子が食べられそうなので、ぜひ企画していただきたい。
「いいですよね? 甲斐文都さん?」
「えっ? はい是非」
「番犬くんも、また会いましょう」
またという部分が強調された事に、憤りを隠せない理人が、
「メガネウサギ……絶対余裕のある顔を崩してやる……」と悪態をつく。
こうして、鬼ちゃんさんのフォローにより、希惟さんが吸血鬼だという事は、兄にバレないまま、引越し祝いは幕を閉じた。
週明けの学校で。
「あの時の希惟さんは、特に格好良かった」
「至近距離で、よく我慢できたよね」
放課後の教室で、希惟さんについて語る、俺と理人。
「先輩だったら、涎垂らしてるんじゃない?」
むしろ涎を垂らす間もなく、本能に従ってたよ。
「ああ、お預けをくらって我慢する先輩、たまんないだろうな……。目に涙を溜めた先輩に懇願されたい。そしたら、もっと意地悪したくなっちゃうなぁ。そっか……甲斐くんという食材がいれば、それも可能なんだね?」
「それは、俺が血を流す前提で話してるよね?」
俺を食材と言うな。
「何の話してるの?」
俺を、教室に迎えに来た先輩が、キョトンとした顔で聞いた。
はい、かわいい。
「自制心のある吸血鬼と、ない吸血鬼についての話」
「自制心?」
「先輩は、目の前で甲斐くんの血を見て、我慢できる?」
イメージを膨らませるように、理人が俺の手を取って説明する。
「想像してみて、甲斐くんの指先から滲んで、指を伝い、床に滴り落ちようとする赤い血を……」
「舐める以外の選択ある?」
さも当然の事のように、言い放つ先輩。
「我慢ができる、自制心のある吸血鬼は格好いいって、甲斐くんが言ってたよ」
「な……」
「言ってない! そうは言ってないだろ!?」
「お、俺だって我慢できる! 目の前で、文都の血が床に滴り落ちても……もったいないなんて、思わないし……」
段々とキレが悪くなり、声も小さくなる先輩。
「大丈夫です。先輩は我慢しなくて大丈夫ですから」
「でも……。お前が、その方がいいって言うなら、我慢できるようにしたいし……」
え?
それって、俺に好かれようと頑張ってるみたいですけど?
瞳を揺らし、恥じらいながら、先輩が言葉を繋ぐ。
「だって文都は俺の……」
俺の?
まさか?
まさか先輩?
俺のことを?
俺のことを実は?
「俺の血だから」
血?
「大切にしないと」
血って言われたの? 今。
頭が真っ白になる俺。
「俺が責任を持って管理する」
食材を育てる感覚?
ちょ……先輩? 今まで色々ありましたよね?
一緒にお風呂入ったり、一つのベッドで寝たり、キスしたり、ハグしたり、デートしたり……。夕暮れ時にブランコを揺らして、誓った約束に、先輩が天使のような笑顔を向けてくれた事も、まさか全て、血の管理だって言うんですか!?
「ウワァーン!」
「なんで泣く!?」
「甲斐くんが何を考えているか、手に取るように分かる……」
「文都? どうした? お腹減ってるのか? 泣くなよ……」
やけ食いしてやる。不摂生して、徹底的に血をいじめてやる。
ああ……先輩、俺は先輩の恋人になりたいです……。




