第八十話 明らかにキュン
今日から新学期が始まる。
アラームの音で目覚め、心地よい温もりが残る布団の呪縛から逃れて、朝の準備をする。
小言を言う兄がいないせいか、冷え切った朝の空気さえ、心地よく感じる。
バスの座席から、停留場でバスを待つ先輩を見つけて手を振ると、俺の姿に気づいて、先輩が手を振り返す。隣に立つ、兄と一緒に。
「何で先輩と一緒なんだよ」
馴れ馴れしい距離感で、先輩と乗車した兄に不満を言う。
「ご近所さんなんだから仕方ないだろ。丁度そこで会ったんだよ」
俺のプレゼントしたマフラーを首に巻いた先輩が、俺の隣に座る。
「昨日は、俺の兄が脅すような事言ってごめん。干渉するなって言っておいたから」
昨日ぶりの先輩が、雪の妖精のようにかわいい。
「いえ、先輩みたいな弟がいたら心配して当然です」
「本当、お前みたいな弟じゃなくて、亜蘭くんみたいなかわいい弟が欲しかったよ」
俺だってお前みたいな兄は嫌だ。
先輩が、吊り革に掴まる兄に顔を向けて、
「お兄さん、今週末予定ありますか?」と聞いた。
「ん? 何で?」
「作り置きのおかず、差し入れしてもいいですか? 仕事で忙しいと、ご飯の用意とか大変だと思うので」
「えっ……」
明らかにキュンとしている兄。
「えっ!? 先輩、こいつ忙しくな……」
「黙れ弟。俺は忙しい。めっちゃ忙しい」
「先週、年明け初出勤で週末引越、忙しかったですね」
「そうだよ、何でこんな時期に引っ越したんだよ」
「1月上旬は、引越料金がお値打ちみたいだから」
相変わらず、金に対する事には抜け目ないな。
「それにしても、何でお前みたいな奴が、こんないい子と付き合ってるんだろうな」
だから付き合ってない。
俺も信じられないけど、まだ付き合ってない。
「俺と立場交換して。俺が亜蘭くんを幸せにする」
「おい。お前、冗談でもそういう事言ってたら、弟として見てるって通用しなくなるからな?」
やっぱり兄と先輩がご近所さんだと、交流が増えそうで心配だな。
後で全部バレたことも理人に話さないと……。
兄と別れて、先輩と学校までの道を歩く。
校門をくぐった所で、前を歩く黒髪の長身が目に入った。
ポケットに手を入れ、気怠そうに歩く様子が、冬休み明けの登校に、億劫を感じているように見える。
「理人!」
俺の呼びかけに振り返った理人が、目を見開き、その場から逃げるように距離をとった。
俺の隣にいた先輩が、理人に向かって飛び蹴りを繰り出し、華麗に着地したのは、その直後。
「え?」
「おい! 避けるな犬!」
「おはよー先輩、甲斐くん。新学期もよろしく」
何事もなかったかのように、挨拶する理人。
「びっくりしたー何かした? 俺」
「お前が文都を蹴ったって聞いたから」
「先輩!?」
それで突然、飛び蹴りを!?
「それはもう大分前のことですし、わざとやった訳じゃなくて……」
「え? 俺、甲斐くんのこと蹴った? いつ?」
お前は覚えてないのかよ。
「とにかく大丈夫です。理人は一応いい友人です」
「一応?」
「え? そうなの? ならいいけど、何かされたら言えよ。やり返すから」
とんでもない方向に先輩の言葉を理解した理人が、
「甲斐くんを虐めれば、先輩に構ってもらえるのか」と呟く。
新学期早々、命の危機を感じる俺。
「それで、先輩にバレちゃったんだ?」
教室で、昨日の報告をすると、理人は半分呆れたように、そう聞いた。
「先輩の家を、マフィアの家扱いした事までバレて、先輩と希惟さんからは冷めた目で見られ、兄からは暴言を吐かれ……」
「あはは」
「笑ってる場合じゃない。俺は、先輩と兄の仲がこれ以上深まらないか心配だよ。今週末も、先輩が兄に手料理を差し入れするって言ってたし」
「それはずるい」
「羨ましい」
不公平な境遇に捻くれる俺に、理人が提案をする。
「行っちゃおうか、今週末」
「兄の所に?」
「うん。お兄さんに引越祝いって言って、お酒飲ませて酔わせて、代わりに先輩から差し入れ受け取って、俺たちで食べちゃおうよ」
罪悪感など一切ない様子で、さらりと話す理人。
「な、何という悪魔のような提案……」
「あはは。悪魔? いや、そんな事ないって。お兄さんの引越祝いもできて、一石二鳥じゃん。代わりにスーパーのお惣菜とか詰めとけばバレないよ」
「そ、そうかも? あいつ、お酒好きだし……」
悪魔の囁きに屈し、悪事に加担する意思を示してしまう俺。
「じゃあ決まり〜、今週末、お兄さんの家に、先輩より早く来てお祝いするって事で」
大丈夫かな……なぜか嫌な予感が。
そもそもあいつが酔っ払った所、見た事ないんだけど……。
まあ、でも理人がいるし……。
この時、俺はこの不安が的中する事になるとは、思いもよらなかった。
悪魔の囁きに耳を傾けるべきではないと悟る事になるとは、思いもしなかったのだ。




