第八十三話 別にお前にドキドキしてる訳じゃない
「へー……じゃあ、こういう事されても耐えられるわけ?」
兄が、希惟さんの腰に腕を回し、体を密着させた。
美術品を愛でるみたいに、希惟さんの頬から首へ指を滑らせる。
「酔ってる相手に手出したら、格好悪いもんなぁ?」
おい! そんな風に、気安く触っていいお方じゃないぞ!?
なんてタチが悪い酔っ払いなんだ。
「公都さんこそ、耐えられるんですか?」
顔色一つ変えずに、希惟さんが兄に問いかける。
「は?」
「この距離で私といて、何とも思わないんですか? 公都さんが私の顔に見惚れてしまわないか心配です」
す、すごい自信だー!
だが事実、顔がいい。
「な……」
「酔っているからといって、年の離れた弟の友人を揶揄うのはやめてください。嫉妬します」
「嫉妬……?」
男でも惚れてしまいそうな顔の良さに加え、甘い反撃に狼狽えて、兄が希惟さんから体を離す。
「もう終わりですか?」
「う……」
希惟さんが、兄の腰に腕を回し、指を組んで手を握った。
「お、おい!?」
「期待させておいて何もしないなんて、残念です」
「……!?」
耳に息が当たる距離で、希惟さんが話を続ける。
「酔いが覚めてきましたか? つまらないな。強気な顔もかわいかったのに」
「はあっ!?」
兄の顔が、突然、熱せられた鉄のように真っ赤になった。
強気だった顔が、どこか頼りなさそうな、いつもの顔に戻っている。
「な、何言ってんの?」
「この顔と体を好きにしていいのは、公都さんだけですよ?」
「ぬあっ!? い、いやいやいや……とりあえず離してください社長!」
「そうやって境界線を引かれると傷つきます。私と公都さんの関係は、ビジネスだけですか?」
「シュンとすんなっ! マジで、一回離れて……。お前、顔が良すぎて、新たな扉が開きそうで怖い……」
捨てられた子犬のような顔をする希惟さんを見て、兄が眉間に皺を寄せた。
「あああ……。亜蘭くんみたいな可愛い子ならともかく、何でこんな高身長・高学歴・高収入、ハイスペックかつ、包容力と大人の余裕を感じさせる内面を持ち合わせた完璧な成人男性相手に、俺は絆されそうになってんの……?」
「ありがとうございます?」
「褒めてねえからな?」
褒めてるよ。めちゃめちゃ褒めてるよ。
「もう俺、酔い覚めたから……」
兄が、希惟さんの胸を押して距離を取ろうとする。
「酔いが覚めたと言う割には、顔が赤いですが」
「は?」
「私に惚れてくれたわけではないんですよね? そんな顔をされると期待してしまいます」
ボンッという音を立てて、兄が爆発。
「別にお前にドキドキしてる訳じゃないからね!? アルコールが分解されてないの! 分かる!?」
「では、そういう事にしておきます」
希惟さんが、今日は一際輝いて見える……。あの悪酔いした兄を前に、全く動じないなんて……。
ついこの前、激しくお怒りになって、俺を殺そうとした人とは別人のようですね。
床に置いた荷物を持とうと、希惟さんが腰を落とした。
「差し入れをお持ちしました」
「あ、亜蘭くんが言ってた俺のご飯? わーうれしー! 俺が持つ……」
兄が姿勢を屈め、同時に床に置いた荷物を持とうと、希惟さんが立ち上がる。
「あだっ!?」
「え?」
兄の顎に、希惟さんの頭がぶつかった。
鈍い音がして、兄が顔を歪める。
「いたたたた……お前、いきなり立ち上がるなよ。舌噛んじゃっただろ?」
兄がそう言って舌を出した。
血が滲んだ舌が、真っ赤に染まっている。
「やば。酒飲んだ後だから血止まんない。うおー何これ! 口ん中鉄錆の味! まっず」
ヒイッこんな至近距離で血を見せられたら、いくら希惟さんでも……。
「あ〜あ、お兄さんにバレちゃうね」
「あわわわわわわ」
希惟さんが兄を襲う未来を予想する理人。
額から冷や汗を流す俺。
兄の血を味わってみたいと希惟さんから聞いた時、今はまだ拒絶されるのが怖いと、希惟さんは話していた。
嫌われる事を怖がりながらも、希惟さんは兄に純粋に向き合っていたのに、こんな風に呆気なく崩されてしまうなんて。
兄の舌に滲む血に、希惟さんの目が奪われている。
飢えた獣のように、金色の瞳が爛々と光る。
希惟さんの手が兄の顔に近づき、口に親指が触れた。
「……何?」
「……」
ガリッ。
「大丈夫ですか?」
表情を変えずに、希惟さんが兄を気遣う。
「まあ、大丈夫だけど」
いや、何の音? さっきのガリッて。
絶対わざと、ご自分の舌噛みましたよね? 痛みで理性を呼び戻しましたよね?
「よかった……」
「おいおい、舌噛んだくらいで大袈裟だな」
片手で顔を覆い、俯いた希惟さんに、兄が手を伸ばす。
「私に触らないでください」
「え……?」
俯いた希惟さんの耳が、赤く染まっている。
俺には、本能に従ってしまいたい自分を必死に抑えているように見えた。
「な、何で急に怒ってんの……?」
「触れられたら、襲ってしまいそうで……」
「は……!? お前の欲情どうなってんの!? 俺、ケガしてるんだぞ!?」
兄が、希惟さんの顔の前で、血が滲む舌を出した。
希惟さんの目が釘付けになり、余裕の失われた顔が、みるみる赤く染まっていった。
お前……!? 希惟さんが舌を噛んでまで我慢したというのに……!?
「公都さん……俺は、あなたに言っていないことが……」
「え? 急に何のカミングアウト?」
「俺は……き……」
「き……?」
希惟さーん!?




